続・別子銅山自然銅の記
”続”とあるので、はて?本会誌に「別子銅山自然銅の記」というのがあったかな?と訝しく思う方もおられるだろうが、これは新居浜郷土史談会が昭和51年(1976年)3月発行の会誌「郷土史談」に正岡慶信氏が投稿した記事の題名である。正岡氏は、知る人ぞ知る!別子銅山の職場きっての歌人、文筆家で芥川三平のペンネームで大活躍された。惜しくも先年他界されたが、「旧別子の伝説」や「別子開坑物語」などお読みになった方も多いと思われる。この記事が書かれた当時は、開館して間のない別子銅山記念館に勤務されていた。そこで、少し長くなるが、その内容をここに転載させてもらうことにする。(文面節約のため、改行は省いた。氏の美文を損なうことを陳謝する。)
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『 昭和51年2月19日(木曜日)の昼前であった。最近の実績によると、月曜日(定期休館日)の後、火、水、木曜日辺りまでは閑散としているのであるが、この2〜3日、4月初めの陽気となって温かいので、その日も来館者がかなり多かった。
館の事務室にかかっている柱時計は11時ちょっと前であった。私は近日中に端出場から運搬してくる記念館の諸器財のエブを整理していた。
すると、私のうなじに慌しい声が落ちた。急いで事務室を出てクロークの所に行くと、七十年配の眼鏡をかけた老人が笑いながら突っ立っている。
「ここには自然銅はありませんか?」 唐突な尋ねである。
「いやああ」 私は頭をかいた。
老人は笑いながら、「確かに自然銅がこの記念館に飾ってあると、楽しみにしてやってきたんですが、無いですなあ」という。
「いや、私は今までに別子銅山から自然銅が出たと言うことを聞いたことが無いのですが、一体どういうことですか」と返事したあと、黄銅鉱や吹き寄せの事を感違いしているのではなかろうかと思った。展示室の中の地質鉱床コーナーの鉱石標本を見て貰ったら、ある程度納得がゆくのではないかと思われた。
「では、こちらへお出で下さい」私は老人を案内して地質・鉱床コーナーに案内した。
「見て下さい。ここに斑銅鉱や、黄銅鉱が置いてあります。また、黄銅鉱が結晶してこの吹寄せになっているのですが、これらの事を申されているのではありませんか?」
老人はいやいやと首を振って、
「私は若い時、この目で別子銅山の自然銅を見たのですよ、これではありません」
と前置きした。面食った私は、「どこのどなた様でしょうか?あなたは?」
と問い返した。何回も問い返してあらためて見るとつぎのようである。
「私は市内船木の在の者ですが、大正八年から九年の中頃まで、東平の選鉱場で鉱石のサンプルを採ったりなんかして、採鉱に勤めておりましたSというものです。そしてその後、浜の選鉱場へさがったのですが、その当時、事務所は第三部落にあったと思いますが、その事務所に自然銅があって見ましたよ」 と明言するのである。
「どんな大きさで、どんな恰好で?」 私がせきこむと
「そうですなあ、母岩は石灰石のような色艶のもので、その上に握り拳より少し小さい位の自然銅がついておりましたなあ。あの展示してある電気銅よりまだ少し朱味がありました。それでてっきりここにあると思ってやって来たんです。私ですかあ、私はそれから大正十五年に兵隊で松山に入隊しました。その後いろいろの職業につきましたが、現在では生れ故郷で何んとかやっておりますよ。さて、その自然銅は大正5,6年頃坑内から出たのではないですか」
別子銅山記念館に自然銅が無いのが如何にも残念そうであった。
我が国では自然銅といえば、和銅元年(708年)が思い出される。山川出版社の年表を見れば、・・・(しばらくは、武蔵国秩父郡の和銅の説明につき略)・・・
私は慌しく記憶を繰って見た。製錬鋳(゚?)か何かを見ての感違いではなかろうか。館内には明治9年の本邦初めての沈殿銅というものはある。自然銅出銅の記憶はない。別子銅山で自然銅が出たか、どうかの問題については、住友家の歴史書で明治末年頃出来たと言われる垂裕明鑑を読破するより他に方法はない。
老人がこれ程強調するのであるから、一方的にその意見を無視する訳にはゆかない。首をかしげていると、偶然というか、別子銅山の選鉱に長らく関係しておられたI氏が訪れ、老人と再会を喜びながら四方山話をせられた。
さらにその日の午後休館前、旧知の東平出身C氏が、遠来のお客さんと一緒に来館した。早速C氏に聞いて見ると
「風の噂じゃが、自然銅があったと言うことを聞いた事がある。第一通洞あたりからでも出たんと違うかね」 と曖昧な返事であった。翌日私は同じく東平出身者のK氏に尋ねて見た。
