キースラガー(名野川鉱山) その2

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 前回に引き続いて、名野川鉱山とフランス砲兵士官アントワンの関わりについて考察する訳だが、下に簡単な年表を作成しておいた。非常に錯綜した激動の時代なので、内容の概略を最初に見ていただいた方がわかりやすいと思うからである。

 

           慶応2年(1866) 薩長連盟成立(1月21日)

            同         後藤象二郎 開成館開設(2月)  

            同         第二次長州征伐(6月〜8月)

            同         モンブラン来薩(11月8日) この時アントワンも来日(推定)

            同         アントワン、薩摩に雇用を断られる。

                      その後、中国(清)で、伝習教師を勤める?

           慶応3年(1867) 清風亭会見(坂本龍馬と後藤象二郎盟約)(1月13日)

            同         坂本龍馬「船中八策」立案(6月9日)

            同         薩土同盟(6月〜9月解消)

            同         パリ万国博覧会(4月〜9月)

            同         大政奉還(10月14日)

            同         坂本龍馬暗殺(11月15日)

            同         王政復古の大号令(12月9日)

           慶応4年(1868) 鳥羽伏見の戦い(1月3日)

            同         江戸城開城(4月11日)

           明治元年(1868) 9月6日より明治に改元

           明治2年(1869) 戊辰戦争終結(5月18日)

            同         アントワン 土佐藩にフランス式兵学教官として仕官

           明治3年(1870) 薩長土3藩から親兵を編成(2月)

            同         開成館廃止 寅賓館(迎賓館)となる。(10月)

           明治4年(1871) 廃藩置県断行(7月14日)

           明治6年(1873) 徴兵令公布(1月14日)

            同         アントワン 名野川鉱山を調査、開坑?(6月〜翌年7月)

                     後藤象二郎、板垣退助ら参議を辞任(征韓論の敗北)(10月)

           明治10年(1877)西南戦争(2月〜9月)

 

 アントワンは、慶応2年にモンブラン伯爵とともに来日、さっそく薩摩に軍事教官として採用されることを期待したが呆気なく断られてしまった。その後、明治2年の書類に再登場するまでの2年間の足跡は不明である。その書類は、新政府から日本総領事に任じられたモンブランが樺太問題を政府に建白した中に、“不用”の注記とともに記されているもので、「・・再ヒ、カラフトヲ取戻ス迄ノ間ニ備ヘノ設ケヲ致ス可キ義ハ、先ヅ土工兵并ニ砲兵ヲ取立テルニ如クコトハナク、右ニ付テハ、幸ヒ仏国砲隊一等士官アントワント申ス者之有リ、既ニ伊達民部御殿(伊達宗城)ヘモ申上ゲ候人物ニテ、支那ニ於テ伝習教師ヲイタシ、漸ク業成リ当時不勤之身ト相成居リ候間、若シ日本政府ニテ急遽カラフトノ固メ等モ之有リ御用モ候ハバ、御下命次第奉職致ス可ク存ジ候。・・(一部改字)」とあって、アントワンがしばらく中国で職を得ていたことがわかる。残念ながらアントワンは“不用”の注記の通りに日本政府には用いられなかったのだが、幸いにもフランス式用兵を採用した土佐藩に兵学教官として雇われることになった。これもモンブランあっての抜擢と言えるだろうし、彼がはるばる連れてきた人材であるからこそ、責任を感じて熱心に推挙したのであろう。

