胆礬

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 小生は別子銅山の胆礬と称するものを、都合3種、所有している。ひとつは立派なガラス瓶に納められた斜方晶形のサンプルで、これはおそらく電気銅製造の副産物として製品化された硫酸銅の人工結晶であろう。もうひとつは以前に鉱物専門店から購入した標本で10cmほどの塊状をなし色合いも非常に美しいものだがさほど古そうにも見えず、人工か自然かは明らかではない。ここに供覧する胆礬は明治27年に採集された別子銅山の鉱物標本箱に収納されていたもので、やはり母岩が付いていないため、坑道内の自然生成物なのか人工的な中間産物なのかは判然とはしないのだが、当時、電気銅製造は未だ行われておらず自然生成の可能性がこの3つの中では最も高いと判断して選んでみた。形状はまったくの塊状で鍾乳状も繊維状も呈してはいない。全体に結構凹凸があり内部も結晶が縦横に入り乱れて、いわば“パンマメ(パットライス)”とかクランチ状のお菓子のようで整然とした人工的な再結晶ではないようにも見える。重量も思ったよりは随分と軽い。表面は脱水化の影響で緑礬と同じような低水位物に変化し白色の粉状となっているが、少し水分を補給してやると元の濃紺色の胆礬に戻る。しかし、堀先生が「楽しい鉱物図鑑」の中で述べられているように、胆礬は岩塩とともにもっとも保存が難しい鉱物標本のひとつ、水溶性のため水洗いなどとんでもない話で、乾燥させても脆くてすぐに崩れてしまうので密閉した容器に保存しておかなければならない。乾燥剤も厳禁である。それを思えば、百年以上経ってもその色合いと形状を失っていないだけでも幸運というべきであろう。

 胆礬は緑礬と同様、黄銅鉱との発熱反応なので、それが生成する坑道は40℃を遙かに超え蒸し風呂のような状態であったという。「今も古い坑道内にはよくみられる二次鉱物である」、と成書には書かれてあるが、胆礬が生じるのはキースラガーよりさらに高品位な鉱脈型鉱山の場合がほとんどで、四国のキースラガー鉱山跡でお目にかかれることは以外と少ない。確かに天井からそれらしいものがぶら下がっていることがあるが、だいたいは孔雀石や珪孔雀石など炭酸塩、珪酸塩の部類である。むしろ雨の当たらない場所のカラミや捨石に小さく付着していることのほうが多いようだ。副次的な要素の強い鉱物ではあるが、せめて一個は所有しておきたい銅山の花でもある。

 硫酸銅は小生らの年代には懐かしい思い出のひとつ・・中学一年時の夏休みに、理科の先生からオストワルドの「化学の学校(全3巻中の上中2巻)岩波文庫」の感想文と、硫酸銅もしくは明礬の結晶を作ってくるよう全員に宿題が課せられた。細粒の硫酸銅がはいった薬瓶をさっそく買ってはきたものの一向に気乗りしないまま40日間遊び呆けて、実際に作ったのは始業式の一日前。温度調整もいい加減で出来上がった結晶は、これが硫酸銅の結晶です、と言うにはあまりに無惨な代物で先生に叱られるのを覚悟で恐る恐る提出したのを良く憶えている。現在、硫酸銅は劇物に指定され、そのまま下水に流すことは禁じられ、舐めても危険なうえ、目に入れば失明の危険もあるので、子供だけでは、そう簡単には薬局でも入手できないだろう。よくそんな恐ろしいものを宿題に出していたものだと改めて驚くし、入門書とはいえ「化学の学校」(本は学校で一括購入してそれを全員買わされた・・)も今読んでも結構高度な内容で、13才の子どもに感想を求めるには余りに酷ではなかったかとも思うのだが、それが通用した当時の教育は良い意味でも悪い意味でも真に恐るべし!というべきであろう。まあ40年経ってもそれを憶えているということは、やはり当時の教育の勝利というべきか!?

 

