鉄礬柘榴石(砂鉱)

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 愛媛県宇摩郡土居町の関川河口付近は広大な三角州が形成されている。ここは上流から運ばれてきた磁鉄鉱やチタン鉄鉱、ガーネットなどの細かい砂が堆積し、日本有数の漂砂鉱床を成すことがよく知られている。一般には「長津ガーネット鉱山」と呼ばれるが、「四国鉱山誌」によれば、本格的に柘榴石の採掘が始まったのは昭和12年で当時は「伊予砂鉄鉱山」と称し、「・・昭和20年までに砂鉄2t、石榴石1880tを出鉱したが、石榴石は良質であったため研磨材工業界にその名を広めた。」という。 戦後も鉱業権が転々としながらも四国鉱山誌が発行された昭和32年までは命脈を保っていたようだが、その後の経緯は判然としない。だいぶ後のことになるが、桃井先生の追悼文の中で、土井清磨氏は「昭和53年夏、桃井先生は、ザクロ石鉱床(漂砂鉱床)鉱業権に絡んだ訴訟で中四国農政局から依頼され、鉱量調査をしその結果を報告する必要があった。鉱床は研磨材として用いられていた土居町関川の河口遠浅部に薄い層をなしたザクロ石鉱床である。その結果は[愛媛県宇摩郡土居町長津干拓地周辺の石榴石漂砂鉱床調査報告]に纏められている。・・分布状態を把握するには、まず測量をしなければならない。当時、金も測量器具もなかったしアルバイト学生もいなかった。便法として、(私が所有していた)六分儀を用い、先生と二人してザクロ石の分布範囲を追い、歩いては測量した。鉱業権に絡んだ調査はこれが最初で最後である。・・」(愛媛石の会会誌 第8号 2003年)とあるので、この頃までは鉱業権が存在していたことがわかる。それにしても“今”伊能忠敬よろしく、トランシットと標尺を担いで広大な砂浜をかけずり回る、重鎮お二人の姿は想像しただけでも滑稽で(失礼!)、微笑ましい情景である。この報告書が見たくて、先日、土井氏にお願いもしてみたのだが、あいにく数年前のご自宅改築の際、他の文献とともに処分してしまわれたとのこと・・残念至極!・・どなたかお持ちの方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸甚である。

 「四国鉱山誌」には鉱床の概説として、「・・砂鉄鉱床としてより柘榴石鉱床として注目され、海浜柘榴石鉱床としては本邦最大である。鉱層は表層および地下30cmまでに、2,3層あり、その規模は、幅20〜50m、延長150〜400m、厚さ5〜10cmのものが数カ所ある。粗鉱は柘榴石(20〜50%)、磁鉄鉱(5〜10%)および角閃石などよりなり、精鉱は35〜50メッシュ位の柘榴石を60%含有する。なお、柘榴石は主として鉄礬柘榴石で磁鉄鉱はFe;50%、Cr2O3;10%、TiO2;1%のものである。」と詳細に記載され、選鉱は、砂箕(一種の風選機・・いわゆる唐箕の部類か)など比較的簡単な方法に依ったようである。磁鉄鉱は電磁石などを用いて除去することも可能だが、それに対する記載はなかった。

 

 この標本は、当時の長津ガーネット鉱山特製の精鉱サンプル。分厚いガラス瓶には、「G3型+G2型 二回重選品 商品名MH−1(55)」と手書きされている。最後の55とは、ガーネットが55%という意味であろうか?砂鉱を顕微鏡で拡大してみるとさらに詳細な様子がよくわかる。ここまで小さくなると柘榴石も透明で美しいピンクの色合いがとても印象的だ。確かにガーネットは50〜60%程度の割合で、青っぽいのは角閃岩、黒いのが磁鉄鉱であろう。まったく透明なのは石英のようだが、これは以外に少ないようだ。精鉱に磁石をくっつけると結構、磁鉄鉱が認められるので電磁石の選鉱までは無かったのではないかと推察できる。磁性のある銀白色の細片はおそらくチタン鉄鉱だろう。いずれにせよ、まず「四国鉱山誌」に記されている通りの性状で、さすがは四国鉱山研究の“伝家の宝刀”ともいうべき文献として充分、信用に足る座右の書である。この長津ガーネット鉱山の柘榴石や赤石鉱山のダン橄欖岩、二ツ岳の角閃岩などは、研磨材や耐火材に用いられる無尽蔵の地下資源として一時、別子銅山亡き後の地域活性の起爆剤と大いに期待もされたのだが、海外の安い輸入品に対抗できずに次第に衰退し、今は忘れ去られた存在となっているのは寂しい限りである。

 

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 しかし、言うまでもなく、関川の柘榴石は、「金剛石」として古くからよく知られた当地の名物で、天保年間に西条藩儒学、日野和煦(にこてる)が編纂した「西條誌」にも絵入りで詳細な記述がある。

「土居川奇石・・金剛石と名づくるあり。塩かどというあり。塩かどは、その色雪の如く白し。時有りて京大坂に運び、製して硝子(びいどろ)となす。金剛石・色々あり。左(上図)に図せるが如し。大きさ桃栗の如きより、四文銭、十文銭、又はこぶしの如く、芋魁(芋がしら)の如く、西瓜に似たるもありて、大小不同なり。銀色点々灼爍せるもの多し。細かなる砂に至りても、銀粉の如きもの雑糅して奇麗なり。この川、御料の浦山川より続く。その上、定めて銀バクあるべし。盆石になすべきものも、時々出る事ありという。(土居村の項)」「当村の南の川に、金剛石というものを出す。薄青き地に、赤点ありて、見事なり。(北野村の項)」

塩かどというのは灰簾石のことであろうか?銀粉の如きというのは、おそらく白雲母の砕片でこれも銀とは関係ないのだが、日野和煦の新鮮な驚きと詳細な観察が目に浮かぶようである。さらに時代を遙かに遡ると、孝徳天皇の御代(在位645〜654A.D.)、渡来した秦氏一族である阿部小殿小鎌が、砂金採集を朝廷から命じられてこの長津の地に根を下ろし、金集史(かねあつめのふひと)の姓を賜わったと伝えられ、古代より関川は鉱物採集のメッカであったことが理解される。それから千有余年、明治の代となると古くは東大の佐藤伝蔵博士の詳細な報告を嚆矢として、戦前戦後を通じてふたたび数知れない学者やアマチュア研究家が当地を訪れ、今もなお、鉱物収集のメッカの地位を保っているのは真に喜ぶべきことである。ただ最近は関川流域の乱開発や川原石材の乱掘などで、採集される鉱物の数も質も、昔日に較べるとグッと劣り少なくなってしまったのはただ残念というほかないが、本邦を代表する変成鉱物の歴史的名所として、いつまでも大切にしてゆきたいものである。

 

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