鉄礬柘榴石(雨滝山)
香川県大川郡津田町(現 さぬき市津田町)“雨滝山”の鉄礬柘榴石である。香川県坂出市(西讃地域)出身の小生にとって、高松市より東の“東讃”と呼ばれる地域はよっぽどの用事がなければ行くことも少なく、愛媛県東予地域の方が遙かに親しみもあり、同じ香川県と言っても高知県や徳島県と同じくらい遠い国である。小学校や中学校で習う郷土史では、たとえば砂糖を讃岐に持ち込んだ向山周慶や東大総長を務めた南原繁をはじめ、何と言っても、坂出繁栄の礎である塩田を築造した久米栄左衛門(通賢)もすべて大川郡出身なのだが、大川郡と香川郡、木田郡の位置関係さえ今なお曖昧でどの町がどの郡に属するのかも定かではない。実に恥ずかしいことである。おまけに平成の大合併で、訳のわからない“東かがわ市”だの“さぬき市”だのになってしまっては、更に小生の頭の中では混迷の度を深めていると言わざるを得ない。そんな中、この雨滝山だけは中学校時代の思い出として小生のこころの底で今も鮮明に輝き続けているのである。思えばあれは中学2年の頃、当時、小生は郷土史、特に考古学に興味を持つ完全な文系人間で、歴史や地理を扱う“社会科クラブ”の部長を仰せつかっていた。折しもNHKで讃岐出身の平賀源内をモデルとした「天下御免」が大ブレークして志度は大変な観光ブームの中、クラブでもぜひ源内先生の旧跡を見学に行こうという機運が高まり、部長のお前が先生の説得に当たれ、ということになった。志度は高松よりまだまだ先、そんな遠くまで中学生徒だけで行くことは罷り成らん!とする学校側と粘り強い交渉を行った結果、@計画書の提出。A行き帰りの列車に乗る前には必ず父兄に連絡。B現金所持は交通費の他は1000円以内(・・だったと思う)。C学校の帽子、制服、名札を着用。D帰宅後に詳細な報告書を学校に提出する。・・など結構、鬱陶しい条件を全て飲む形で志度行きが実現することとなった。しかし、志度といっても、見るべき所は結局、源内の生家と志度寺くらいしかなく、これだけで帰ってくるのはつまらないということで、こっそり津田町の古墳群と雨滝山に行く秘密計画を策定したのである。
志度を午前中で切り上げて鉄道で津田まで移動し、タクシーで古墳群を巡る。その後、雨滝山に登って一気に坂出まで帰還する・・というものだ。なぜ津田に行くのだという素朴な疑問に対し、小生は「香川県文化財協会報 特別号7」(香川県文化財保護協会 昭和40年)の論文を広げながら部員たちに説明した。このあたりの古墳の石棺には地元の石が使われている。特に有名なのは国分寺町の“鷲の山”と津田町の“雨滝山(隣の火山というのが正しかったが・・)”で、今も採石場の跡があって、近くの“赤山古墳”や“けぼ山古墳”などには、そこで作った石棺が残っているとのことだ。志度だけなら先生の許しも出ようが津田までとなると到底無理だ。だから、こっそりと行く!・・古墳とか石棺と聞くと「怖い物見たさ」も手伝ってか興味を持つ仲間も多く、こんな絶好の機会はそうたびたびはないぞ、という殺し文句が決まって、結局、参加者は10人程度の大人数となった。問題はタクシー料金だが、これも小遣いを出し合って工面することにした。さすがに母にだけは事前に相談して、こっそりと部長の予備金として5000円を忍ばせて行った。当日は遺跡巡りに相応しい秋晴れで、子供だけという開放感も手伝って大はしゃぎだった。今は枯れて無くなってしまったが、源内先生が子供の頃、よく上っていたという名松“岡の松”では走り回って遊んで、全員の記念写真も撮った。・・簡単なうどんの昼食の後、一気に高徳線で津田まで移動し、駅前のタクシーと交渉、3台のタクシ―に分乗して古墳を巡ってもらった。