チタン鉄鉱(国領川)
愛媛県新居浜市の国領川で採集されたチタン鉄鉱である。場所は“マイントピア別子”の河原付近と聞いている。母岩を含まないほぼ無垢のチタン鉄鉱で、わずかに湾曲しながら板状に幾重にも固溶している産状は、この地域の三波川帯に包胎する典型的な姿でもある・・と言ってもこれほどの厚さと大きさの塊はおそらく稀で、手にしたときのズッシリとした重みは、まさに“鉄の塊”といった手応えを感じさせてくれる。チタン鉄鉱といいルチルといい、別子・五良津あたりの標本がすべてジャンボなのは、過去の凄まじい地殻変動が引き起こした強い変成作用の賜物であり、鉱物を収集する者にとってはまことに嬉しい限りではあるが、その上に住む人々にとっては地震や津波といった大きな災害と隣り合わせでもある訳で、今回の東日本大震災の惨状を見るにつけ、限りない不安と恐怖を実感するに足る証拠の品でもある。そこで、今回は、そうした変成鉱物を地表にもたらした“中央構造線”について、小生の知るところと思うところを簡単に述べてみようと思う。
(左 黄色が中央構造線、赤がフォッサマグナ。右 四国を走る中央構造線の威容)
中央構造線は、西は九州から東は関東まで延々1000km以上に亘る日本最大の活断層(左上 黄色)で、起源を遡れば中世代白亜紀から1億年以上の歴史を有している。右上図は四国付近の拡大写真。西予から徳島、紀伊半島にかけて一直線に走る断層崖は見事なほど美しく、各種教科書にも掲載され世界でも有数の断層地形として知られている。この断層を挟んで北側は「西日本内帯」と呼ばれて和泉層群の砂岩や領家帯花崗岩が、南側は「西日本外帯」として三波川帯の結晶片岩が広く分布している。もともと結晶片岩はジュラ紀から白亜紀(6000万〜1億年前)に地下数十kmに沈み込んだ玄武岩などの海底堆積物が変成を受けて生じた深成岩で、それから1億年をかけて、中央構造線の南に上昇しながらせり出してきたもので、一概に“結晶片岩”と言っても、場所により変成度の違いがあって、それに伴う鉱物の種類も多種多様である。今回のチタン鉄鉱などは角閃岩に含まれることが多く、ある程度の高い変成度がないと安定的に生成することはできないと考えられている。中央構造線は今も止まることなく眼に見えない速さで動き続けており、垂直方向だけでなく、水平方向の“右横ずれ断層”であることが、航空写真の詳細な解析から明らかになっている。実際、北に向かって瀬戸内海に流れ込む河川は、構造線を越えるあたりからすべて東方向に流れの方向を振っているのを容易に確かめることができるだろう。こうした動きは決して連続的ではなく、何年かごとに突然、大きな動きをすることが知られており、これが直下型の巨大地震となる訳である。中央構造線では、約1万年の周期と推定されているが、有史以来、動いたという記録がないことから、「いつ動いてもおかしくはない・・。」という漠然とした不安がいつも付きまとっている。言うまでもないことだが、この地震は、最近危険性が高まったとされる東南海地震や南海地震とは別物の直下型活断層地震である。いわば阪神・淡路大震災の大型版である。これが動くときは震源至近のM8〜9クラスの超巨大地震と考えられているから、揺れだけでも南海地震や東日本大震災の比ではなく、四国はまず完全に潰滅することになるだろう。
(大陸プレートと移動方向。「山賀 進」のWeb site
より。)