「それは現在でも、第三通洞の水路のふちに、天然自然に銅分が流れて結集し、まあ沈殿銅の固形になったものとか、また、山根ノ友寮の床の間にある、所謂、銅滴と言われるものの古い物なんかが考えられる。しかし?」 という訳である。が、船木在住の老人の口調は、思い出しても確信に溢れている。
別子開坑二百五十年史話・宰平遺蹟・半世物語等にも自然銅の記載はない。こうなると後は前述した通り、時間をかけて垂裕明鑑をめくるか、いっそ手っ取り早い方法として、住友修史室へ何かのついでに問い合わせて見ようかとも考えている。
それから数日経って垂裕明鑑全32巻31冊の目次を全部調べたが自然銅出銅の記録はない。同書は総説・家系略記に始まり、明治24年までで終わっている。彼の老人の目撃したというのは、大正8,9年の事である。真偽の判定はやはり今後の研究、努力にかかっているようである。 (完) 』
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はじめて、この文章を読んだときは驚きというよりは、寧ろ意外であった。別子銅山は推しも推されもしない日本を代表する大鉱山である。おまけに閉山からまだ4年程度しか経っていない時点で、明治、大正を鉱山で働いた方々がまだまだお元気に話を伺うことが可能な条件であったにも関わらず、誰も自然銅を知らないということなどあるのだろうか?確かに東北地方の黒鉱鉱床や鉱脈型鉱床に較べると、別子のキースラガー鉱床は平均的な鉱石の品位にはやや劣り、巨大な産銅量はその規模でカバーしているという実態はあるものの、第一通洞など露頭に近い往年の上部鉱床では鉱石の脱硫化や還元によって、二次鉱物としての自然銅を見る機会はいくらでもあったのでは?と思えるからである。
私が鉱物趣味の門をくぐってから今年で20年になる。その間、趣味の仲間や新居浜市の病院で多くの鉱員の方と知己を得た幸運も重なって”別子の自然銅”と称するものを数点、手に入れることができた。そこで、正岡氏の疑問と要望に些かでも答えることができればと考え、入手順に標本を紹介する次第である。本稿を正岡氏の続編とする所以でもある。
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まず、自然銅とはどのようなものかを簡単に説明する。「本邦鉱物図譜」(伊藤貞一編;昭和12年 大地書院発行)の「銅」の項には、「自然には結晶の瞭かなもの比較的すくなく、扁平な樹脂状或は珊瑚樹状に成長している。・・銅は鉱床の酸化帯に銅鉱石からの二次的の生成物として産する。多くの場合、赤銅鉱を伴ひ、赤銅鉱の一部が自然銅で置き換へられてゐることもある。」とある。写真は、「原色鉱石図鑑」(木下亀城著;昭和32年 保育社発行)掲載の自然銅(尾去沢鉱山産)である。樹脂状、珊瑚状の特徴がよくわかる。
●:標本1.
記憶が正しければ、平成10年頃、通院している患者さんから戴いた一品である。なんでも、父親が別子銅山の鉱員で、息子に見せるために鉱石のサンプルを集めていたということである。ボロボロの今にも破れそうなショッピング袋の中に別子銅山の銅鉱石と市之川鉱山の輝安鉱が、無造作に新聞紙にくるまれて放り込まれていた。「父は銅山で働いてボクに残してくれたけど、残念ながらボクは住友に就職をせず、石に興味もないので全部差し上げます。要らなかったら捨ててください。」ということだった。結構、高品位な黄銅鉱や斑銅鉱のサンプルに混じって、これを見つけたときは眼が釘付けとなった。塊状のため大きさの割にズッシリと重く、表面は確かにモコモコと珊瑚状の産状である。なによりも裏面にヤスリか何かで擦った跡があり、そこだけ新鮮な銅(アカガネ)色の金属光沢に輝いていた。紛れもなく金属銅の塊である。「捨てるなんてトンデモない。これは別子銅山の宝ですよ。本当にもらっていいんですね?」とはやる心を抑えながら念を押し、有難く頂戴した。以来、私の標本の中でも”お宝”の一品として大切に保管している。
後日、東京ホリミネラロジーのI氏に、この標本を見せる機会があった。しばらくマジマジと観察した後、「田邊さん・・こんな塊状の自然銅は非常に珍しく、むしろ製錬過程の粗銅といいたい所ですが、上に石英か方解石がくっついているでしょう。そんな物は製品ではあり得ませんので、自然銅としていいのではないかと思います。さすがは別子銅山ですね。」とお墨付きを貰ったので、ホッと安堵の胸を撫で下ろしたのである。ちなみに下写真は、別子銅山の粗銅。世に出回っている飾り物の創作銅滴ではないので、これはこれで貴重ではないかと思うのだが、確かに自然銅とは違って全体にスベスベした平滑なイメージである。
●:標本2.
