温泉沈殿物(別子鉱泉)
いわゆる「湯ノ花」と呼ばれる温泉沈殿物である。別子鉱泉の源泉吹き出し口から小生が採集した。マイントピア別子に併設されたこの「ヘルシーランド別子」の源泉は、脇を流れる国領川沿いに下ること2kmばかり、“岡の久保”と呼ばれる河床の水底から湧きだしている。泉質は「炭酸水素塩・塩化物冷鉱泉」(15.4℃)で、標本はおそらく結晶片岩表面に鉄分を含んだ炭酸カルシウムが沈着したものであろう。マイントピア別子のすぐ脇の河原には巨大な石灰岩が露出しており、第四通洞内にも塊状の石灰岩が集積する場所が存在し、銅精錬用の溶媒として運び出された時期もあったというから、このあたりの地底には地下水に溶けた炭酸が大量に溶存しているのかもしれない。
下写真は源泉の様子である。2年ほど前に「愛媛石の会」会員のW氏にご案内していただいた。国領川の河原ではあるが、ここに至る直接的な道はなく、川を遡行しなければならない。まだ暖かい時期で水量も結構多かったが、なんとか辿り着くことができた。残念ながら水中には藻類が繁茂して透明度も良くはなかった。しかし、川面に湧き上がってくる炭酸ガスの気泡がそこかしこに見られ、実に奇妙な眺めである。すぐ上には車道も通っていると思われるのだが物音ひとつせず、静寂の中にこの世のものとも思われない神秘的な感覚に打たれてしまった。左の写真はそのときの光景。川面に泡沫が上がっているのが微かにおわかりだろうか?右の2枚はW氏提供の写真で、後日、藻がなくなり水底から細かい気泡が静かに上がっている様子である。しかしW氏の写真技量を以ってしても、その万分の一の描写も尽くしているとは言い難く実際に見ていただかなければこの感動はわからないだろう。不思議なことに気泡が見られるのはこの一角のみで、岩の向こう側に回ってもみたが、同じ光景を見ることはなかった。不気味な藻が集まっているのも此処だけなので、なにか温泉と関係があるのかもしれない。
源泉の傍らには、別子鉱泉のボーリング跡と思われる打ち抜き孔が残っている。今回の標本を採集したのも此処である。小生が訪れた時は鉄管も錆び付き乾いており過去の遺物かと思っていたのだが、W氏が鉄管から間欠泉のように激しく自噴する炭酸泉の姿を捉えるのに成功した(右写真)。ラムネのように細かく泡だった白濁の液体はまさに炭酸泉そのものであることが写真からも見て取れる。おそらくヘルシーランド別子へ汲み上げる泉脈と地下で繋がっていて圧力の関係でときどき噴き上がってくるのだろう。或いは鉱泉のガス抜きの役目をしているのかもしれない。さて、そのお味の方は如何だろうか?と気にはなるのだが、周囲の状況からしてちょっと掬って飲んでみようかという気持ちには到底なれない。有馬温泉の炭酸泉やラムネ温泉の設備のように安心して飲める環境にすれば飲用泉としての活用も拓けるかも・・。まあ鉄分も結構多そうなので錆臭く、ラムネのような透明な清涼感は得られないかもしれないが・・
そんな別子鉱泉は昭和はじめに角野の大親分、木下伝次郎により発見されたと伝えられる。そのあたりの経緯は小生の絵葉書の項で詳しく述べておいた。開業当初は「立川温泉」とか「龍神温泉」などと称し、半公営とはいうものの河東碧梧桐など著名人を招いて宣伝にも努めたが、戦争や人事面の不幸が続き戦後は住友の寮として使用されたこともあったと云う。しかし、高度成長期に入ると立川渓谷が県指定の名勝に指定されたこともあり、いわゆる「別子ライン」が整備されるとともに、別子鉱泉も民間経営の下で力強く蘇った。蓬莱荘(白鳥別館)や新居浜観光センターを懐かしく思う方も多いだろう(下写真)。その後、第3セクターのマイントピア別子に温泉財産は継承され、サウナや電気風呂、イベント風呂やジェットバスなど数々の機能を有するスパリゾートとして、リーガロイヤルホテル新居浜のアクアガーデン(こちらは鉱泉ではないが・・)と市民の人気を競いあうこともあった。