丸銅
住友別子銅山の最終製品「丸銅」である。丸銅は、国内用に製品化されたもので、薬缶や鍋などの“曲げ物”や“打ち物”に加工しやすいように扁平な丸いカタチとなっている。一方、江戸時代に輸出用に加工された製品は「棹銅」と呼ばれ、名前の通り四角な細い棒状で、「別子銅山記念館」や「広瀬記念館」などで展示されている。
手持ちの標本は、あまり質が良くなく、形もいびつで不良品として破棄されたものかもしれない。しかし、中央には、住友の井桁のマークや「住友」の字が読みとられ、別子銅山産出の銅鉱石の最終的な姿として、いにしえの栄光を偲ぶに充分である。
さて、そのように感傷に浸るのもよいが、これがいつ頃の製品かとなると些か難しい問題となる。先にupした「出鉛」とともに新居浜市内に保存されていたものであるが、質の悪さからいえば江戸時代にまで遡れるのではないかとも考えられる。しかし、江戸期には“粗銅(荒銅)”までが新居浜地区の精錬過程であり、“精銅”を経て「丸銅」や「「棹銅」など型銅への“小吹き”や、金銀を抽出する南蛮吹きは、船で大阪の「鯰谷」の吹所まで運ばれてから行われるのが通例であった。また「住友別子鉱山史」によると、明治期になると四角な「丁銅」が「棹銅」に替わって別子の主力製品になった旨が記されているが、「慶応四年(明治元年)二月から「#(井桁のつもりです)住友」という楕円形の刻印が押されたので、江戸期のものと区別できる。」とあり、同じ頃に「丸銅」への刻印も始まったのかもしれない。このように考えると、やはり明治期の製品と見るのが妥当ではないだろうか?
さらに想像を逞しくすれば、江戸から明治にかけて、住友を訪れた西洋人や国内要人には「鼓銅図録」とともに、精錬過程を含めた各種銅製品の小型見本が進呈された記録もあり、そのようなサンプルがなんらかの理由で流出したものかもしれない。
小生の鉱物コレクションを見に来られた方には、銅鉱石とともに、必ずこの「丸銅」と「出鉛」を取り出して別子の説明をするようにしているが、銅鉱石より、むしろこちらを喜ばれることが多いようである。