10年ほど前に別子鉱業所の採鉱技師さんだった方(故人)から譲り受けた標本である。昭和30年代、すでに上部坑は廃坑同然であったが、坑道充塡に用いた古い鉱石(凍山という)や残鉱を処理するために歓喜坑や大平坑などからよく入坑したそうである。鉱脈部分にはビッシリと孔雀石や赤銅鉱が付着し、別子300年の歴史の古さを物語るように、それはそれは壮観な眺めだったらしいが、とにかくボロボロで脆いため、いつ落盤が起こるかそれが一番不安だったという。この標本はそんな壁面に付着していたもの。モノクロのため詳細な色合いを説明できないのが残念だが、大部分に緑青がふいているので綺麗な緑色を呈し、一部、石灰石のような白色部分が混在する。この白い鉱物は硫化鉄の一種か石灰成分のようだがはっきりしない。しかし、別子の高品位鉱によく見られる二次鉱物で、正岡氏の原稿にも「母岩は石灰石のような色艶のもの」とあるのは興味深い。 一部は赤紫色の内部が剥き出しになっているので、ほとんどは赤銅鉱なのかもしれないが、表面の珊瑚状のモコモコ隆起は往年の自然銅の名残であろう。切断してみるのが一番確かだが、さすがに勿体なくて未だ決断できないである。その技師さんは、「古い坑道でもなかなかお目にかかれない代物です。まあ、自然銅でしょうね。持っている人はほとんどいないと思います。」と言われたので、気を良くして桐箱に入れて秘蔵している。
●:標本3.
数年前に、別子銅山の語り部として活躍している山川氏より頂戴したもの。昔、星越選鉱場には、別子の鉱石サンプルを保管する部屋があった。貴重な図面の他に、分析に用いた切断標本や顕微鏡標本、さらに鉱山の命運を左右する下部坑道の鉱石や岩石標本、特にホルンフェルス化した緑色片岩は外部流出を恐れて管理はとても厳重だったそうである。「選鉱場が廃止された時、ゴミとして廃棄される運命にありましたので、珍しいものは取っておきました。自然銅?・・小さいのがあったような・・まあ、探してみましょう。」と後日、持参してくださったのがこの標本である。4片が古い丸型ケースに収まっており、赤鉛筆で「自然銅」と記載があった。小さい方は1cm足らずではあるが、典型的な樹脂状、珊瑚状の茶褐色のサンプルで、これぞ正真正銘の「別子の自然銅」と自信を以て明言できる逸品である。「これしか、ありませんでした。どうせ捨てられる運命だったのですから取っておきなさい。」と快く譲っていただき感謝感激であった。なお、残りの標本や図面は星越選鉱場の解体時に別子銅山記念館に総て無事に移管されたとのことである。
●:標本4.
4,5年前に、高知県の愛好家N氏から頂いた標本である。N氏も、別子の自然銅に大変興味を示され、何度も銅山峯の露頭を歩いて標本を探されたそうである。あるとき、露頭がマニア?に大規模に掘り起こされており、そこに散乱していた標本のひとつだという。露頭特有の褐鉄鉱に、自然銅特有の珊瑚状集合体が付着しているのがよくわかる。全体の重量は軽いので、おそらくほとんどは褐鉄鉱の仮晶なのだろうが、ルーペで覗くと、銅の金属色に輝く粒状の部分も散見され嘗ては自然銅であったことを充分に偲ぶことができる。露頭をさらに掘り下げると、こんな塊状の自然銅が其処此処に眩しく輝いているのかもしれないが、露頭は市指定の天然記念物のため、そうした破壊行為は固く禁止されている。銅山峯ヒュッテの伊藤玉男氏が健在の頃は、露頭をハンマーで叩こうものなら、ヒュッテに連行されて心を入れ替えるまで散々に絞られたそうだが、美しい四国の山々をパトロールする厳父の如き山守の方々も次々と他界され、次第に自然が荒らされている現状は誠に嘆かわしい限りである。その後、N氏も鉱物趣味からは撤退されてしまった。
●:標本5.
