砂金(銅山川)
伊予の新宮山中なれど 川に砂金の花が咲く (新宮小唄)
愛媛県宇摩郡新宮村から徳島県三好郡山城町にかけての銅山川に、砂金が採れることはよく知られている。これについて、もっとも系統的かつ詳細に記述しているのは、徳島側の資料「山城谷村史」(昭和34年発行)であろう。特に明治16年に現地調査に訪れたナウマンの報告書が付記されているのは瞠目に値する。一方、愛媛県側の記載は主に新宮村の郷土誌ということになるが、どれも編纂が比較的新しく概略を述べるに止まっているのは残念という外ない。それでも多少なりとも稼行時の記録が残っているのは何よりも有り難く、二三の文献をとり混ぜて、新宮の砂金について紹介したいと思う。
宇摩の砂金は古代から渡来人系の秦氏や金集氏によって採掘されたと口碑にはある。川之江や伊予三島付近には金生、金川、金田、それに嶺南の金砂など“金”の付く意味深な地名も散在しているが、明らかな記録は残っていない。さらに銅山川沿いの“金光山”仙龍寺と空海に纏わる不思議な話が伝わることも小生の「役に立つ金属談義」(Ir〜Au)で触れておいた。「別子山・新宮 民俗資料調査報告書」(昭和41年)には、銅山川の金は22金で、純度が高いため柔らかく、入れ歯など合金の材料としては不向きであるが、金箔にするには最良とのことなので、中世もそうした伝統工芸の材料として細々と採掘が続けられていたに違いない。江戸時代にはいると、正保年間に野中兼山が土佐藩に提出した書類に、「土佐郡本山村の猟師が、伊予新宮川上流の砂金採りの家に泊まってその製法を習い、帰宅して本山付近の吉野川で試したところ、実際に砂金が採れた。」という記事が残り、すでに17世紀には家業とする職人がいたことを物語っている(山城谷村史)。また、「新宮村誌」(平成10年)によると、江戸時代後期には、農家の副業としてさかんに砂金が採掘され、特に凶年ともなると多くの人が一家総出で繰り出し大賑わいであったという。こうした砂金ブームは明治になっても続き、ナウマンや和田維四郎の報告に記されるほど鉱業界にも知られ、大著「明治工業史 鉱業篇」の一節で、そのあたりの事情が詳説されているのは幸いである。しかし、明治42年に砂鉱法が施行され、砂金にも課税されるようになると採算が採れなくなり、家内工業的な砂金採りは廃業の已むなきに至った。大正期には村の有志2名で鉱区を設定、昭和5年に新宮村の福岡為市の買収するところとなり、鉱区を徳島県側にまで拡大して事業を継続したが収支折り合わず、昭和7年に大坂の貿易商 藤木優に売却された。その後、太平洋戦争という世情の激変で採掘は中止され、戦後も復活することなく、鉱区並びに鉱業権も今は消滅しているとのことである。
(金砂湖湖畔 小川橋袂にある「史跡 砂金採集跡」の碑文。M氏提供)
砂金採集の方法は、主として揺り皿(パンニング)やネコダと呼ばれる比重選鉱の原理を応用した古来からの方法が用いられてきた。ネコダは大量の砂から砂金をより分ける効率的な方法であったから、明治末期には九州の業者が水車の水を利用した長いネコダを設えて、トロッコで川砂を丸ごと運んで採取していたという。また、金は水銀に良く溶けてアマルガムとなることから、選鉱した砂に水銀を混ぜてそれを煮詰めたり、鹿皮の中に砂金を含んだ水銀を入れて絞り出したりして金を抽出していた。アマルガム法は大量の水銀蒸気が発散するので、当時は水銀中毒に苦しむ作業員も続出したことだろう。変わったところでは、大きな筵(ムシロ)の上に金を含んだ砂を流して筵を焼き、その灰に水銀を混ぜる方法も取られていた。