新居浜小児科医会30周年記念講演会
日時 平成10年10月31日

於ユアーズコープ

        マナベ小児科    真鍋豊彦

T.はじめに

  新居浜小児科医会30周年記念会で、「新居浜小児科医会の今昔」と題し、お話しさせていただく機会をお与え下さった渡辺敬信、松浦章雄両幹事はじめ、会員の方々に厚くお礼申しあげます。
  幸い、新居浜小児科医会の記録は3冊の記念誌に詳しく残されております。本日はそれらの記録と私の個人的な記録を織り交ぜ、思い出してみたいと思います。また、30年間に私たちを取り巻く医療環境、特に医療制度や社会保険制度が大きく変わりましたが、その中から、特に忘れがたい改正などについて皆様とともに考え、それらを通して、今後の小児科医の生き方やあり方、更には新居浜小児科医会への期待などをお話しできればと思っています。資料(1−省略)の順序でお話しさせていただきます。


U.新居浜小児科医会誕生の思い出

  世の中の変化とは、誰かが小さな一歩を踏み出すことから始まります。
今にして思えば、新居浜小児科医会の発会は、当時の新居浜医師会にあっては、まさに小さな一歩の踏み出しであり、変化の始まりでした。その後、他の科の勉強会も次々と結成され、会員の生涯教育に大いに貢献していることはご案内のとおりであります。
  爾来30年間、毎月1回、1度も休むことなく開かれていることについて、発会に携わった者の一人として、大変嬉しく思う次第であります。
 第1回定例新居浜小児科医会は、昭和43年10月15日でした。既に31年目が始まっております。
 尤も、それを遡ること15年、昭和28年頃から東予地区在住の小児科医が不定期に集まっていたことが記録として残っております。詳しいことは記念誌に掲載されていますので、ご覧いただきたいと思います。
 新居浜小児科医会が発足した時の会員数は16人でしたが、そのうち、5人の先生方が他界されております。改めて故人のご冥福をお祈りいたします。
 ところで、昭和43年と言いますと、 学園紛争の真っ只中で、青年医師連合がインターン制に反対して医師国家試験をボイコットしたり、東大医学部自治会の無期限スト突入事件などがありました。また、忘れられぬ事件として、札幌医大で日本初の心臓移植手術が行われました。水俣病や阿賀川の水銀中毒、九州地域で起こったカネミ油症事件が起こったのもこの年でした。
 また、川端康成のノーベル文学賞の受賞決定、元阪神タイガース江夏豊投手のシーズン奪三振383の世界記録達成などがありました。
 これらは30年前のでき事ですが、ついこの間のことのように思われます。
私は、この年、昭和43年の7月1日に開業しましたので、マナベ小児科は、新居浜小児科医会と同い年ということになります。
 開業時、私の年齢は33歳でした。
 開業までの2年有余、私は住友別子病院にお世話になりました。当時、科長として矢部金次先生、同僚に三崎 功生、篠原文雄先生がいらっしゃいました。いつも4人で仲良く、ミニ小児科医会をわいわいやったことを懐かしく思い出します。
 一方、院内でも毎月1回、木曜日の午後、全科休診し、カンファレンスを開くことになりました。これはその頃の住友別子病院としては、画期的なでき事でした。
 全科の午後休診などもってのほかという雰囲気があり、事務局の強い抵抗があったことを思い出します。
新居浜小児科医会発足時、最も若い私が幹事役を仰せつかりましたが、私を推して下さったのは矢部金次先生でした。恐らく、住友別子病院のミニ小児科医会の新居浜地区への拡大をお考えになってのことでしょう。
 人は誰でも何か役を仰せつかると、一生懸命にがんばるものです。私も同様で、会を三日坊主に終わらせないことと、例会の記録(抄録)を残すことに懸命でした。
 その後、幹事役は、三崎先生、渡辺・松浦先生へとバトンタッチされ、今日に至っていますが、三日坊主どころか、このたび、めでたく30周年を迎えることができ、また、既に100回毎に記念誌が発行されており、私にとりましては、望外の喜びと言わざるを得ません。
 新居浜小児科医会の目的は、第1に会員相互の研修であり、第2に会員の親睦であります。運営方針は、発足当時も現在も基本的には変わっておりません。最近では、その上に、毎週の感染症情報の収集、提供や小児の保健医療に関し、医師会や行政へ提言なども行っていることはご案内のとおりであります。資料(2−省略)は松浦先生のお手を煩わせた新居浜小児科医会活動記録の続編です。


