2018 図書館まつり 歴史講演会

「絵葉書と古写真からたどる旧別子社寺考 ―水と炎と暴動の中で―

 

   

 

 2018年11月23日、愛媛県新居浜市の市立別子銅山記念図書館で、「絵葉書と古写真からたどる旧別子社寺考」と題して90分の講演をさせていただきました。講演の骨子は、明治時代の古写真の高解像度写真や絵葉書をもう一度、じっくりと見つめ直しながら何か新しい発見ができるかどうかを検証することです。いままでにも広瀬歴史記念館が発行した「別子銅山近代化の息吹」(平成28年)を始めとしてさまざまな綺麗な写真が掲載されていますが、写真の片隅に偶然に写り込む小屋や人物を同定するためには、やはり可能な限り高解像度のものを入手しなければ残念ながら不十分です。今回は、広瀬歴史記念館の久葉館長や別子銅山記念館の永井館長のご厚意で実物や実物に近い高解像度写真を見させていただき、なんとか自分なりの検証を進めることができました。ここに厚く感謝申し上げる次第です。

 また、こうした研究手法を小生に示して頂いたのは、若くしてお亡くなりになった地元の別子銅山研究家の小野晴昭氏です。今も多くの貴重な資料や歴史の核心部分を綴る文書類が企業の史料館で非公開の状態にある特殊な状況では、地元で研究を推進するには現地を足で稼いで調査するか、古絵図や写真をもう一度じっくりと見て新しい事柄を見いだすかしかありません。小野氏は小生にさまざまなご教示を与えて頂き、日頃見慣れているものでも、もう一度、隅から隅までしつこく見れば何かを発見できるという研究の姿勢を自ら示し小生を導いてくれました。ここに深謝申し上げるとともに、深く哀悼の意を表させて頂きます。

 さらに、この研究には曽我孝広氏、曽我幸弘氏、西岡政太郎氏、原 茂夫氏、山川静雄氏はじめ多くの方からご協力を頂きました。今後とも、何卒、よろしくご指導の程、お願い申し上げます。

 

 このような事情のもとに発表させて頂いた次第ですが、当日お配りしたレジメ(pptの写し)を別にPDFファイルで添付しておきました(↓最下部参照)。ただし、ファイル軽量化をおこなったため画質は劣ります。悪しからずご了承ください。簡単な講演の流れは次の通りです。レジメを別ファイルで同時に見るには、「Ctrl」キーを押しながら  をクリックしてください。

 

1.小野晴昭氏への謝意⇒上記の通りです。

2.旧別子の概要⇒「旧別子銅山案内」(石村修二郎、伊藤玉男共著 昭和44年)や「歓喜の鉱山」(新居浜市 平成8年)の付図を用いて説明。

3.大山積神社について⇒ネットーと河野鯱雄のスケッチを紹介。ネットーの「日本鉱山編」に引用される各種用具は別子銅山のものであることを説明。東大工学部に保存されているネットー引卒の東大生卒業論文(別子銅山+市之川鉱山)は今後の研究に大きな知見を与えるだろう。ただ、全文手書きの英文のため(小生には)解読不能の状態なのは残念。

4.金毘羅社について⇒なぜ鉱山に金毘羅神を祀るのか?その理由のひとつとして、お釈迦様をお守りする十二神将の一人であるクピラ大将が、悪弟子のダイバサッタが霊鷲山で説法中のお釈迦様を殺そうと投げ落とした大石を受け止めた故事から、坑内の落盤を防ぐ神様として崇められたと考えられる。その小社の面影を「明治14年写真帳」から確認した。

5.愛宕社(若宮)⇒鋪方の祀られていたという若宮。これは大山祇神の兄弟であるカグツチを祀ったもの。カグツチは”火の神”のため、母のイザナミの産道を焼いて生まれたため父のイザナギに殺されてしまう。従って「仇な子(アダコ)」が訛って「愛宕(アタゴ)」となったという。この故事から関西では火除けの神として崇敬され、神社で授けられる「火迺要慎(ひのようじん)」のお札はおおいに御利益があるという。鉱山にとって火事は大敵。別子銅山でも元禄7年の大火で多くの人命が失われているのでお祀りするのは当然とも言えよう。イザナミはその後、死亡するが断末魔の苦しみで嘔吐し、その中から生まれた神が金山毘古命である。