筵の繊維に金が引っかかる性質を利用したものだが、山口県厚狭郡に残る有名な「寝太郎伝説」を彷彿とさせて面白い。砂金をよく採る人とそうではない人の差も大きく、達者な人は砂金で儲けて蔵まで建てたという。いままでで最大の砂金は、「別子山・新宮 民俗資料調査報告書」によると、山城町の山本龍五郎という人が拾ったもので、そら豆(15g程度)の大きさであったと伝えられている(「明治工業史 鉱業篇」には75g、「山城谷村史」には30gと記録は様々ではあるが・・)。下写真は実際の砂金採りの様子。ネコダ(左端)と揺り皿(中央)。いずれも「別子山・新宮 民俗資料調査報告書」より。右端は、昭和42年に、愛媛大学教授 八木繁一教授が砂金採りの名人である近藤浅次郎翁を訪ねて実演してもらった時の採集風景で「科学の泉」(愛媛自然科学教室)より転載させていただきました。
2009年夏、小生も、現代の砂金採りの名人として知られる香川県丸亀市在住のM氏に同行させていただき、一日、銅山川での砂金採集を楽しんだ。数年前に「愛媛石の会」巡検で、新宮村広瀬付近の川原でパンニングを繰り返したが1粒も採集できず悔しい思いを抱いていただけに、今度こそ!という期待(というか欲の皮)を秘めて闘志満々でリベンジに望んだ訳である。初対面のM氏は物静かな新進気鋭の鉱物学者といった雰囲気を漂わせておられる高士で、実際、それが印象だけではなかったのを後でまざまざと見せつけられることとなる。銅山川の、とある川原に降り立ちさっそく採集開始。詳しいことは憚られるのでここに書くのを控えるが、フィールドブックに記載されている“ありきたり”の場所や方法だけでは採集出来ないことがよく理解できた。M氏は手製のカッチャや大きなパン皿を駆使して半身、水に浸かりながら黙々と力強い作業を続けている。小生は小さな移植ゴテで泥を掬ってはパン皿で選別を試みるがこれといった成果もない。確かにキラキラしたものが底にたまるのだが、ほとんどは軽い白雲母の薄片でガッカリの連続である。カヤツリグサという植物の根っこに金が溜まりやすいと言うがどれがその草なのか見当も付かず、川原に生える適当な草を引き抜いてはパンニングを繰り返すも金の“カケラ”もなく、1時間もすると早や諦めムードとなって飽きてしまい、川向こうでジッとこちらを窺っている一匹の白ネコと意味もなく睨みあっている自分であった。突然、「こちらに来てください!」とM氏が大声で叫ぶ。あたふたと駆け寄って彼のパン皿をのぞき込むと、黒色の皿に小さな金の粒が光っている。・・砂金だ!!目を懲らさなければならないほどの輝きではあるが、初めて見る感動とも相まって、本当に眩しいくらい美しく煌めき、思わず感嘆の声を上げてしまった!・・結局、3時間ほどかけてM氏は2粒の砂金をゲット、小生はまたも0粒に終わったが、自分の方法では到底、採集できないことが納得できただけでも貴重な体験であったと言えよう。昼下がりの誰もいない静かな川原で、これまで採集したご自身のコレクションをゆっくりと拝見させていただき、その信じがたい金の大きさと分量に改めて驚嘆し、採集談義を熱く語る氏の才能と熱意にはただただ唖然とするしかなかった。氏は、あらかじめマイントピア別子の“砂金採り”で、毎週のように練習に通い、その要領を会得してから、ここでの採集に望んだという。やはり“名人”という名の陰には、不断の努力と相応の投資が必要であることを今さらながらに知ることができ、「師は鍛錬の賜物」という格言をふと思い起こしたのであった。