V.小児科医会の発表者分類

  資料(3‐省略)は、発表者を勤務医、開業医、招待講演の3つに分類し、それを100回単位、ほぼ8年毎にみてみました。ご覧のとおり最初の頃は開業医の発表が多かったのですが、最近は勤務医におんぶしていることがよくわかります。発表者の横綱は藤田千春先生で39回、大関は高橋貢先生の28回、関脇は加藤文徳先生の24回でした。


W.新居浜小児科医会の調査研究事業

 新居浜小児科医会は定期的な勉強会以外に、過去2回、広範な調査研究事業を行い、学会発表とともに雑誌に投稿いたしました。
 これは本会にとっては記念すべき大仕事であったと思います。その一つは昭和45年の手足口病流行時の疫学調査であり、もう一つは最近、新居浜市の中学生を対象に実施した麻しんの抗体検査であります。
 時間の関係でご説明は省略させていただきますが、組織として、やろうと思えばこんなこともできるんだな、と今更のように皆様方のご理解とご協力に感謝する次第です。


X.8年前の奇跡的な大事件

  K.Y.先生が第300回記念誌に「平成2年6月の出来事」という題名のエッセイを載せていらっしゃいます。あの大事件は、正確には、8年前の、平成2年6月20日夜の定例小児科医会の日に、突然起こりました。
 ご本人を前にしてお話しするのはどうかと思いますが、ご了解を得ておりますのでお話しさせていただきます。
 会も終わりかけた頃、今までしっかりと質問などをしていらっしゃった先生が、急にものを言わなくなり、ぐったりしてしまわれました。どうしたことかと、皆さんが駆け寄った時には、既に心停止の状態で、意識も全くありませんでした。
 何が何やらわからぬまま、皆さん、持てる知識と技術を総動員して、慌しく救急処置にとりかかりました。
 幸い隣室で夜間当番の内科のM.I.先生、S.Y.先生が心マッサージや人工呼吸を続けてくれるなか、やがて来た救急車にM.I.先生が乗り込み、十全総合病院へ運ばれました。そこで待機中の、元同僚の先生方の懸命な救命処置により、奇跡的に一命を取り止められました。命だけでなく、何の後遺症もなく回復されたことは奇跡と言わざるを得ません。
 あの日、あの時刻、あの場所で、小児科医会の会議の最中に、突然の心停止が起こったことは、まさに不幸中の幸いでありました。僅かでもそれを外れていたらと思いますと、天運とは実に不思議なものです。私たちが、その場に居合わせ、救命にかかわることができたのも、小児科医会の存在のお陰です。奇跡を生んだのは、まさに小児会医会があってのことでした。30周年に当たり、このことを皆様とともに天に感謝したいと思います。 


Y.新居浜小児科医会の記念会と記念誌発行

  ご案内のとおり、新居浜小児科医会は節目ふしめに記念会を催したり、記念誌を発行してまいりました。その時々のことを写真や会誌を読みながら思い出しますと、本当に感無量なるものがあります。資料(4‐省略)に一覧表と私の感慨を述べさせていただいております。


Z.懇親会の数々

 資料(5‐省略)は懇親会場の一覧表と私の感慨を述べさせていただいております。これを見ていますと、"昔ありし家は稀なり"という方丈記の一節が思い出されてなりません。


