KS銅型文鎮
嘗て、別子が誇った世界的ブランドである精銅「K.S.銅(以下、KS銅と略す)」のミニチュア文鎮である。このミニチュアは、明治42年、年間の別子産銅が一千万斤(6000t)を達成した記念として作成された。「KS」とは、言わずと知れた住友家長の代々の通称「住友吉左衛門」のイニシャルであり、このことひとつを取ってみても、住友が如何に自信を持って世界に輸出した銘柄であったかが理解できる。ちなみに、ミニチュアの重量は420g(長さ10cm)、一方、実際のKS銅は、重量18kg(長さ34.5cm)であるから、重さにして約1/40のモデルということになる。また、明治42年の別子の精銅総量は6328t、そのうち別子鉱石によるそれは6235tで、この時期のKS銅には約98.5%の別子産銅が含まれていることになり、今日では絶対に作ることのできない、別子銅山ならではの心憎い記念品と言えるだろう。同品は、別子銅山記念館にも常時展示されている。
そもそも別子の精銅は、輸出用の棹銅と、曲げ物など国内用に使用される丸銅、丁銅に分類される。江戸時代は粗銅生産までが別子地域の役割で、精銅はわざわざ大坂鰻谷の住友吹所に運んで製錬、加工されていた。明治になり、広瀬宰平は旧来の体質を改め、精錬過程の合理化と一括化を行うため、立川に和式精銅所を建設、断然、鰻谷の吹所を廃止して、「予州別子山ノ鉱業ハ万世不朽ノ財本ニシテ、斯界ノ盛衰ハ我一家ノ興廃ニ関シ、重且大ナル他ニ比スベキモノナシ・・」という「住友家憲」冒頭に掲げられる興業の基礎が固められた。さらにラロックが纏めた「別子鉱山目論見書」の近代化ガイドラインに従って、新居浜惣開の地に大規模な洋式精錬所を新設、その結果、和式の立川精錬所は20年余りで廃止されるに至った。こうした事情に鑑み、明治22年の惣開の操業開始にあたって、従来の丁銅を改め、「型銅」と呼ばれるKS銅型インゴットに統一、これが国際的登録商標「KS銅」として汎く世界に流布することとなった由来である。
上図は、明治35年版「住友事業案内」に掲載されるKS銅の商標(左)。「此商標は明治二十二年製錬法に改良を加へ旧来の棹銅、丁銅の形を改めて型銅となせしより以来用ふるところにして現今K.S.銅の名は広く内外の市場に知られ中にも輸出先の重なる倫敦市場の定期売買に上れり。而して其声価は毎に同市場の健銅たるG.M.B.銅の右に出ると云ふ。又曽て内外国博覧会に出品して数々褒賞を受けたることあり。近くは去二十八年七月第四回内国勧業博覧会に於て進歩一等賞を受領したり(右)・・。」と説明されている。商標には「#住友」と小さく刻印するのが住友ブランドのお決まりのようで、以前に紹介した丸銅にも認めることができる。
このKS銅は、純度約99.87%で、電気銅の99.99%(それ以上)に較べると、銅の品質としては遙かに劣ってはいるのだが、別子に特有のニッケルなど不純物の影響で、却って「捺染用ロールや写真版として良く、また耐鹹性に富んでいて木船体に張る銅板として、或いは汽船のプロペラーとして最適のものと称せられ、また趣味的には屋根板等に用いて一種の渋味を賞用され、且つ真鍮等との合金にも好んで使用されたのであり」(別子開坑二百五十年史話)、伸銅部門において欠くべからざる存在であった訳である。しかし、二十世紀に入り、世の中は電気文明に突入、電線の需要が大幅に伸びてくると、不純物ゆえにKS銅の電気伝導度が低いという欠点は致命的となり、大正6年、電練工場の新設とともに次第に生産縮小の已むなきに至った。それでもしばらくは伸銅所の要望に応じて、電気銅との並存生産が続いたのではあるが、電気銅に後から不純物を加えても大きな問題は起こらないという(都合の良い?)結果を踏まえて、大正14年、生産ラインを電気銅に一本化し、KS銅の製造は遂に中止となった。ちなみに、大正8年には電気銅300万斤に対してKS銅1700万斤だったのに比し、大正11年には、電気銅1700万斤に対してKS銅500万斤と、僅か3年にして完全に逆転されており、急速な電線の普及を如実に物語るようで印象的である。
仮に身近な例に例えるならば、電気銅とKS銅との関係は、市販の食卓塩と自然塩との関係に似ている。昔の食塩は日光や風を利用して鹹水を作り、それを煮詰めて生産していたので不純なミネラル(にがり成分)が多く、それが却ってまろやかな風味を醸し出していた。昭和50年頃を境として、ほとんどの製塩法はイオン交換樹脂膜法に改まり、塩田などの場所も要らず、経済的かつ効率的に純度100%の食塩が大量に生産できるようになった訳だが、それはもはや「塩」ではなく、単なる「NaCl」だという評価が一般的である。実際、当時は日本人の塩に対する舌も敏感で、こうした食塩は大方に不評であったために、専売公社は後から「にがり」を加えるなどして多くの不満を押さえ込むのに躍起だったという。それでも40年も経てば、結局はそんな食塩に慣らされてしまって今さら苦情を言う人もなく、遂には古来からの日本の「塩の文化」が絶えてしまったようにも思えるのだが・・・もっとも最近は昔ながらの塩田(構造はだいぶ異なっている)で作った塩が復活して、どこのスーパーでも見かけるのだが、それがそんなに普及しているようにも見えない。また、テレビで有名人が自然塩を使った料理に「おいしい。」を連発する(ほかに表現はないのかと言いたいが・・)のにもよく出くわすが、本当に彼らはそんな塩の違いがわかっているのだろうか?一度失った食の文化は、そう簡単には取り戻すことができないし、一端忘れてしまった味覚はそれを再現することさえ難しいのである。
銅についても、明治建築の銅板の色合いがなかなか出ないとか、古い銅の芸術品を補修するのに苦労するといった話をよく聞くが、結局はKS銅の持つ微妙なあのまろやかさが、今の電気銅では、再現不可能だということなのだろう。「別子開坑二百五十年史話」には、次のような話が載っている。「大正の初め、住友伸銅所の所員が業務用を帯びて印度に赴いた際、ボンベイ、カルカッタ等の銅商は古川の電気精銅よりもKS銅を尊重してその値段も一ルービーほど高く販売しており、北部の小都市ミルザプールの一銅商の如きはKS銅以外は駄目だと云って、銅蔵に一ぱい凡そ三十頓ばかりも積み上げているKS銅を見せて呉れたので、その時ほど自分が住友の社員であることに感激したことはなかった・・・。」 いかにも精銅の良さと違いが分かる時代ならではの逸話である。
別子銅山の生んだ世界的なブランドであり他国の評価も抜群であったKS銅、加之、畏くも家長「住友吉左衛門」の名をそのまま戴くKS銅は、絶えて久しいとはいえ、世界に冠たりし「銅の国」日本の紛う事なき誇りであり、今もなお芳しく永遠に不滅なのである。
四阪島における、KS銅製造の様子