別れ際に、今日の記念にと戴いたのが掲載の砂金標本である。写真以上の説明はまったく要しない、これこそ銅山川の砂金である。本日採集の2粒の砂金だけでも恐縮なのに、標本と言うには余りにも見事すぎる“お宝”を頂戴し、この上ない歓びに浸りつつ小生の夏休みも、予想を遙かに超えた満足裡に終わったのであった。M氏はその後、マイントピア別子、愛媛県総合科学博物館、徳島県立博物館にも砂金標本を寄贈され、四国の砂金の啓蒙に努めておられ、その真摯な姿勢には本当に頭の下がる思いである。
(銅山川での砂金採集寸描。M氏(左)と小生(右) 2009.8.13)
宮久三千年先生と桧垣淳先生の共著である「愛媛県の金銀鉱資源」という論文には、銅山川の砂金鉱床の起源として、次の3つが挙げられている。諸説紛々たる状況で未だ統一的な見解はないようであるが、ここに簡単に紹介しておきたい。
(1)別子式銅硫化鉄鉱床・・キースラガー鉱床に微量の金銀や白金、パラジウムなどが普遍的に含まれていることはよく知られている。それらが銅山川に流れて淘汰され、砂鉱を形成したというもの。一番、もっともらしく、新宮鉱山や三ッ足鉱山のある馬立川など支流からも採集できた事実をよく説明するが、その一方、銅山川上流の別子山村に砂金の堆積がないのはどうしてだろう。地形的な要因が加味されるためであろうか?疑問は残る。
(2)超塩基性岩体・・東赤石山を構成する橄欖岩には、金や白金系鉱物が含有されている。皆川先生の「四国産鉱物種 2009」には、橄欖岩中の輝イリジウム鉱の綺麗な写真が載っている。それらが砂鉱となり、砂金やイリドスミンとして堆積したと考えられる。「四国地方鉱床誌」にも、そのことの簡単な記載があるが詳細は不明。上述の野中兼山が本山付近の吉野川で砂鉱を得たのも、付近の白髪山塊が巨大な橄欖岩であることを考えると一応は納得できる。ちなみに「大地の砂金」というHPには、高知県大豊町産の白金の写真が掲載されており、注目すべきである。
(3)石英脈・・鉱床型の金鉱石は石英脈に伴われて産出する。三波川帯を構成する泥質片岩(黒色片岩)は、もともと古生代の地向斜と呼ばれる海底の泥が変成したものである。泥には古生物由来の有機物から発生する硫化水素が重金属を集中させやすい性質があるので、変成後も石英の中にそうした金属が残って晶出する可能性が指摘されている。こうした鉱石中の金を、砂金(川金)に対して山金(ベルクゴルド)といい、ナウマンは自身の報告書の中で、砂金より山金の調査を目的に当地を訪れたと明記して、実際に山城谷でそれを確認したと言っている。また、事情は少し異なるが、「新宮村風土記 昭和53年」には、河床よりずっと上に位置する段丘上の“ギチ”と呼ばれる砂混じりの黒土の中からも米粒大の砂金が採れたとあり、それらの風化土を指すのかもしれない。ちなみに“ギチ”とは、伊予弁で泥とか粘土のことである。
こうして起源を見ると、砂金は、別に銅山川沿いでなくても発見されておかしくはないようにも思われる。実際、「四国鉱山誌」に、「佐藤信淵の祖父信景(不昧軒)は、享保元年(1724年)上性弁を著したが、その巻五沙石六の中で、伊予の三角寺に砂金が産すると記されている。」とあり、さらに「有用鉱物の産地と用途」(大正5年)には砂金産地として「愛媛縣 宇摩郡関川村 同土居村 同小富士村 同蕪崎村 同新立村 同富郷村 同金砂村 同上山村」と明記されている。これらを信用するならば、瀬戸内側の東予地方にも砂金は汎く分布していることになり、採算性はともかくその存在が実際に確認されれば、単に鉱物的な研究材料に止まらず、古代伊予国が大仏建立にも大きな影響を及ぼした砂金の国であったという重要な証拠ともなり得る訳で、愛媛の鉱物史上からも、実に興味深いことである。
(マイントピア別子に展示されている、M氏寄贈の銅山川の砂金。)