[. 武見太郎元日本医師会長の思い出

 ところで、私たちは今、医療と言えば保険医療のことだと考え、どっぷりと保険医療に浸かっております。
 私は、長らく愛媛県医師会の役員を務め、色々と勉強する機会を得ました。特に、元日本医師会長武見太郎先生の講演を聴いたり、著書や論文を読んだりして教えられるところ大なるものがありました。
 余談でありますが、私の人生にとって最も幸いであったことは、武見太郎先生と同じ時代に生を享けたことであると思っています。
 そこで、忘れられぬ思い出を一寸ご紹介させていただきますと、昭和55年8月、武見会長が日本医師会の理事に対し、試験問題のようなものを出しました。愛媛県医師会からは、代表として私のまとめた解答を提出しましたが、その解答が、たまたま当たっていたことであります。
 テーマは「医師の権利保護ーことに健保法の下における現状の認識と将来の改革の方向でした。全都道府県医師会から立派な解答が寄せられましたが、その中で、私が
 「医療は本来、医師と患者との直接的な自由な契約(自由診療)に基づいて行われるが、国民皆保険制の現在、医師が保険医登録をするか、しないかの選択の自由は殆ど残されていない。これを附従契約(附合契約)と言う。保険医登録そのものが医師の権利の束縛につながり、保険医は医師としての医業権の制約を受ける。」
 と書きました。
 この「附従契約」について言及した解答は私一人であり、武見会長もこの解答にご満足であったことを、当時、日本医師会副会長職にあった吉野章愛媛県医師会長から知らされました。後日、日本医師会雑誌の議事録でそれを確かめました。(日本医師会雑誌・第84巻第7号:832〜852頁、昭和55年10月1日)
 今回、そのときの原稿や資料を読み返し、私は、今さらのように、「保険医」には権利などはないのだな、と改めて思う次第です。
 武見先生は、昭和56年3月に引退されました。その翌々年(昭和58年)4月、理化学研究所が住友重機に発注していたサイクロトロンの視察のため、新居浜にお出でになり、その帰途、松山に立ち寄られました。胃がんの手術後の経過も順調とのことでしたが、昔のでっぷりとした面影はありませんでした。
 松山では、お出でになるといつも旅館「中村」(小児科医会10周年会場)にお泊りでした。そこで開かれた懇親会が終ってから、私は先生のお部屋へ厚かましくもお邪魔し、ご著書である"医心伝真"にサインをしていただきました。床の間には、女将の心配りか、武見太郎先生揮毫の掛け軸が飾られていたことが目に浮かんでまいります。ここに持ってきましたのでご覧下さい。武見先生は、その年の12月に亡くなられました。享年79歳でした。
 余談が長くなりましたが、昭和40年代から今日までのわが国の保険医療史の中で、保険医として、決して忘れてはならないエポックメーキングな保険制度の改正やその裏舞台などについて一寸ご紹介させていただきたいと思います。


