閃亜鉛鉱(別子鉱山)
別子鉱山の鉱石には、黄銅鉱や黄鉄鉱とともに閃亜鉛鉱が普遍的に含まれている。その量は鉱石の種類によって 0.004~4% と著しい幅がみられるが、多くは黄銅鉱と混在する粒状の形状を示し、黄銅鉱富化鉱の項でも述べて置いた。それに比べると、この標本は鉄分が多いため全体が黒褐色を呈する塊状の鉄閃亜鉛鉱であり、些か趣を異にするものである。さらに小生に猜疑心を抱かせたのは、お見せした元坑夫の方が「このような形状は見たことがない。」と批評されたためである。本当に別子産の鉱物であろうか??・・そんな訳で骨董屋から買い付けたまま、しばらく箱にも入れず保留にしていたのであるが、採鉱課におられたJ氏が、一部にこのような形態を産出したことがあるという証言と、他の坑夫さんが見せてくれた標本の中にも同様の閃亜鉛鉱があることを確認するに及んで、まず別子産に間違いないだろうと判断した次第である。そうなると面白いもので、他のルートからも同様の閃亜鉛鉱を2個ほど入手することが出来ますます自分自身の納得が得られたため、今は標本箱に入れて、別子の鉱物として大切に保存している。
「住友別子鉱山史」には、別子鉱山の下部鉱床にみられる後期鉱脈型鉱化作用の項に、「深部で黄錫鉱・錫石が出現するのに対し、15〜18L西部の小正断層沿いには方鉛鉱・鉄閃亜鉛鉱を多産し、さらに32Lの尖滅点から千数百m離れた探通1,000m(14L準)の正断層沿いには輝安鉱を産するように、本山東部の深部から浅所に向け、金属鉱物の高温→低温の累帯配列があるように思われる。」とあるので、このような形態は、深部熱源によるホルンフェルス化した接触作用によるのかもしれない。実際、以前に「新居浜市立郷土美術館」で、接触鉱床である越智郡朝倉村の「朝倉鉱山」産の鉄閃亜鉛鉱を拝見したことがあるが、これと同様の形状であったように記憶している。
別子鉱山では、含まれる閃亜鉛鉱の比率が少ないとはいえ、全体の鉱量が莫大なため、亜鉛の回収については長年、研究が進められていたようである。浮遊選鉱法が導入されてからは、この過程で黄銅鉱と亜鉛を分離するのがもっとも手っ取り早く効率的な方法であるため、双方を別々に浮遊、沈殿させる有機薬剤の開発が急がれ、別子では昭和39年になってようやく亜鉛の回収と製品化に成功した。これにより銅の精鉱化もいっそう高まり、一石二鳥で「合理化」のモデルケースとして歓迎されたが、奇しくも、同年、欧米諸国の圧力の中で亜鉛の貿易自由化が決定され、安い海外の亜鉛流入には抗すべくもない状況となったのは全くの不運としか言いようがない。その後、品位50%前後の精鉱2,800tを生産したが、わずか数年後の昭和45年、収支折り合わず、閉山に先立って生産中止となってしまったのはまことに寂しい限りである。
浮遊選鉱以前の亜鉛については、あまり資料がないため詳しいことはわからないが、日本での亜鉛回収の歴史は比較的新しく、真鍮の需要が高まった日露戦争以後とされる(日本鉱産誌T−B)。これは、中国などで多産する炭酸亜鉛鉱とは異なり、精錬困難な閃亜鉛鉱を主としていたから銅山において邪魔物扱いされた時期が長かったことや、亜鉛の沸点が 907℃と比較的低いことから、転炉など高温の溶鉱炉から、酸化亜鉛として気化、亜硫酸ガスとともに空中にほとんど飛散したため、精銅の不純物としては余り問題とならなかったことも原因なのだろう。しかし、そうした排煙からも、ペテルゼン式硫酸製造過程の一環として、四阪島精錬所内に「硫酸亜鉛工場」を増設し、転炉鉱煙処理「コットレル」より産出する煙灰より亜鉛を抽出、硫酸亜鉛を製造したということである。
四国のキースラガー鉱床において、徳島県の次郎鉱山や愛媛県の大久喜鉱山などは別子より遙かに高濃度の亜鉛が含まれていたようであるが、亜鉛を回収するには先に述べたように結構高度な技術を要し、実際に生産実績を挙げたのは、白滝、佐々連、別子の主要3鉱山に過ぎず、その3鉱山も結局は閉山という歴史のうねりの中で充分に亜鉛回収の技術力を発揮できなかったのは、かえすがえす残念なことである。