輝安鉱9

  

 

 「市之川産」輝安鉱が、明治時代、大量に海外流出した事実は周知のことであるが、特に立派なハク(藤田組がイギリスの博覧会に出品したと伝えられるもの)は、大シキ坑、旭坑、鰻坑の三つの坑道が抜け合った「三角組」と呼ばれる場所から発見された。明治13年頃の話という。当時の日本人は、結晶(マテ)がそんなに価値があるモノとは知らずに安価に外人ブローカーに売られていったという。「第一の輝安鉱ラッシュ」とも言うべき時期である。惜しいとは思うが、かの田中大祐翁もまだ7,8歳の頃の話であるので、やむを得ないと諦めざるを得ない。大英博物館が「鉱物の女王」として展示する、世界一と目される群晶標本も、その購入が1885年とのことなので、おそらく、この「三角組の大ハク」のひとつであろう。

 「資料集 市之川鉱山」によれば、昭和14,5年にもまた相当、マテが出たと記されている。東京大学に保管される1m近くの大結晶はこのときのものという。しかし、その後、発破が使用されるようになると、大きなマテはほとんど採れなくなってしまったが、それとはうらはらに戦後すぐに「第二の輝安鉱ラッシュ」が到来することとなった。市之川鉱山は、アメリカ進駐軍によって接収され、鉱山の詳細は1947年に ”Antimony Resources of Japan” という報告書に纏められたが、その中にも “No attempt was ever made to tabulate, summarize or publish anything except incomplete, sketchy or confliction information, although the mine was famous as a large producer and as a source of extraordinarily large stibnite crystals for collectors.” (この鉱山は、コレクターのための異常に大きな結晶の供給源として有名ではあるが、現在、不完全な図面や矛盾した報告書以外には、公的な図表や要約などは作られていない。)という文章が認められ、多くの進駐軍関係者が西条の地を訪れて、ダイヤモンドに次ぐとも言われる素晴らしい輝きの輝安鉱標本を絶讃したという。絶讃するだけならいいが、やはりこのとき、地元に残っていた多くの結晶標本が、アメリカに流出してしまった。田中翁も奔走したとのことであるが、これはお上の命令で否応なしであったそうだ。だが、このために地元に保存される結晶がほとんど皆無になってしまったのもまた事実であり、残念で不幸な時代でもあった。

 さて、写真のこの標本は、そのアメリカからの里返り品である。乾燥したアメリカの環境が良かったのか、往年の、まばゆいばかりの銀白色の輝きを残している。小生の自慢の一品だ。これが、戦後、アメリカに渡った標本かどうかは定かでないが、あるいはそう考えるのが妥当かな?とも思って、長々とその前口上を書いた次第である。