だが熱しやすく冷めやすいのが、この地方の住民気質・・おまけにバブル崩壊のツケは余りに大きくドル箱と頼む固定の法人会員は次々と離脱し、付近に地下1000mも掘削したスーパー銭湯としての“天然温泉”が乱立したこともあってアクアガーデンは早々に廃止され(今は跡形もない)、ヘルシーランド別子も毎年、多額の赤字を垂れ流す最悪の事態に陥った。2011年、佐々木 龍市長が“重大な決断”をしたことで、別子鉱泉の命運ももはや定まった感は否めない。ある市民団体も即時廃止陳情書を市議会に提出したというが、これほどの温泉財産を簡単に放棄していいものだろうか?・・そこで、この項では、全国に誇れる“素晴らしい”別子鉱泉のために、小生流にささやかな弁護をしておこうと思う。
(左は別子温泉ホテル「蓬莱荘」、右は近鉄新居浜観光センター)
炭酸泉の効能の第一は、なんといってもその血管拡張作用による。一酸化窒素(NO)の作用に較べるとまだまだ不明な点が多いのだが、人体周囲を二酸化炭素で充たすと著しい発汗と血行促進作用、血管拡張による皮膚紅潮などを来すことが実験で証明されている。血行促進は筋肉内の酸素供給量を増加し乳酸分解を加速させ、いわゆる筋肉疲労の軽減にも役立つことが知られている。ただ密閉すると呼吸ができなくなるので“酸素カプセル”の形体にはできないが、その欠点を補うのが高濃度の炭酸泉という訳だ。皮膚は二酸化炭素の排泄器官でもあるので、周囲の二酸化炭素濃度が上昇すると拡散が妨げられ血中濃度が高まってくる。体内には“酸・塩基平衡”という化学機構があって常に血液はpH7.4に保たれている。二酸化炭素が上昇するとpHを一定にしようと血中の重炭酸イオンが同時に上昇してアルカリ性に傾こうとする。また皮膚からの排泄が減少する分、肺からの二酸化炭素排出が促進される。血中濃度上昇は延髄の呼吸中枢にも作用して、呼吸数が速くなりこれらが協調しあって新陳代謝を亢進させるのである。炭酸泉はどこも比較的低温なのだが、それでもしばらく浸っていると顔面の発汗や呼吸数が増加し、入浴後も長い時間、ポカポカと暖まって得も言えぬ心地よい疲労感に満たされるのは以上のような理由に依る。
もうひとつの効能は二酸化炭素の纏わり付くような気泡である。家庭用の入浴剤でも、皮膚や体毛に小さな気泡がビッシリと付着して湯面が細かく泡だってくるのはしばしば経験することだろう。そうした泡は皮膚からの二酸化炭素排泄を抑制するだけでなく保温効果も高める。だが、それ以上に注目されるのがキャビテーションと呼ばれる現象である。キャビテーションは気泡がはじける際に発生する超音波による一種の衝撃波で、これが皮膚や筋肉をほどよく刺激するのである。一般の銭湯などでも、衝撃波を謳うバブルジェットバスがあるが、機械的な大きな気泡ではキャビテーションは発生しにくく、発生したとしてもそのエネルギーは極めて小さい(キャビテーションのエネルギーは気泡の半径に反比例する)。せめてラムネの泡以下の大きさが求められるので、炭酸泉は最良のキャビテーション発生装置ということもできるだろう。たかが泡と思われるキャビテーションのエネルギーも決して馬鹿にはできず、船のスクリュー破断や水力発電所の巨大なタービン破壊の原因にもなると言うのだから恐ろしい。そんなことを想像しながら湯に入るだけで何となく効いている気がしてくるから不思議だ。