6.円通寺・観音堂⇒廃仏毀釈の影響か?明治14年にはすでに私立足谷小学校となっておりその面影は偲ぶことはできないが、一部、本堂か庫裡と思われる建物が明治30年代まで使用されていることが確認できた。

7.目出度町の繁栄⇒明治14年、明治23年写真帳から、勘場をはじめ一心楼、伊予屋、あんけら屋、奥定商店、養老亭などを説明した。伊予屋は明治20年代に木方に移っており、その後に建てられた洋館が別子病院である可能性を示した。また、一心楼は当時、日野常太郎という人物が経営していたことを明らかにした。

8.見花谷の神社⇒明治14年写真帳には、小さな祠と思われる建造物がところどころ写っている。写真に写る建物が必ずしも神社とは特定できないが、「明治の別子」(伊藤玉男著 昭和48年)には、目出度町や見花谷には「大木神社」や「松岡神社」が、両見谷には「天満宮」があったと伝えられており、あるいはその遺影かもしれない。中には鳥居が同定できるものもある。

9.明治32年大水害について⇒こうした旧別子の繁栄も明治32年8月28日に通過した台風の土石流に襲われて530余名の犠牲者を出す大水害が発生する。当時、神戸新聞社の記者であった江見水蔭の報告は詳細で、実際に旧別子に赴いて取材しただけに大変興味深く参考になる。この頃から鉱山絵葉書が登場するが、その一枚には見花谷、両見谷の集落が消滅し更地となっている貴重な光景が写っている。

10.龍王神社⇒本講演で、その位置を特定し絵葉書でその面影を報告できたことは大変嬉しく思っている。龍王神社は明治40年坑夫暴動の際に一同が結集し大きな決断をした記念すべき場所。日本労働史上、足尾暴動とともに賃金闘争の嚆矢でもある。しかし、この暴動が余り大きく議論されないのは、やはり当該企業に依存する新居浜という特殊な事情がなせる仕業であろうか?

暴動の経緯を簡単に示すと次のようになる。明治39年、採鉱課長に牧相信赴任。→採鉱を企業で能率化し近代化を推進するためにも職制改革を断行。従来の坑夫頭を頂点とする徒弟制度を否定→しばらくは改革下に従うも日露戦争後の不況で賃金は低下。民衆の不満が高まる。それに坑夫頭が民衆を扇動する。→明治40年6月1日、坑夫、負夫らが龍王神社に集まり代表者を立て企業と交渉、もし賃金交渉が決裂した場合は全員でヤマを去ることを決議する→ところが代表者は企業の規律違反を理由にことごとく解雇される。→これに激高した民衆が採鉱課を取り囲む。折しも木方の伊予屋から清酒が持ち込まれ酔った民衆が興奮状態となる。誰が清酒を運び込んだのか?(おそらく坑夫頭達では・・アジテーターのやりそうな手段である)→一発のダイナマイトが採鉱課に投げ込まれ巨大な暴動に発展する。

こうして見ると龍王神社での決議はあくまでも平和的に職場を放棄する、いわゆる”立ち去り型サボータジュ(消極的怠業)”であったことがわかる。これは現在の労働運動でも通用する合理的な方法である。それを暴動に扇動したのが解雇された坑夫頭達であり、結局、この別子暴動が2段仕立てになっていることを理解してほしいのである。企業は煽動部分のみを前面に出し暴動を軍隊で鎮圧したことを正当化するが、当時の多くの新聞社は、愛媛県警の(和田健児)警務部長が寸鉄を帯びずに一人で民衆と対話し鎮静化できた暴動に軍隊まで繰り出したことを一斉に非難したのである。さらに詳しくその経緯を知りたい方は、愛媛県労働部労政課が昭和33年に発行した「愛媛労働運動史 第一編 =別子労働争議(明治四十年)=」(本図書館にも蔵書あり)をぜひご一読頂きたい。裁判の詳細な記録は、企業を弁護する守衛の証言(当時の守衛は稼人を監視する内偵の役目も負っていた)や、賃金交渉をすれば即クビにする会社側の理不尽さを切実に訴える被告の証言が交錯して下手な小説よりも遙かに面白く興味深い。裁判は短時間の審議の後、民衆側の一方的な敗北で決した。暴動中、何処にいたのかもよくわからない責任者の牧相信はその後も降格されることもなく採鉱課長を続け、飛躍的に伸びる採掘量に後押しされながら、採鉱中心は旧別子から近代化された東平へと急速に移行していくのである。それはまた、坑夫という職業が、ヤマのエリートからダイナマイト穴刳り用の系統作業へと変わっていく刷新の時期でもあった。

