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最上巴さんのこと
                                 S47年卒 井手 浩一


 陸羯南(くが・かつなん)は明治の代表的な新聞人であり、正岡子規の公私に渡る大恩人でもある。もし彼の庇護がなければ子規の生命はもっと早く尽きていただろうし、晩年の三大随筆や短歌・俳句も大半は生まれなかった可能性が高い。その羯南には七人の娘(長男は夭折)があるが、三女が最上巴さんである。明治26年2月13日に生まれ、平成3年12月7日に亡くなっている。実に98歳。亡くなる数年前の写真を見ると実に凛とした、堂々たる明治の女性、という風格が漂っている。
 最上巴さんは女性として初のフランス語の国家検定合格者であり、その能力を生かして森鴎外の娘さん(杏奴)の家庭教師を務め、レッスンを晩年の鴎外が傍で聞いていたという微笑ましいエピソードが残されている。
 そんなことよりも、子規の『仰臥漫録』には美しいチマチョゴリを着た隣家の少女の話が挿絵付きで現れるが、それが当時8歳6月の彼女だった。衣装は嫁ぎ先に持って行ったばかりでなく今日まできちんと保存され『子規選集』第一巻の口絵を飾っている。
 子規は肺病病みだったから一応「近づかないように」とは言われていたが好奇心一杯の子供のこと、陸家に当時珍しかった台湾のバナナなどの到来物があると、彼女が持って行ったこともあるという。子規の方も「上がってらっしゃい」と言い、枕元近くで陸姉妹がお絵かきに興じたこともあった。彼は一生家庭には恵まれなかったが、晩年の凄惨な闘病生活にもこんな時間があったことを思うと、フッと心和むものがある。

 芙蓉よりも朝顔よりもうつくしく
 椎の実を拾ひに来るや隣の子  子規






 

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