インターネットを検索すると、温泉の効能として「疲労回復」「ダイエット」「美肌効果」「リハビリ」「筋力アップ」「傷の治癒促進」などが高らかに謳われているが、こと炭酸泉については決して怪しげな疑似科学やトンデモ学に依るものではなく、このほとんどが科学的に実証された確固たる効能であることを強調しておこう。余計なことだが、小生も皮膚から排泄される二酸化炭素の赤外分光の研究をしているが、人体の恒常性に様々な変化を及ぼすバロメータは吸入する酸素よりも寧ろ排出する二酸化炭素であるという結論を得ている。
そうした観点で別子鉱泉の成分を見てみると、愛媛大学の分析によれば、溶存する重炭酸イオンは約 1000mg/kg 、遊離二酸化炭素濃度は約
2000mg/kg ということになっている。遊離炭酸濃度で日本一を自称する長湯温泉(大分県竹田市)では、2970mg/kg 、吉川温泉(兵庫県三木市)で
4110mg/kg と記載されているから、別子鉱泉はその半分近くの炭酸濃度を有している勘定にある。温泉成分を付記している「四国日帰り温泉」(山と渓谷社)という書物を見ると、確かに“炭酸水素塩泉”は四国各所に点在するがアルカリ性単純泉の多い東中予では珍しく、おそらく遊離炭酸濃度に関しては四国でもダントツ高いのではないかと思われる。一般に 250mg/kg 以上の炭酸含有量があれば“炭酸水素塩泉”を表示して良いことになっているそうだから、その10倍の濃度を誇る本泉は充分驚嘆に値する数値というべきであろう。ちなみに有名な炭酸入浴剤である○ブ1個の炭酸濃度は約 100mg/kg 程度らしいので、その差は歴然としている。他の人工炭酸泉も常温で溶解する二酸化炭素濃度には限界があり、多くても 1000mg/kg 以下であることを考え合わせると、別子鉱泉の炭酸濃度は地下の盤圧の高い場所で溶存しているためにこうした高濃度が保持できているのであろう。
もう一つ、人工泉に真似できない効能として塩化物泉の成分を兼ね備えているという点がある。いわゆる“塩湯”で、本泉には Na イオン 1110mg/kg 、Cl
イオン 1660mg/kg を始めカルシウムやリチウムなど各種のミネラルが溶け込んでいて体に優しく保温力の強い特質があり、炭酸泉とのダブル効果で医療やリハビリにも役立てることもできる。実際、全国300ヶ所以上の病院で炭酸泉や塩化物泉が導入されていることを思えば別子鉱泉は、特に質の高い“療養泉”ということもできるだろう。
良いこと尽くめの別子鉱泉だが、少々注意も必要である。まず、炭酸泉はラムネと同じで時間が経つに従い肝心の炭酸が抜けてしまうため「源泉かけ流し」にしておかないと効果が半減してしまう。常温常圧でも1時間に10%づつ二酸化炭素が失われていくそうだから、ヘルシーランド別子のような大きな浴槽は極めて不利ということになる。また、お湯を再利用する循環式浴槽などは炭酸泉にとっては論外のとんでもない話だ。さらに温度が上がるに従って二酸化炭素の揮発も鰻登りになる訳だから、40℃以上の加熱も成分を損なわせる大きな原因となる。炭酸泉の最適温度は34〜35℃前後と結構ぬるめの湯となっているので、熱いお湯を好む方には物足らなさが残る好き嫌いのハッキリした温泉とも言える。小生も昔、ヘルシーランドの露天風呂に入ったが寒い立地条件ということもあって40℃以上の熱めの設定になっていた。あれでは炭酸の抜けたラムネを飲んでいるのと同じになってしまう。公表されている別子鉱泉の成分はあくまでも源泉の成分である。実際の浴槽にどれほどの炭酸が溶け込んでいるかは改めて調査をしないと不明だが、源泉からの距離があり、広大な循環式浴槽である以上、かなりの炭酸成分が揮発散逸してしまっている可能性は否定することはできない。それを知るもっとも簡単な方法は、入浴してすぐ体表面に小さな二酸化炭素の気泡が付着するかどうかである(下写真)。これがなければ市販の入浴剤以下まで濃度が低下しているということになるのだろう・・近くにお住まいの方はぜひ調査してみてください!