\. 昭和40年代の保険医療史

 保険医療史は、厚生省と日本医師会との闘いの歴史でもありました。正確には、自民党と厚生省の試行錯誤の連続、別の言い方をしますと実験の繰り返しであったと思います。
 ●「暁の団交」
 皆様は「暁の団交」をご存じでしょうか。保険医と保険医療機関の「二重指定制」を知らない方はいないと思いますが、その本質的なことについては、案外無関心、あるいは、先ほどご紹介した「附従契約」のため、当然と思っていらっしゃるのではないでしょうか。
 この制度は、治療する保険医とその治療の場である保険医療機関を、国が別々に管理するというものです。どちらが欠けても保険では患者を診ることができないという二重しばりの国家管理制度です。実に馬鹿げた制度です。保険医であれば、どこで患者を診てもいい筈ですが、卑近な例として、私なども、診療所が別のところにありますから、自宅では患者を診ることができないのです。
 厚生省の元役人に言わせますと、この「二重指定制」は、不正請求対策であったとのことです。不正請求をした診療所の保険医登録を取り消しても、別の保険医を連れてきて診療する。これでは鬼ごっこだというので、医療機関にも保険指定を行い、不正があったときに指定を取り消し、その医療機関で診療できないようにする、これが「二重指定制」の狙いであったというのです。
 この法律は昭和32年3月に成立しましたが、「二重指定」の実際的な処理は政令、省令に委ねられていました。
 法律改正の直後の4月に、日本医師会長に選ばれた武見会長は、就任早々、この法律は、医師の専門的な裁量権を色々と制限しているとして強く反対を表明しました。
 早速、「二重指定制の骨抜き」のため、法律家のバックアップのもとに、大きな政治力を発揮し、政令、省令が出る、まさに直前に修正させました。
 4月27日午後から翌朝の4時まで延々15時間にわたり、厚生省と日本医師会が、この「二重指定制」に関する政令、省令の手直し作業を行いました。これを後々、「暁の団交」と呼ぶようになりました。
 もともと、この政省令原案には、@1人の医師が1日に診る患者数は内科25人、皮膚科、耳鼻科30人などと制限したり、A診療科や患者数に応じて必要な保険医を置くべし、などの制限がありました。それら多くの制限規定をことごとく削除させました。
 政省令が発令されたのは、「暁の団交」から1日あとの4月30日でした。まさに劇的な改正であったと思います。この改正の恩恵を、私たち保険医は、当時も今も等しく受けている訳ですが、あまり知られていません。保険診療には今でも色々と制約がありますが、この骨抜きがなかったら、もっともっと惨めなことになっていたと思います。
 一方、国保の方は別でして、説明は省略しますが、「二重指定制」にはなっていません。
 次に国民皆保険制についてお話しさせていただきます。
国民皆保険と合意4原則
 ご存じのように昭和36年に国民皆保険制が実施され、国民はどれかの保険に入ることになりました。
 この制度ができるまでには、紆余曲折がありました。一々は申しあげませんが、日本医師会は国民皆保険制に賛成する代わりに、保険医の「一斉休診」をしたり、「保険医総辞退」をやるぞ、やるぞと言いながら、政府、自民党と数多の取引をいたしました。その頃の記録を読みますと、自由診療に慣れていた医師(開業医)の多くは皆保険制実施に戸惑い、食べていけなくなるのではないかと不安を募らせていたことがよくわかります。
 このような不安定な状態の中で、政府、自民党は、後の総理大臣、田中角栄政調会長を中心に日本医師会と折衝を重ね、資料(6‐省略)にありますような4項目からなる覚え書きを取り交わし「保険医総辞退」を回避いたしました。
 武見会長時代の24年間、日本医師会は事ある毎に、この合意4原則が何一つ実現されていないとして、政府、自民党を攻め続けることになります。私自身、これをいつも呪文のように唱えていたことを思い出します。
 @医療保険制度の抜本的改正
 A医学研究と教育の向上と国民福祉の結合
 B医師と患者の人間関係に基づく自由の確保
 C自由経済社会に於ける診療報酬制度の確立

 この合意文書は、田中政調会長が「保険医総辞退」の収拾条件を武見会長に白紙委任し、武見会長が4項目にまとめたものです。これは全く異例のことです。政府、自民党が白紙委任状にめくら判を押したようなものですから。
 当時としては、権力の中枢にあった田中政調会長と日本医師会のドンと言われた武見会長との親密な関係を裏付けるものとして、大いに喧伝されたということです。
 この「保険医総辞退」収拾後、保険医にとっては大きな収穫がありました。主な制限診療が撤廃されることになったからです。抗生物質の使用基準など、厳しい制限は事実上撤廃されたのであります。
 次に伝家の宝刀が抜かれた「保険医総辞退」突入事件について触れてみます。
保険医総辞退突入
 昭和46年7月1日から1ヶ月間、日本医師会は「保険医総辞退」を実施いたしました。きっかけは、診療報酬改正問題を審議していた中央社会医療協議会に提出された「審議用メモ」でした。
 このメモには、病院・診療所の別料金制、包括制、逓減制、薬剤費の削減などの改正点が羅列されていました。
 これに対して、武見会長は、将来の医療の統制強化につながるとして、全国の医師会に指令を出し、最終的には1ヶ月間の「保険医総辞退」をやった訳です。
 これは日本医師会の空前絶後の実験であり、もう2度と決してやることはないと思います。日本医師会にとっても、第一線医師会員にとっても全くメリットのないことがわかったからです。伝家の宝刀を抜いてみると竹光であった、というのが真相です。以後、日本医師会は「保険医総辞退」を口にすることはなくなり、今では、「保険医総辞退」という言葉は、死語のようになっていることからもわかります。


