上鉱
別子銅山最上部坑、すなわち銅山峰の直下から第一通洞(代々坑)にあたる一番坑道水準までは、開坑時より江戸時代を通じて採鉱されていた最も古い鉱区で別子銅山の露頭線にあたり、第一通洞南口付近の東延斜坑口東南方約100mの山頂より、北60度西の方向に連なり、天満、大切、長永、歓東、歓喜の諸旧坑口付近を過ぎ、銅山越の南方山頂を横切り寛永谷に下り、太平坑口付近を経て更に北西200mの山頂まで延々1km以上に達している。現在も大和間符(別子側)や都間符(立川側)をはじめ旧坑口が辛うじて山中に残されてはいるが、その内部を伺い知ることは全くできない。おそらく地表に近いので地下水や流れ込む土砂の影響で、ほとんどは崩壊し埋没してしまっていることだろう。しかし、ここに点在する遺跡群こそが、その規模、価値ともに東洋一と称された別子銅山発祥と発展の原点であり、今も住友グループの聖地となっていることは多言を要しない。
遡れば、それは元禄3年のことである。住友家が経営する、備中の吉岡銅山支配の田向重右衛門は、阿波生まれの廻り切夫、(切上り)長兵衛から耳寄りの情報を聞いた。当時、幕領に属していた伊予国宇摩郡別子山村にかなり有望な銅の露頭(ヤケ)があるというのである。すでに老山であった吉岡銅山に取って代わるべき新しい鉱山を模索していた重右衛門には“渡りに船”の話で、さっそく調査のため長兵衛を先導に一行は同郡天満村に上陸、幕府代官の許可を取り小箱越を経て別子山に分け入った。保土野で一泊したあと、禽獣の唸り声のこだまする原生林を岩頭にすがりながら遡行を続け、日もとっぷりと暮れた頃、遂に「蜂の巣焼け」と呼ばれる有望な銅山峰直下の露頭に辿り着いた・・・これが、住友公認?とも言うべき成書に記されている一般的な別子開坑史話である。しかし、多少の異論がない訳ではない。その最たるものは、開坑時、銅山峰には原生林はすでになかったという説である。峰の北側は西条藩の後ろ盾で立川銅山がすでに稼行中で、間吹き(製錬)も当然、同所で行われていたであろうから、西条藩側の山林は伐採され、煙害も加わって別子側も禿げ山の状態であったというのである。伊藤玉男先生は、さらに考察を深めて、開坑前の古文書に銅山峰が「赭山」(禿げ山)と記されていることから、煙害よりも銅山峰の置かれた気象条件がすでに森林限界を超えていたのだと、著書「あかがねの峰」で力説されている。人生の大半を銅山峰で活躍された“ヌシ”の御高説はさすがに説得力があるが、当時の立川銅山の山師にしても、今掘っている鉱脈の露頭が峰越しに存在することぐらいは当然わかっていた筈で、別子側が幕領であったために知って知らぬふりをしていただけかもしれない。それが後から参入してきた住友に横取りされてしまった形になったために、後々まで両者のトラブルは絶えず、西条藩も相当の抵抗を試みたものの結局は“お上”のご威光には抗しえずに、最終的に新居浜も含めて領地替えをさせられてしまったのはお気の毒という他ない。・・
話が思わず横道に逸れてしまったので元に戻そう。さて、苦労の末、“大森林”の蜂の巣焼けの露頭に到着した長兵衛一行はさっそく、露頭の試掘を開始した。そして夜半を過ぎる頃、狼の来襲を怯えながらも篝火を頼りに「遂に、戞として彼等の鏨の先に掘り当てたものは、その延長上部において四千九百五十尺、下部において三千九百六十尺、深さ無慮四千尺以上に達すると謂われる世にも類例稀なる別子型大鉱床の尖端であったのだ。彼等が母岩より砕かれ落ちた富銅鉱の一塊 − 紫蘇のやうな紫暗色に光る斑銅鉱であったろう、その一塊を手に掴んだ時、どんなに躍りあがって喜んだことか。別子開坑当時よりこの堀口を、歓喜間符と命名したのに依っても、彼等がその時の絶大の感激を偲ぶに余るのである。」と「別子開坑二百五十年史話」には誇らしげに最大の賛辞を以て記されているのである。この功績によって、切上がり長兵衛は、以後、住友親族と同格の上席に列することを許され300年経った今日もなお最大の功労者として称えられている。ちなみに、余談として最近の逸話ではあるが、10年ほども前に別子側の銅山峰登山口に(旧)別子山村が村費で公衆トイレを建設した。名付けて「長兵衛の思案所」・・銅山の発祥史話とトイレのイメージアップ(確かに武田信玄などはトイレで軍略を練ったと伝えられる)を重ねた素晴らしいネーミングだと考えたのだろうが、思わぬ所からクレームが付いて長兵衛より却って村側が思案に暮れ、ひたすら謝るしかなかったという。つまり、某企業グループから、「別子銅山最大の功労者の名前をトイレにつけるとは何事か!」と ▽▽・・
