別子温泉(立川温泉)

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生子橋を過ぎて、国領川を遡ると、山の端を大きく迂回した後、幅広い瀬が現れる。

いわゆる「渡瀬」である。昔はこの絵葉書のような吉野桜と松翠が織りなす別子ラインの名所で

手弁当で花見をしながら、鉱石を満載して左岸を走る下部鉄道に快哉する人々で賑わったという。

このあたりに「岡の久保」と呼ばれる場所があり、川岸の黒色片岩を茶色に変える水が湧出していた。

これに目を付けたのが、かの木下伝次郎(上写真)と石川昇平村長であった。昭和3年と伝えられる。

以後、今日のマイントピアに至る変遷を、「新居浜よいとこ」(昭和39年刊)から抜粋させて戴く。

 

時の大親分 木下伝次郎(通称 木の伝)は、運送業と土建業で財を為した角野村の誇る一代の傑物で

その影響力は住友は言うに及ばず、広く新居郡に亘って政界や財界からも一目を置かれていたという。

文盲だったと伝えられるが、明晰な頭脳と肝っ玉の論客で、弱きを助け強きを挫く民衆の味方であった。

また、独特の宗教観を有し、自ら「笹ヶ峰(石鉄山)」を奉祭、「木下教」の教祖として信者に君臨した。

その辺の事情は、小生の「立川村本村の景」で触れておいたし、「角野のあゆみ」(角野公民館)にも詳しい。

特に「木下教」については安森滋先生の「親子三代笹ヶ峰物語」に詳説されているので参考になるだろう。

さて、その“木の伝”が、淵から湧き上がる気泡と、岩に付着する“湯ノ花”から温泉に相違ないと判断、

さっそく、分析を依頼したところ、炭酸泉であることが判明。龍河神社に因んで「竜神温泉」と銘々した。

翌、昭和4年に愛媛県から温泉開発の許可が下りるやさっそく経営を開始。石川村長を筆頭名義人とし

道路開拓と温泉建築先任者に木下氏(当時 村議)、分析と技術指導に、薬剤師の久保氏が任に当たった。

半ば公的な運営方針で、昭和6年には、河東碧梧桐が宿泊するなど宣伝にも努めたが、町民の反応は冷たく

下流の飲料水が汚れるとか、伝染病が蔓延するなど、あらぬ噂を立てられて評判はいまひとつであった。

そうした悪しき風聞を物ともせず真っ直ぐに突き進む、“快傑”木の伝の度量と度胸に全てが期待されたが

あろうことか、昭和14年には木下氏が、昭和17年には石川氏が相次いで他界し、温泉の営業は頓挫した。

戦後、ひとり残った久保氏が復員してみると、温泉許可期限も過ぎ、建物は住友に寄付されていたという。

そんな中でも、久保氏は孤軍奮闘を続け、昭和28年に再分析をおこない、再び営業許可を取り付けたが

借地問題が難航し、角野町の経営で再建しようという協力者の働きも空しく、権利は新居浜市に移管された。

 

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昭和30代に入ると、人々の生活にも少し余裕が見られるようになり、次第に温泉再開の機運が高まってきた。

時折しも、別子ラインが県の「名勝」に指定されたのを受け、「別子観光温泉ホテル設立事務所」が創設された。

有志を募ってようやく開業したのが、後の「白鳥別館」である。左図は「にゐはま」に掲載された当時の描画。

料理と泉質の良さは開業当初から定評があり、根強いファンも多かったのだが、現在、休業中なのが惜しまれる。

昭和38年になると、新たなボーリングが掘削され、82mの地下から毎分135g、16℃の冷泉が自噴した。

泉質は別表(「角野のあゆみ」より)の如く、炭酸を多量に含んだ食塩泉で、特に炭酸ガスの多さには驚きである。

この豊富な泉源を引き込んで、鳴り物入りで開業したのが、新居浜近鉄観光の「新居浜観光センター」であった。

煙突山と新田住宅」でも触れているが、小生にとっても小学生時代の思い出がいっぱい詰まったヘルスセンターで

延べ4300uの娯楽場本館と、1300uの別館(宿泊棟)が軒を連ね、本館には大浴場、野天風呂をはじめ

まだ珍しかった全8室の家族風呂なども当館自慢のひとつ。浴場の総面積だけでも600uの広さを誇っていた。

右図は、昭和41年の入園券。「たんさん泉」とあるのが印象的だが、小生は遊びに耽って浴場の記憶は希薄である。

新居浜観光の切り札と期待されるも、客数の伸び悩みで撤退。今は住宅地となりそれを偲ぶものは何も残っていない。

 

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新居浜観光センター亡き後、その温泉財産の正当な後継者として誕生したのが現在の「ヘルシーランド別子」である。

平成3年に第三セクターで始動したマイントピア別子に併設され、13種類のお風呂巡りが楽しめるようになっている。

露天風呂は広く開放的で、大永山の山並みを見ながらのんびりと浸かる炭酸泉の心地よい刺激は味わい深いものがある。

最近は地下1000bも掘削したスーパー銭湯大流行の中で、昔ながらの自然湧出の温泉というのも貴重な存在である。

だが、公営施設の悲しさか!?宣伝不足で、開業時に較べると入浴客も減少し、民営温泉に押され気味なのは否めないが、

“木の伝”に始まるこの温泉の背負う紆余曲折の歴史を思えば、ここまで存続し得たのも泉質の良さあってのことであり

端出場という別子銅山の産業遺跡と共存しながら多くの観光客を迎え入れる、今ある姿を郷土の誇りとして大切にしたい。

 

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別子鉱山下部鉄道脇にある別子温泉揚泉設備 「東人の新居浜生活」より転載させていただきました。

 

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