].零歳児医療費無料化から3歳未満児医療費無料化

 ご案内のとおり、愛媛県では昭和48年から零歳児医療費無料化が実施され、定着していました。
 3年前の平成7年4月、対象が3歳未満児までに拡大されました。これは我々愛媛の小児科医たちの、悲願であり夢のような制度改正でした。
 これの恩恵に浴したのは、愛媛県に住む子どもたちであり、また小児医療に携わる私たち小児科医でした。特に、1年後の平成8年4月から、小児科外来総合診療料、いわゆる"丸め"が小児科保険険診療に導入され、そのメリットがはっきり現れたのはご案内の通りです。
 愛媛県小児科医会が設立されたのは、今から15年前の昭和59年1月でした。以来約10年間、その内部に蓄えられたエネルギーが一気に爆発し、3歳未満児医療費無料化実現へのイニシアテさィブとなったのであります。
 もしも、この愛媛県小児科医会という組織がなければ、無料化拡大は決して実現しなかったと思います。時間の関係で詳しく述べることはできませんが、この制度実現に大英断を下したのは、3期目の伊賀貞雪知事でした。このことを私たち愛媛の小児科医は決して忘れてはならないと思います。
 現在、次期の知事選挙のことで、マスコミは色々と報じていますが、私は、伊賀貞雪知事が誰よりも小児医療のよき理解者であり、味方であると信じております。
 愛媛県小児科医会のメンバー以外の方もいらっしゃいますので、ご参考までに、3歳児医療費無料化に関しまとめたもののコピーを用意させていただきました。お暇なときにご覧ください。資料(7‐省略)