(左は昭和初年の歓喜坑(左)と歓東坑(右)「別子開坑二百五十年史話」より、 右は修復された歓喜坑。小生の登山記録より)
さてさて、いつもの事ながら前置きが大変長くなってしまったが、今回提示するこの古い別子の鉱石標本は、風化と酸化により全体が錆びて変色しているものの、内部はすべて黄銅鉱と斑銅鉱の塊で、ずっしりとその重量感も素晴らしく、平均銅含有率は低く見積もっても40%を優に越えているだろう。注目すべきは標本の右上に見られる褐鉄鉱化した帯状の部分で、これはおそらく露頭の割れ目か坑道の表面であろう。地下水と空気による著しい脱硫化と風化部分に接してすぐに高品位の紫蘇ノが大部分を占める特異な産状は、上記した露頭直下の酸化帯の超高品位鉱を彷彿とさせる標本として極めて貴重でないかと思われる。斑銅鉱の一部にも地下水の影響と思われる網目状の隙間が縦横に観察され、一般のハネコミの2次富化鉱とは一味も二味も違う独特の渋い味わいを見せている。かって開坑時に重右衛門一行が掘り出して抱き合って歓喜したという鉱石も、このようなものではなかったかと推測できるのである。閉山ののち、「住友別子鉱山史」編纂にあたって、詳細な「別子鉱床群の地質と鉱床」の論文が初めて住友の手により公開されたが(稼行中は鉱床の資料はほとんど社外秘とされていた)、それを以ってしても「8L(第三通洞水準)以上については、戦後採掘された「最下ヒ」の一部を除き分析結果がほとんど存在しない。」とか「残柱や凍山中の鉱石片等から判断すると、上部では斑銅鉱、黄銅鉱の不規則網状細脈を伴い、高品位鉱を形成していたと推定できる。江戸時代、ヨモギノ、虎ノ、紅ノ、シソノと呼ばれた主体はこのようなものであったと思われる。」と推測を記するに止まっているところをみると、系統的な鉱石標本は上部坑については社内にも残っていないのでは?・・と勘ぐってみたくなるほどである。そのような中で、この標本は、「上ノ 別子銅山」とだけ墨書された古い桐箱に納められ、坑夫さんの家に大切に保管されていた物だそうなので、あるいは別子の誇りとして代々受け継がれてきた家宝的な存在だったのかもしれない。標本を取り出すたびにこの鉱石の発する、何か神々しい気高さに畏怖の念に駆られてしまい、今、小生の手にあること自体が奇蹟のように感じてしまうのである。
一方、別子には、「源兵衛鋪」と呼ばれる不思議な伝説がある。開坑後、銅山の採鉱はそれぞれ個人の金堀師が請け負って、「ノ買い」という住友の役人が鉱石の見立てをして買い取るのを通例としていた。その中で源兵衛という金掘師は、いつも素晴らしい上鉱ばかりを売りに来るのでノ買いも一目置いていたのだが、次第に他の坑夫の妬み嫉みを受け、源兵衛自身も傲慢な態度を見せたので、遂にノ買いは彼の鉱石買い上げを一切拒否するようになった。これには源兵衛もほとほと困ってしまい詫びを入れて買い取りを幾度も懇願したが、ノ買いはすべて門前払いにした。そこで彼は腹を決め、家人と飼っていた鶏を抱いて自分の坑道に入って中から封をしてしまった。「鶏の鳴いている間は生きていると思ってくれ。それが絶えたら皆、死んでしまったと思ってくれ。しかし、この坑道だけは誰にも渡さない。」という恨みの言葉を残して・・。それ以降、時々、銅山峰から谷底を見ると、あらぬ処に源兵衛の坑口が陽炎のように見えたり、金鍋谷の方角から鶏の鳴き声が聞こえることがあるのだが、その坑道の所在は今以って杳として知ることはできない・・というものである(「旧別子の伝説」 芥川三平より改編)。昭和に入り、新鉱脈を求めて鉱山周辺の近代的な探鉱が精力的に行われた際、調査はこの源兵衛鋪の伝説を頼りに金鍋谷付近を特に詳細に探し求めたと言われている。しかし結局、有望な新鉱脈は見つけることはできず伝説のまま、永遠の謎として閉山を迎えてしまった訳だが、それほど源兵衛鋪伝説は山師なら誰もが虜となってしまうほど魅惑的なもので、開坑から閉山まで、坑夫ならみんな一度はあこがれた一攫千金の共通の夢でもあったのだろう。おそらく彼が売りにきた上鉱も本標本のような姿ではなかったか、あるいは今も銅山峰のどこかに源兵衛鋪は人知れず眠っているのだろうか・・などと、同じ別子を支える超高品位鉱に関わりながらも長兵衛と源兵衛の余りに違う身のさだめを、この一握の鉱石を眺めながら、ひとり思いを巡らすのである。
(明治20年代の銅山峰と露頭線 歓喜坑は右端。「旧別子銅山案内」より)