全員学生服という出で立ちと論文に添付されていた航空写真持参が幸いしてか怪しまれることもなくすんなりと事が進んだ。物知りのやさしい運転手さんだった記憶がある。赤山古墳とけぼ山古墳の石棺はなんとか見ることができたが、半ば土に埋もれて、苔むした石にしか見えなかった。その後、標高300mほどの雨滝山の急勾配の登山道を汗だくになりながら登った。残念ながら古代の採石場は発見できなかったが、頂上から見る瀬戸内海のキラキラした美しさが今も瞼にありありと蘇ってくるのである。下山後は歩いて津田駅まで移動し汽車に飛び乗り、「ぜったいに先生には内緒だよ。」と誓い合って夕闇の坂出駅で解散した。
後日、クラブ担当の先生に(ウソの)報告書を提出した際、「お前ら、志度の向こうまで行かなかったか?」と尋ねられたのには一瞬ギクッとしたが、じっと小生の顔をみつめた後、「いい勉強になったな。」という一言だけでそれ以上、追求されることはなかった。誰かが裏切って先生にチクッたのか、それとも母から同じ中学教師をしていた父を通じて連絡が行っていたのか、今となっては知る由もないが、社会科クラブ最大のイベントとして、最高にいい思い出として残ったのは有り難かったし、約束を守らなかったとは言え、別に悪い遊びをした訳でもなく無事に帰ってきたのだから、今回だけは大目に見てやろうという先生の恩情が働いたのかもしれない。ノンビリしたいい時代だったとつくづく思う。その後、雨滝山はかの「香川県文化財協会報」の論文が発端となって、畿内と交易する古墳時代の石棺製造プロジェクトの存在が明らかとなり、“鷲の山”とともに俄に考古学界で注目されることとなる。しかし、それは小生達が卒業して、しばらく経ってからの話である。今、この記念すべき一冊は、実家の本棚の片隅で、当時の楽しい思い出とともに静かな眠りについている。
(現在の赤山古墳(左)とけぼ山古墳(右)の石棺。(さぬき市歴史民俗資料館)より。右は雨滝山全景、(四国山岳紀行)より転載)
さて、いつものことながら前置きが余りに長くなってしまったが、この鉄礬柘榴石は、石棺の材料となった、雨滝山からお隣の火山にかけての角閃石安山岩の中に多く含まれており、長野県和田峠、大阪府二上山と並ぶ日本三大産地の一つに数えられ、四国でも徳島県眉山、愛媛県五良津とともに鉱物マニアには知られた名産地となっている。昭和7年発行の「香川県地質概説」(香川県師範学校郷土研究部編 香川県教育図書)には、「柘榴石;安山岩の副合分たりしものが風化の結果洗ひ出されたもので時に良品を見るも多くはヤマモモの実状となったもので結晶面の判然たるものは少ない。・・主な産地は 三豊弥谷寺付近、仲多度郡雨霞(霧)山、綾歌郡黒岩天神、高松市擂鉢谷、大川郡雨瀧山、火山等である。」と記載がある。こうした柘榴石産地は、往々にして遊離した結晶が砂鉱となり、ガラス研磨剤として搬出される場合が多く、関川河口については以前にも述べたが、ここ雨滝山も例外ではなく、谷間に堆積した柘榴石を採掘したことが「香川県鉱物資源調査報告書」(香川県地方工業化協会編 昭和17年)に記録されている。操業は主として農閑期に行われ、一ヶ月に4〜5000貫程度が、高級板ガラス研磨や航空機制作方面への使用を目的として東京方面に出鉱されたようである。最近では、宮久、皆川先生の「鉱物採集の旅 四国・瀬戸内編」(築地書館 昭和50年)にも地図入りで詳しく紹介されており、谷筋や尾根道で簡単に採集できるとのことだが、実際には場所をうまく選ばないとボウズに終わることも少なくないようだ。写真の如く大きさがやや小さい憾みはあるものの、結晶は深いポートワイン色を呈し、ガラス質の透明感もなかなかで人気があるのも納得できる。