(左は長湯温泉のかけ流し露天風呂。炭酸泉はこれが理想的なサイズである。右は皮膚に生じた気泡。)
以上、別子鉱泉の素晴らしさを思うままに述べてみた。昨今、天然の炭酸泉は若い女性を中心に空前のブームとなっている。テレビや週刊誌でその美肌やダイエット効果が喧伝され、鄙びた宿のぬるめの炭酸かけ流し露天風呂にゆっくりと浸って疲れを取り、おいしい料理と暖かいフワフワの布団にくるまれば明日からの忙しいOL生活への活力も又湧き上がってくると言うものだろう。今や女性のココロを掴めば化粧品にしろダイエット器具にしろ1兆円市場とまで言われている。都会でも高濃度の人工炭酸泉が大流行だが、やはり天然温泉に如くはなく、全国に高濃度の炭酸温泉は14ヶ所しかないこともあって、こうした温泉場は時代のニーズに則して今後も隆盛を続けていくことだろう。
それに較べて、ヘルシーランド別子のこの惨状はどうだろうか!・・隆盛どころか廃止の時期をどうするかを市長が中心となって議論している始末。そんな暗いニュースが連日のように地方新聞を賑わわせている。確かに今のままでは存続は到底不可能だろう。炭酸泉の価値を生かし切れない現在の設備に膨大な維持費をかけるだけの値打ちはもはや無いと言わざるを得ない。また、地元の女性の何%が、美肌効果の著しいヘルシーランド別子の温泉成分を知っていると言うのであろうか?それほど市民に遊離炭酸泉という認識が浸透しているようにも思えない・・しかし、それは別子鉱泉の責任ではなく、ひとえに管理者側の宣伝と経営能力不足に起因するものである。高濃度炭酸泉の真価は小さな源泉かけ流し浴槽と低温によってのみ発揮される。一刻も早くこうした温泉に作り替え、“美肌の湯”や“療養泉”の効能を広く宣伝することによって生き残る道はまだまだあると小生は信じている。河原の源泉と組み合わせればさらにインパクトも増すことだろう。ヨーロッパではそうした炭酸泉が湯治用にローマ時代から開拓され療養泉として現在も絶大の人気と信頼を保っていると仄聞するが、四国でも類い希なるこれほどの名泉が、知られることもなく寂しく廃れていくのを見るに付け、限りない断腸の思いを禁じ得ないのである。ちなみに、韓愈の名文に「雑説」というのがある。今の別子鉱泉の状況をよく表していると思うので、その概要を掲げてこの駄文を終わることとしよう・・・「世に“千里の名馬”というが、そんな馬はいつでも居るのである。だが、それを見いだす(才を持った)伯楽(博労)が常に居るとは限らない。伯楽がいなければどんなに名馬でも他の奴隷馬と一緒に扱われ才能を見いだされることなく馬小屋の片隅に寂しく死んでいくのである。千里の馬はまた食欲も旺盛である。充分に食べなければ走ることもできない。しかし、才のない飼い主は、喰らうだけしか能のないこの穀潰しめが!と、ますます馬に辛く当たり天を仰いで「ああ、天下に名馬はいないのか!」と嘆息するのである。さてさて、本当に名馬はいないのだろうか?、それとも名馬を知らないだけなのだろうか?」・・・