 さて、本来、別子銅山は和式製錬の技術しかなく、鉱石も「上鉱」「カワ」と呼ばれる銅分10%以上の黄銅鉱だけを採取し、それに及ばない「イヤ」「アツバク」以下の硫化鉱は貧鉱として谷間にそのまま捨てられていた。当然、別子の製品も南蛮絞りを除けば精銅しかなく銅山とは銅だけを産出する処だと思われていた。「半世物語」によると、明治6年に来山したコワニェは広瀬宰平に、「含銅の鉱石を空しく谿間の路傍に放棄して暴雨の時流失せしむるは真に驚きに堪へたる採鉱方法なり。若し能く沈殿法と溶解法とを利用して之を精錬せば、必ずや以て莫大の利益を得べきなり。」と進言し、併せて煤煙からの硫酸製造と沈殿法による鉱水処理も助言したという。鉱毒処理にまで言及するのは当時としては画期的なことで、これに感銘を受けた宰平はさっそくイギリス人技師 ゴットフレーの元に留学生を送りその技術を習得させ明治9年には早くも本邦初の沈殿銅製造に成功、明治11年に至って別子山村弟地に本格的な湿式収銅所を建設した。詳しいことは「別子開坑二百五十年史話」に述べられているので省略するが、今まで捨てていた貧鉱を焙焼粉砕して浸出槽に入れ薄い酸を注ぎ、数日間攪拌して硫酸銅を溶解したのち、沈殿槽内で加熱して鉄の塊を投入、双方のイオン化傾向の差を利用してその銅分を抽出し、残りの母液を加熱濃縮、さらに冷却させて緑礬を製造したと推測されている。無用の産物としてゴミ同然に扱われていた低品位鉱石から収銅する西洋技術の素晴らしさに宰平はじめ別子人達は心底から感嘆し狂喜乱舞したと伝えられる。しかし、本法の持つ余りの新奇さゆえにその陰に隠された採算性の問題に気づいた人はほとんどいなかった。

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                         (明治25年、広瀬宰平が宮内省に提出した製品見本。

                                   左よりコバルト、胆礬、緑礬、硫酸。 「住友別子鉱山史」より)

 

 収銅の効率に気をよくした宰平は、明治19年、山根にさらに大規模な湿式収銅所を建設した。焙焼法に塩化焙焼法の改良を加え、貧鉱100貫目から含銅率70%の沈殿銅4〜7貫目を採収する製造能力があったという。この湿式収銅法によって銅以外の副産物として緑礬、胆礬、コバルト、硫黄、硫酸、銑鉄などの製品化にも成功、さっそく第三回内国勧業博覧会(明治23年)に出品して絶讃を受け、銅山が銅以外の製品を作り出すことも可能であることを広く内外に知らしめたのである(上写真は当時のサンプル瓶)。この年は奇しくも別子開坑二百年にあたり、宰平にとっても別子のますますの発展が約束されたようで人生における絶頂の時であったろう。しかし湿式収銅、硫酸製造ともに余りに時代に先行しすぎていたため、その採算性や煙害の問題がようやく顕在化してくることになる。さらに副産物の銑鉄を用いた製鉄業に固執して多額の費用を投資した末に技術上の理由から中止を余儀なくされ、上層部が新しいドル箱と目論む銀行業への進出にも独り異を唱えるなど、次第に若い台頭勢力との軋轢が激化し“老害”だと囁かれるようになった。しかも自分が長く仕えた友親、友忠父子があろうことか祝賀ムードに満ちた明治23年に相次いで他界し、公家の徳大寺家から馴染みの薄い養子の友純(友忠の学友)が住友を継いだことも精神的ショックであったかもしれない。いずれにせよ宰平はすべての責任をとる形で明治27年、勇退(とはいうものの半分促されての辞任)に追い込まれ、股肱の臣とも頼むべき一族の広瀬坦、広瀬満正もそれに前後して住友を辞職した。甥の伊庭貞剛が別子支配人となったのはせめてもの救いであったかもしれないが、伊庭は伊庭で我が道を行き、決して宰平の後をそのまま引き継いだ訳ではない。おまけに若干58才で住友を辞任するときの「事業の進歩発達を最も害するものは、青年の過失ではなく老人の跋扈である。」という言葉は自身への戒めではなく宰平への痛烈な批判のようにも聞こえるのは小生だけであろうか・・宰平未だ存命中の言葉だけにその胸中いかばかりかと思いやられるのである。

 宰平の辞職を契機として、新執行部は翌明治28年、採算割れの山根収銅所、製鉄所を即刻廃止し、伊庭貞剛指導の下、起死回生を賭けて四阪島精錬所建設に向かって大きく動き出したのであった。ちなみにこの胆礬は明治27年に採集されたということなので、あるいは山根湿式収銅所で製造された最後の製品サンプルなのかもしれないが、それはそれで貴重な歴史の証人のようにも思われて堪らなく愛おしく感じてしまうのである。それから120年を経て、山根の湿式収銅所を偲ぶものはわずかに背後の生子山(エントツ山)に残された唯1本の赤煙突しかなく、遠い宰平の夢を語りかけるように今も静かに新居浜の町並を見下ろしている。

 

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                           (明治20年代の山根湿式収銅所(左)と平成21年夏のエントツ山&新田橋)

 

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