自系は偏菱二十四面体や斜方十二面体をなすが完全な結晶系を呈するものは意外と少なく、崩れて摩滅したようなコロコロした不完全な代物が多い。同じような角閃石安山岩の山は香川県に多く存在するのに、柘榴石を含んでいる場所が限られるのはとても不思議に思われるが、安山岩が浮上する途中ですでに変成岩中にあった柘榴石を捕獲したとする説や、マグマ自体の成分にその原因を求める説などまだまだ解明されていない部分も多いという。また少量ではあるが、雨滝山からは苦灰石や沸石などの炭酸塩鉱物や黄鉄鉱なども採集でき興味をそそられる。
しかし、何と言ってもここの最大の特徴は、雨滝山のすぐ近くに立派な「雨滝自然科学館」が開設され、専属の学芸員さんもいて雨滝山の化石や柘榴石の啓蒙に努めていることである。学生や一般を対象とした鉄礬柘榴石の採集会なども定期的に開催されていて、楽しそうな徳島大学の公開講座の様子もインターネットにupされている。充実した郷土館で素晴らしい標本を学び見学してから、現地で鉱物採集をする・・なんと恵まれた環境であろうか?!鉱物学的には不毛と言われる香川県でさえこれだけの施設や人員が整っているのに、かたや鉱物の宝庫と呼ばれる愛媛県にはほとんど何もない・・皮肉とはいえ、こんなことで本当にいいのだろうか??・・とても考えさせられる問題である。
(雨滝自然科学館と雨滝山産の苦灰石、ジロー君のハンマーの長さは約5cm)
小生の偏見かもしれないが、それは、香川県と愛媛県の教育方針の違いに起因するのかもしれない。香川県は昔から教育熱心な県で知られ、昭和30年代には、連続“文部省学力テスト日本一”として良くも悪くも全国に名を馳せた実績もある。面積の割に人口密度が異常に高い香川県は、昔から“三反百姓”と呼ばれる零細な農家が多く、その苦境から脱出するために少しでも子供に“学”を付けさせて農業以外の道を求めさせようとする考えが根強く残り、畢竟、学校での競争も激しくなるのだ。親も先生も教育に熱心にならざるを得ない背景がそこに存在するのである。特に、小生の中学校は「創造性教育」の実践校として全国に知られ、昭和47年に明治図書から出版された「創造性教育の記録」という本には、“社会科教育”の項に“ちゃっかり”と「生徒が平賀源内に啓発されて自主的に志度行きを計画し、生徒達だけでそれを実践した。」と記載され、「少々の困難や校則に抵触しても生徒の意思を尊重し実行させることが創造性教育に繋がる。」と結ばれている。今にして思えば、恐るべき過激な教育法だったとも言える。これには後日談があって、それ以降、中学校では、何かと勉学の理由をつけて生徒だけで高松や丸亀に遊びに行く風潮が生まれて先生を困らせたのだった。いつも、引き合いに出されたのが社会科クラブのこの“志度行き”で、「社会科クラブで認めたのだから、私達も認めてください。」という具合であったらしい。小生達もとんだ罪作りな先例を作ってしまったものだ。その極めつけは、3年卒業時の春休みを利用して自転車で四国一周をさせてくださいと何人かが申し出たことで、さすがに中学校でも困り果て父兄まで呼んで説得したが、2,3人は中学校と関わりの無くなる4月1日以降に、親の制止を振り切って実行に移した。しかし、15才の体力と持続力では到底無理な話で、徳島県で早くもバテてしまい、警察のお世話になりながら“這々の体”で帰って来たという。四国一周の理由が、「南四国でニホンカワウソの生態を観察するため」であったというから、処理に当たった先生は怒って呆れながらも、「わが校の教育、ここに極まれり!」と、こころで“快哉”を叫んだと後年にお聞きした。