砂金採集で知られる香川県の丸岡氏が、銅山川流域で箱メガネを使って川底をチェックしていたところ、赤っぽく光るものをスポイドで吸い上げたのだという。小さいながら一部に銅色金属光沢が見えたために、自然銅かもしれないと私のために採取してくれたのだ。深甚感謝!・・私も、自然銅にはこういう産状もあるのだと非常に驚くとともにとても勉強になった。水中では条件が安定しているので露頭ほど酸化が進まず小さくても銅としての特徴を保っているし、何よりも川流れの摩耗のため表面が比較的平滑なのは、長い間、川底で転がりながら丸岡氏に採集されるのを待っていた証拠である。写真右は実体顕微鏡で撮影したもの。大きさは5mm程度だが、内部にはキラキラした銅の新鮮色が輝きとても美しい。惜しむらくは脆くなっていたためか撮影に当たって2つに割れてしまったことで丸岡氏に大変申し訳なく思っている。
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以上、我が自然銅コレクションを披露してきたが、やはり、その気で探せば今後も当時の鉱員や愛好家の秘蔵する標本が改めて発見される確率も高いのではないかと思われる。別子銅山は、地中深く突き刺さるような鉱床なので、斑銅鉱や黄銅鉱を多産した上部鉱床は早々と掘り尽くしてしまい、第四通洞以下の下部鉱床に採鉱の中心が移った昭和以降は、“くいしめ帯”と呼ばれる一種の走行断層や深部熱源による母岩のホルンフェルス化で、最終的に閉山の引導を渡す結果となるまでその品位も次第に落ち込んでゆき、自然銅を見る機会もほとんど失われたと考えられる。それだけに自然銅を万が一、目にしたとしても製錬゚や粗銅であるという先入観が先に立ち、そのまま見過ごされてきた可能性は否定することができない。確かに表面が茶色に錆びた銅ぱと紛らわしく、私もいままでに3回ほど、別子の銅ですと゚を戴いたことがある。また、錆びた銅の表面は一面に緑青がふいていることもあり一見、孔雀石の鑑別を要する場合もある。緑青も孔雀石も成分は一緒なのだが、孔雀石は内部まで孔雀石のことが多いので、やはり一部を剥離させて新鮮な銅の金属色を確認する以外にはないのではないだろうか。また、持ったときの意外な重量感、表面の緑青や珊瑚状のモコモコ隆起を見るときには、自然銅ではないかという先入観を持つことこそが一番重要であろう。
この機会に、”別子”の自然銅が記載されている文献があるかどうか、正岡氏と同じように手持ちの文献を少し調べてみたが、古くは江戸時代の佐藤信淵著「山相秘録」の銅山の項に「・・及び伊豫の立川の深谷・・には往々に銅鉱の生姜根の形なるもの、石原の如くに多く現じて在る處あり。」と簡単な記述があるものの、和田維四郎の「日本鉱物誌」や「大日本鉱山史」、「住友別子鉱山史」を初めとする別子関係書籍にも、その記載は見当たらなかった。「日本鉱物誌」に徳島県持部鉱山がその産地として記されているのはちょっと意外な感じがしたが、同じキースラガー鉱床でも酸化帯の具合によって生成する鉱山としない鉱山があるのかもしれない。唯一、1978年に愛媛県立博物館が編集した「愛媛県博物館資料総合目録 第1集 自然史部門」の同館の収蔵目録に「自然銅(別子銅山)」と記載があった。確かに、結構大きな塊状の自然銅が展示されていたのを私も見た記憶がある。写真にも納めている筈だが、今回見つけることができなかったのは実に残念。副館長であった楠 博幸氏が中心となって蒐集されたもので当時の鉱物部門の見識の高さを知ることができる。おそらく、正岡氏が執筆された頃もそのまま其処に展示されていたであろうから、氏と老人が知れば喜び勇んで我先にと見学に訪れたことであろう。現在は愛媛県総合科学博物館に移されている筈だが、収蔵品目録さえ公開されていないので確認する術がないのは遺憾の極みである。
こうなると、やはり気になるのは、東平第三の採鉱本部に飾られていたという拳大の自然銅・・今はいったい何処にあるのだろうか?この採鉱本部は昭和5年に端出場に移りその跡は更地となっている。単なる゚と思って付近に捨てられたか?・・それとも自然銅や粗銅として今もどこかに飾られているのであろうか?・・何時の日かそれが発見されれば、遂に別子最大の“お宝”発見として、再び「続続・別子銅山自然銅の記」をしたためたいと窃かに思っている。その日が来るのが今から楽しみである。 (了)
(大正時代の絵葉書にみる東平第三の採鉱本部。)
( 「愛媛石の会会誌 第14号」 2018年1月発行 より転載。 )