ここで小生が強調したいのは、もう一度、冷静な目でこうした別子銅山の歴史を見つめ問い直し、企業が時には過ちを冒しながらも、様々な紆余曲折を経て繁栄を勝ち取った苦労と葛藤を知ってこそ、真に仰ぎ見るべき偉大な別子銅山になれるということである。最近は徒らに”神のヤマ”を強調する風潮が一部にあることを憂慮している。これからの若い人たちは、すでに流布している記述をそのまま鵜呑みにせず、あらゆる主張を冷静に比較しながら自身で判断できる公正な歴史観を持って頂きたいものである。

11.御銅改役所⇒明治14年写真帳をしつこく見ていると、木方下方、吹所の傍らに“瓦葺き”の建物が写っていることに気づいた。瓦葺きの建物は、小生が見る限り勘場も含めて此処以外には存在しない。おそらく、これは山役人の駐在する御銅改役所の遺影である。川之江の代官所や時には幕府から輸出銅や天領米の管理のためやってくる役人が政務を執る所で、さすが武士への配慮というべきか忖度というべきか、立派な御殿造りになっているのは興味深い。そのために重い瓦を山上まで持ち上げた仲持衆の苦労を思うと感慨深いものがある。西岡政太郎氏は現地を調査し付近に古瓦が散乱していることを確認された。「銅山略式志」にも大山積神社の祭礼に立ち会うそれらしい裃姿の人物が描かれている。

12.別子大山不動尊⇒この仏様は火を扱う木方の守護仏として江戸時代から稼人に崇敬されてきた。今、旧別子に残る灯籠(御仏燈)が勘場の手代衆の寄進であることや、大正時代に東平への遷座が時の古市採鉱課長肝煎りで行われたことを考え合わせると、大山積神社と並んで別子銅山を守る半ば公的な仏様であったことがわかる。”大山不動”と呼ばれる所以でもある。ところが平成に入り、土地を所有する企業から追い出されてしまうという前代未聞の法難に遭ってしまったのだ。現在は故あって四国中央市土居町に在しますが、不幸にも寺が無住という事態になって荒れ放題の中に放置されている。おそらく近いうちに瓦礫の撤去とともに永遠に失われてしまうのではないかと非常に危惧するが、小生にはどうすることもできない。時あるごとにひたすら保存を訴えるしかない状況である。

13.まとめ⇒人あってこそ信仰も存在する。旧別子も今は人棲まぬ山。当時の社寺跡も深い草木に埋もれ古い写真でしかその面影を追うことはできない。これも”ご時世”なのだろうが、素朴で粗野ながらも神仏にすがるしかなかった当時の民衆の尊い喜捨によって建立された貴重な仏様でさえ、根を同じくする企業に追い出されて失われる寸前という異常な事態もまた”ご時世”なのであろうか?・・企業に直接関係する事柄は後世に伝えられるが、それを支えた民衆の遺跡は何も伝えられないということだろうか?・・それを思うと、華やかな産業遺跡の登録運動や移築とはうらはらに、一陣の冷たい風が私のこころを吹き抜けていくのを感じるのである。    (了)                                                                           

 

●質問は2件ありました。

1.500枚に余る別子銅山の絵葉書をどのように収集したのか?⇒ ほとんどはネットオークションです。今から20年前は、入札する人もほとんどおらず安価に入手できたのはラッキーでした。

2.別子銅山にキリスト教の遺跡はあるか?⇒ それは、私もわかりません。聞いたこともありませんので・・(後日思うに、こうした鉱山集落は出入りの監視の厳しい閉鎖社会であり、当時、禁教であったキリスト教が入り込む余地はまずないと思います。明治以降は信教の自由がある程度は認められましたが、別子銅山に教会があったかや信者がいたかどうかは不明です。今後の研究課題でしょう。)

 

レジメのPDFファイルはこちらです⇒ 

 

市立別子銅山記念図書館の「2018図書館まつり」報告は ⇒ こちら

 

皆様に“おみやげ”?としてお配りした「続・別子銅山自然銅の記」(「愛媛石の会会誌 第14号」より抜粋)は ⇒ こちら

 

 

    

(当日の案内です。画像をクリックすると拡大します。)