こうした断層の起源は、もちろん大陸プレートの移動である。日本列島は、“ユーラシアプレート”の東に向かう動きと、“太平洋プレート”の西に向かう動きの板挟みになっている。四国の南には“フィリピン海プレート”と呼ばれる小さなプレートも介在しているから事情はさらに複雑である。もともと5大大陸は、2億年前には“パンゲア”と呼ばれる大きな一つの大陸であった。この頃は、極東とアメリカ間は地球の3/4周ほども離れていて、地向斜と呼ばれる遠浅の海が拡がっていた。ジュラ紀に始まった“太平洋プレート”の西への移動は、極東付近でマントルに沈み込みながら“ユーラシアプレート”に圧力を及ぼし、それが活発な造山運動を引き起こして日本列島が誕生したとされる。中央構造線も、この頃、双方の圧力の“はけ口”として形成されたのだろう。一方、“ユーラシアプレート”も黙って押されている訳ではなく、巨大な図体を利用して“太平洋プレート”を東に押し返している。地球物理学の権威である故竹内 均博士(「日本列島地学散歩」 平凡社)によれば、もともと中央構造線は、朝鮮半島の、ちょうど38度線付近にあったが、その後、500kmほど南方に移動して現在の位置に達したと推察されている。2000万年前(新生代中新世)に起きた日本海の誕生と拡大がその原因とされているが、おそらく凄まじい陥没する地殻変動と火山活動を伴いながら日本列島を大陸から引き剥がしたのである。小松左京の「日本沈没」のモデルにもなったというその時の分離移動に伴って噴出した多量の溶岩(玄武岩)が日本海の海底には今も厚く堆積しているのがわかっている。日本海の拡大はその後も続き、日本列島をフォッサマグナを軸に引き裂こうとする強い力が今も働いており、将来的には日本は、ここから真っ二つに分断される運命にあると考えられている。日本列島は“弓なり”とよく言われるが、そうした理由あっての“当然の帰結”として“弓なり”なのである。弓道に例えれば、いずれ「よっぴいて、ひょうと放つ」ために、“きりきり”と力を今まさに貯め込みながら引き絞っている“引分け”の時期とも言えるだろう。最近は、南海トラフの危険性のみが特にクローズアップされているが、プレートの沈み込みが日本列島の真下を越えて日本海まで及んでいることを思えば、日本海の異常も南海トラフ以上に重要である訳で、新潟や長野に頻発する地震や、隠岐に打ち上げられた大量の深海魚の死骸報道を見るにつけ、得も言えぬ恐怖心に囚われてしまうのである。
余談になるが、小生は四国の大きな「ランドサット」衛生画像を自分の机のテーブルマットに敷いて仕事をしている。疲れた時やつれづれに、昔登った山々や遊びに行った島々を同定しながら眺めていると結構慰めになるものである。ある時、高知付近の地形を見ていてちょっと面白いことに気が付いた。室戸を含む四万十帯の地層は、プレートの沈み込みで取り残された地殻の表層が累積した、いわゆる“付加帯”として注目され、近年“世界ジオパーク”にも指定された。その室戸から野根山にかけての尾根と谷間のコントラストが、すべて北に扇型に撓んでいるように見えるのである(下左)。もちろん通常の地形図ではわからないし、Google や Yahoo の衛星画像でも不明瞭である。そこで過去の南海地震後の地盤変動計測図(下右。隆起は実線、沈降は破線 単位mm)と見比べると妙に似通っていることから、この“撓み”こそが南からのプレートの圧力が室戸周辺にかかり続けている姿ではないかとも思うのである。これが事実とすれば、衛星写真に映るほどの凄まじい過去が、中央構造線だけでなく室戸にも刻み込まれているとも言えるだろう。
(右図は「大学教育 地学 教科書」(共立出版 2008年)より転載)
さて振り返って、その中央構造線を県の端から端まで図々しいほど一人占めしている、わが愛媛県の防災意識はどうだろうか?・・まず思い出すのは、高速道路(松山道)の入野PA(愛媛県宇摩郡土居町)に嘗て有った中央構造線の説明板である。木製の堂々としたもので、駐車場のよく目立つ場所に設置されていた。地形図を交えて詳しく説明しながら、「ナウマンにより発見された日本最大の断層として知られています。」と誇らしげに記載されていたように記憶する。ところが、1995年の阪神・淡路大震災後、いつの間にか撤去されてしまったのには少々驚いた。まあ、人々にパニックを起こさせないようにする公団側の配慮かもしれないが、同じ理由でSPEEDIのデータも秘匿され、福島の人々の内部被曝が激増したことを思えば、国家統制の国と比較しても遜色ない当局の独断的な情報管理には背筋に寒さを感じたものである。「人民は盲目にしておけ。」というのは、どこかの社会主義国の金言であったようにも記憶するのだが・・。