追記 平成11年1月3日の愛媛県知事選挙で、伊賀貞雪知事の四選はなりませんでした。


]T.小児科医業30年を顧みて

 最後に、小児科開業医生活30年を、医業経営の面からまとめてみました。私個人の記録に過ぎず、生臭くてお聞き苦しいかも知れませんが暫くご辛抱いただきたいと思います。具体的な数字はあげていませんが、傾向だけはおわかりいただけるかと思います。
 資料(8‐省略)は、国民医療費の伸び率をみたものです。
 開業医生活30年を、10年ごとにみてみますと、最初の10年間は国民医療費が20%から30%も上昇した時期であり、医療関係者の最も華やかな時代でありました。
 この時期には、診療報酬改定の度に、実質的な医療費の伸びが期待でき、その上、開業医にとっては、いわゆる医師優遇税制があり、更には薬価差が大幅にありましたので、診療報酬が上がれば上がるほど、可処分所得が多く得られたのであります。
 次の10年間は次第に伸び率が低下し、10%を割るような厳しい状態になり、優遇税制も改正され、薬価差も次第に少なくなってきた時期であります。
 最後の、ここ10年間はご存じのように5%を前後しており、特に昨年9月改正の影響が表に出る9年度は2.2%に低下、本年、平成10年度は初のマイナス1.1%になると試算されています。医療はまさに冬の時代、ひょっとすると氷河期の入り口にさしかかっているのかも知れません。
 資料(9‐省略)マナベ小児科の診療報酬の年次変化をみたものですが、診療報酬は、国民医療費の伸び率とかなり相関しており、昭和62年までは鰻のぼりのように増加の一方でした。ただ、46年だけ、少し減っていますが、これは7月の保険医総辞退のためです。
 昭和62年を境に診療報酬は右下がりですが、ここ3年間は逆に右上がりになっております。
 これは皆様おわかりのごとく、3歳未満児医療費無料化と小児科外来総合診療料が実施されたためであります。
 資料(10‐省略)は、診療報酬と薬剤費の比率の年次変化をみたものです。
 開業初年は別として、その後は15%から25%までで推移しております。外来総合診療料が制度化した8、9年は11%にまで落ちています。
 資料(11‐省略)は、マナベ小児科の診療報酬請求総件数の年次変化をみたものです。最初の10年間は、総件数がどんどん増え、年間に2万件を超える年もありましたが、その後は急速に減少に転じ、最近では多い時の3分の1近くになっております。
 診療報酬は診療報酬総件数に大きく左右されることは申すまでもありません。これをみるため、総件数のスケールを5分の1に縮小し、診療報酬と対比してみたのがのが資料(12‐省略)であります。
 診療報酬と総件数は、ほぼ平行して増減しておりますが、平成7年から大きく乖離しており、これは明らかに制度の改正によるものであります。
 全体としては、資料(8‐省略)の国民医療費の伸び率とマナベ小児科の診療報酬は、相関しておりますが、小児科の特殊性から、これ以外に出生数が大きく影響していることは申すまでもありません。今回、集計してみて、それがあまりにもはっきりとしていることに我ながら驚ろいている次第です。
 資料(13‐省略)新居浜市の出生数の年次変化をみたものです。昭和48年の2620人をピークとしてずっと減少傾向が続いていますが、ここ数年は横ばいのようです。昨年は1253人で、ピーク時の半分以下でした。
 この新居浜市の出生数とマナベ小児科の月平均件数を対比してみたのが資料(14‐省略)ですが、曲線が実によく似ております。
 尤も、このところ、出生数は横ばいですが、マナベ小児科の平均件数は減少しており、その乖離の度合が強くなってきているようです。これは、私のお役ご免の日が近づいていることを意味しているものでありますが、先ほども述べましたように、診療報酬は逆に増加に転じております。
 以上のことから、マナベ小児科としては、新居浜市の出生数増加がない限り、受診者数は減る一方であることは間違いないと思います。また、診療報酬も、恐らくここ1‐2年をピークに再び減少するのではないかと思っています。ただ、3歳未満児医療費無料制度の対象年齢の拡大、あるいは包括制の拡大、あるいは医療保険制度そのものの抜本的な改正があれば、新しい展望が開かれるかも知れません。
 これは私だけの問題ではなく、皆様の診療所や病院も恐らく同じ傾向を辿るのではないでしょうか。


]U.おわりに

 最後に、新居浜小児科医会への期待とお願いを述べさせていただきたいと思います。
 小児科医会の基本方針は是非存続させていただきたいと思います。毎月の定例小児科医会の運営も、現在のやり方でいいのではないでしょうか。できれば、その上に、調査研究事業やノンプロフィットの事業、例えば喫煙習慣予防教育の推進なども是非お考え願いたいと思います。
 また、組織として、医師会や行政に一層の働きかけをしていただきたいと思います。その場合、守りではなく攻めの姿勢を期待いたします。攻めの姿勢なくしては何も得られません。誰かがやってくれるであろう、と他人まかせにしてはなりません。自ら行動しなければならないと思います。
 小児科医は早晩、保険診療だけに頼っていては生きて行けなくなる時代が来ます。というより、もう来ております。
 さし当たっては、今度の愛媛県知事選挙に、小児科医会が一丸となって協力し、乳幼児医療費無料制度の対象年齢拡大の足がかりを作っておくことが大切であると思います。
 先日、岡山県の井原市にある、平櫛田中を記念して建てられた井原市立田中美術館へ行ってきました。そこには、百八歳の天寿を全うした木彫家、平櫛田中翁の数々の傑作とともに、次のような言葉がありました。
 「いまやらねば いつできる、わしがやらねば たれがやる」
 これは井原小学校児童に送られた言葉です。

 平櫛田中翁は百歳のとき、あと30年分の材料を購入していたそうであります。この翁の言葉を私は大切にしていきたいと思い、ご披露方々結びの言葉とさせていただきます。もう一度申しあげます。
 「いまやらねば いつできる、わしがやらねば たれがやる」
 どうも有難うございました。


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