輝安鉱11
愛媛県西条市内に保存されていた輝安鉱標本である。幅15cm、高さ10cmと大きさ的にはまずまずの立派さだが、如何せん、保存が悪い。往年の光沢も失われ、窪み部分には蜘蛛の巣さえ張っていた。納屋かどこか物置の中にでも長年、放置されていたものであろう。西条市内で輝安鉱を話題にすると、「ああ、それならオレも持っている。」とか「これより立派なのが家に飾ってある。」など興味津々の答えがよく返ってくる。小生の性分として、それを聞くと現物を拝むまではどうも落ち着いて寝ることもできなくなってしまうのだが、無理をお願いしてなんとか拝見することができても、九割九分までが内心、失望してしまうシロモノが多い。確かに大きさは立派なのだが、日本の高温多湿の環境では、よっぽどうまく保存しておかないと、この標本のように表面が酸化して見苦しくなってしまうからだ。
一度、このように変化してしまうと、もう元の光沢を取り戻すことは不可能である。“梅酢”で洗うといいとか、無水酢酸に浸しておくといいとか昔から云われるが、小生もクズ輝安鉱で両方を試してみたこともあるが、少し光沢を帯びて来るという程度で、決してあのダイヤモンドに次ぐとも称される美しい輝きを取り戻すことはできない。ちなみに輝安鉱であれ、銅鉱石であれ、新聞紙にくるんでおくのがもっとも良い保存法であると、お会いしたどの坑夫の方も言っておられたのは印象的であった。小生も、銅鉱石のほとんどは新聞紙にくるんで保存するようにしている。
しかし、こういう標本は、保存状態よりも、地元に現在まで残っているという事実こそが貴重であると言える。戦後、進駐軍により、地元に残る夥しい標本が、海外に流出してしまったと伝えられているからだ。「資料集 市之川鉱山」にも、当時の坑夫長、矢野弥蔵氏の話として「・・それで(進駐軍から)相当な物がないか尋ねてくれちゅうて、私にその話があった。それで、部落の方は回ってみたけんど、もうこれだら出してもええわいと思うような物は一つもない。それから、田中はん(田中大祐翁のこと)に頼んで掘り出してもろたんじゃ。大体その人の手から渡っていとるやつじゃけんな。田中翁、田中翁言う人が生きとったら、よう分かるんじゃわい。何処にええなあ有るちゅうなあ(笑)・・以下略」
と記されている。また、上のモノクロ写真は、伊藤 勇先生著「市之川鉱山」(西条史談 第38号(平成8年5月号))所載の西条市内の某家に保存されている輝安鉱(10×14cm程度)だが、この程度でも「まさに造形の妙ここに極まれりの観がある。」と絶賛されている。小生からみれば、里帰り品のあのキラキラお頭付き標本に比べると、外観的にはどれも大分見劣りがするのは否めないが、坑夫の家に代々伝わってきた輝安鉱は、彼らの血の中で、いまも、世界一の市之川鉱山の誇りとして燦然と輝き続けていると言っても過言ではないだろう。
この標本を譲ってくれた方も「もう、これくらいの輝安鉱はどこにも残っとらんのじゃけん。それは補償しますよ。」と太鼓判を押しながら延々とその自慢話を聞かされる羽目になった。当時、埼玉への慌ただしい引っ越しの最中で内心はとても焦っていたのだが、我慢強く最後まで拝聴したおかげで、この標本が「大ジキ坑」産であることも判明し、おまけに案外安く譲っていただくことができたのは幸運であった。さらに、下のような、貴重な市之川鉱山の“お宝”写真までがオマケに付いてきたのも地元ならではの特典と言えるだろう。