また、「中央構造線」を見たいと地元に尋ねると、判を押したように返ってくるのが「砥部の衝上断層」(下左)である。確かに中央構造線を挟んで、古い和泉層が新しい明神層に逆転して衝き上げている様子は、さすが天然記念物の名に恥じない貴重な露頭ではあるが、肝心の結晶片岩は明神層の礫岩の下に隠れているので、砂岩と結晶片岩がダイナミックに接合する断層の姿が見られる訳ではなく、期待して訪れた人はガッカリして帰ることも多いようだ。小生も最初に見たときは、砂岩と角礫岩の違いも良く分からず、これがどうして大断層なのだろうと不思議に思ったものだ(勉強不足と言われればそれまでなのだが・・)。砥部断層の天然記念物指定は昭和13年というから、その頃に比べると断層に対する知識や人々の認識も随分違ってきているし、愛媛には浦山川や桜三里(下右)などに、破砕帯と火山岩脈を挟んで砂岩と結晶片岩が直接観察できる教科書的な露頭も所々知られているのだから、中央構造線を県民に広く啓蒙するには、もっとわかりやすい新たな露頭場所を開拓する必要もあるのではないだろうか?「地学のガイド」(コロナ社)によれば、新居浜の愛媛県総合科学博物館近くを流れる小河谷川の露頭も古くから知られているようだが、構造線直上に位置する博物館がそうした場所を積極的に整備する訳でもなく、館内に中央構造線の解説や説明がまったくないのは怠慢としか言いようのない体たらくである。一方のフォッサマグナが立派な博物館を開設しジオパークにも指定され、長野県大鹿村の中央構造線博物館も震災後はますます知識を求める来館者が増加している状況に比べると、何とも情けなく悲しい気持ちになる。県民の貴重な税金を使って建設した施設なのだから、県民の抱える大きなリスクについてわかりやすく教示し、来るベき大震災に備えて防災意識を高める指導的立場に努めるのが本来の使命というべきなのに、大学と同じような浮世離れした己の研究に没頭するだけでは、“税金泥棒”と非難されても到底、言い逃れはできないだろう。この地域の人々が最も知りたい地震や原発に対する科学的要望にはまったく答えず、子供のウケばかりを狙うのなら、誤解を招かないためにも、いっそ「愛媛県総合こども科学博物館」と名称を変えた方がいいかもしれない。
(左は砥部、右は丹原町湯谷口の中央構造線。丹原一寛 論文「愛媛石の会会誌 第12号 2011年」より転載)
下は、香川県が監修し、四国新聞社が購読者に無料配布した“南海地震”を想定する50ページの小冊子。中央構造線をはじめ大小の活断層を有り体に解説し、地震の規模、津波の高さ、防災方法に至るまで、地域のハザードマップを示しながらわかりやすく纏めてある。日頃、防災への関心が薄いとされる香川県にしてはよくできた“地震対策ハンドブック”で、母が実家からの持ち出しを渋るのをこの記事を書くために一時的に埼玉に持ち帰ったもので、次回帰省時には早急に返却を求められている(苦笑)。中央構造線と直接接しない香川県でさえ、これほどの防災意識の発揚である。当の愛媛県は、南海トラフ地震と中央構造線直下型地震に加えて伊方原子力発電所のリスクまで上積みされ、恐怖の“トリプルクライシス”となっている。状況は震災前の福島県とほとんど変わらないのに、そうした簡単な防災冊子さえ各家庭に配られた形跡もない。津波は伊方原発に影響を与えないと高をくくっているのかもしれないが、M9クラスの直下型の強震に襲われれば、おそらくひとたまりもないだろう。それでも“想定外”だったと再び責任逃れをするのだろうか?・・(まあ、その時、四国に何人の生存者が残っているかは想像することもできないのだが)・・そうした愛媛県の震災や原発に対する意識の低さを、遠く埼玉でひとり嘆くのである。
(香川県監修、四国新聞社発行の地震対策ハンドブック。2011年、購読者に配布)
そして最後は、1973年に封切りされた映画、旧「日本沈没」の話題。最近の知見によれば、プレートテクトニクスで日本列島直下に沈み込んでいった地殻は、上部マントルと下部マントルの境界近くに大量に貯留していることがわかっている。これを“メガリス”と呼んでいる。メガリスが一定量以上となると、自らの重量に耐えられなくなり一気に上下マントル境界を突き破り、下部マントル深く沈んでいくと考えられている。それに伴って日本列島は短期間に沈没してしまうと言うのである。2006年封切りの新「日本沈没」では、そうしたメガリス破壊の想定が取り入れられた。しかし、旧「日本沈没」の頃は、それほどの知見はまだなく、マントル対流が何らかの原因で異常に早まり、日本海溝に向かって列島が崩れ込んでいくという程度の仮説だったが、当時、ラグランジュ賞を受賞した世界的な地球物理学者で、高校生の間では受験の神様としても有名だった東大教授 竹内 均(後年、雑誌「ニュートン」編集長)が、実際に映画に登場してマントル対流の解説をする場面(下左)や、中央構造線を露呈し、四国が解離しながら太平洋に沈んでゆく様子(下 中央)は、稚拙なセット撮影とはいいながら、非常な興奮とショックで言葉も失ったことが今も鮮明に思い出される。しかし、巨大な地震程度ならまだしも、大きな断層が1年単位で日本を沈めるほどの速さで動く筈はないと専門家は100%否定していたが、近年ようやく“佐々連鉱山“の項で触れたガスを産生する未知のバクテリアや、強力な太陽フレアに含まれる高速粒子と地下水の反応による気体発生(四川大地震の原因の一つとされる)が潤滑剤となり、短時間で断層が大きく連続的に動いていく可能性も論じられるようになってきた。映画では、政財界の黒幕的な大物である渡老人(島田正吾)が、日本の沈没を主張して学者間の物笑いになっている田所博士(小林桂樹)を招いて「その科学的根拠は何か?」と質問する場面がある(下右)。「それは自分の”感“です。」と即座に答え、「今から80年ほども前に、ドイツのヴェーゲナーという気象学者が、世界地図を見ながら、直感で大陸が移動しているという説を発表し世界中の笑い者になった。そしてグリーンランドで失意の内に遭難して死んだ。しかし、今日では大陸移動説を疑う者はもはや世界に一人もいない。」と語気を強めて発言し、老人は押し黙ってしまう。その後、老人は所有する膨大な名画や骨董をすべて処分し、田所博士の研究を援助し、日本民族を救済するための国家プロジェクトを立ち上げるのである。改めてこの映画を見ると、これが単なるパニック映画ではなく、危機管理とは何かを全国民に問う深い内容だったとつくづく感心する。国は海中に滅び去っても、映画のような良識ある為政者にその最期を託した日本民族はそれでも幸せだったと小生は思う。・・昔、中国の”杞“の国の人が、天が落ちてこないだろうかと夜も寝られないほど心配した故事から”杞憂“と呼ばれるようになったと言うが、天ではなく足下が沈んでいくのも果たして杞憂と言うべきなのであろうか?・・今の日本に私利私欲を越えて国難に真摯に向き合う政治家や実業家がどれほどいるだろうか?・・原発再開の是非を純粋に中立的に判断できる東大御用学者がどれほどいるだろうか?・・そして、国家は本当にわれわれを救ってくれるのであろうか?・・考えれば考えるほど心配で夜も寝られないのである。
(旧「日本沈没」の3場面。竹内 均は、映画でも竹内教授として登場した。)
(「日本沈没」は、新旧両作品とも、DVDコレクションとして市販されている。)