 一方、「四国鉱山誌(昭和32年版)」の名野川鉱山沿革には「慶応年間、仏人アントワンが蕗ヶ谷坑および滝野坑を開坑し、現地で精錬を行った。明治初年(1870年)頃、山内侯が隆盛地区、本坑区を開発し・・」とあるのだが、彼が慶応年間に高知で鉱山開発を行うのは到底不可能ではないかと思うのである。まず薩土同盟が結ばれたのは大政奉還が迫る慶応3年半ばであり、それまでは薩摩と土佐は距離を置いた存在であった。おまけに既に倒幕を藩是とする薩長と違って、土佐は山内容堂が筋金入りの公武合体派であり、尊皇派の武市半平太(瑞山)を死に追い遣り、土佐勤王党を潰滅させた経緯もある。そんな二者の同盟がうまく行く訳もなく、2ヶ月余りで盟約は解消されてしまった。剛毅な容堂自身も直後の大政奉還を成功させた迄が花道で、王政復古の小御所会議や、すでに鳥羽伏見に砲声が轟く土壇場でもしつこく徳川方を擁護し、小御所会議では、つい勢い余って、明治天皇を「幼冲の天子」と発言したことを岩倉具視に咎められ、「その言葉は英明な御上に対し甚だ不敬であろう!そんなに徳川がいいのなら、今からでも勝手に慶喜の処に行け!」と諸侯居並ぶ天皇の面前で罵倒されてしまった。土佐が明治政府に深い負い目を背負うのは正にこの時からであり新政府への登用も他藩に較べると随分と少なく、その劣勢を挽回するために、下野した板垣退助が中心となって自由民権運動に活路を求めるのである・・話が脇に逸れてしまったが、そのような緊迫した情勢の中、かのコワニエでさえ薩摩から出ることができずに藩内で活動していることを見れば、軍人であるアントワンが薩摩と国情の異なる土佐にのこのこと出かけて行ってお門違いの鉱山開発をするなどと言うのはまず無理というものだろう。おそらくモンブランが書いているように、薩摩に用いられないのがわかると、大陸に渡り自国の租借地辺りで辛うじて職を得たものと推測される。

 

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(在りし日の開成館の勇姿。今は取り壊されて公園になっている。)

 

 一方、土佐藩が、藩内の物産の専売化や勧業、軍事需要を一元化することを目的に藩直轄の「開成館」を発足させたのは慶応2年2月のことであった。これも薩摩や長州の専売会所制度に較べると随分と遅れての発足である。総帥は後藤象二郎であった。三菱の創始者 岩崎弥太郎もこの開成館を土台にして手腕を発揮していくのである。館内は、軍艦局、貨殖局、関船局、鯨猟局、鉱山局、火薬局、鋳造局に分かれ、それぞれが奉行の下に統括されていた。中でも鉱山局はもっとも力が弱く軽視されていた衒いがある(「土佐白瀧鉱山史の研究」進藤正信著)。実際、明治3年に新政府に提出された答申書には、「・・一、銅鉱山二ヶ所、出高之儀は年々増減も御座候へ共、大様一ヶ年に左之通りに御座候 銅目方三万貫目計 土佐郡本川郷一ヶ所 同八千貫目計 吾川郡用居村一ヶ所 一、金銀産出之場所は御座無く候・・」と僅か2鉱山(本川銅山、用居(安居?)銅山)が記載されているだけで、名野川鉱山の名前は見えない。これからも慶応年間に名野川が開坑されたというのは大きな疑問符が付くのである。また、昭和15年に発行された「大日本鉱山史」には、「当鉱山発見の時代は明かでないが、明治初年に土佐藩主山内家に於て開発に着手して鋭意力を注ぎ、外人を招聘して採鉱に着手した事があると伝へられている。」とあって、「四国鉱山誌」の記述とは大分異なっている。今まで述べてきた経緯からすると、「大日本鉱山史」の方が正しいのではないかと小生は考えている。発見された時期は別として名野川鉱山の開坑は後述するように明治6年とするのが妥当ではないか? おそらく「四国鉱山誌」では、開成館鉱山局と名野川鉱山、さらにアントワンを結びつけた結果、誤解が生じてしまったのではないだろうか?・・このように本書は四国の鉱山沿革を知る最高の資料ではあるが全てが正しいという訳ではなく、それを鵜呑みにしてしまうと“誤りの連鎖”を引き起こし兼ねないので引用に際してはあくまでも慎重を期したいと思う次第である。

 

 さて、明治2年に、アントワンはめでたくフランス式兵学指南として土佐藩に採用されたが、安寧の日々は長くは続かなかった。翌明治3年には藩兵から天皇親兵への移行、明治4年には廃藩置県が断行され、藩内の制度は全て廃止された。これにより開成館は閉鎖、藩用人は解雇され、おそらくアントワンもこのとき職を失ったのだろう。彼が其処で具体的にどのような仕事をしていたのか「皆山集」や「高知県誌」なども調べてみたが、名前を発見することはできなかった。

 

 次にアントワンが登場するのは、明治6年の名野川鉱山開発に際してである。このあたりの経緯は「奇兵隊史録」や「海援隊始末記」で有名な平尾道雄氏の「土佐藩工業経済史(高知市立市民図書館 昭和32年)に詳しい。当時、名野川鉱山は長坂山鉱山と称し、島崎涼平と門田実平が、安岡喜八の協力の下に試掘を開始したものの資金繰りがうまく行かず、わずか1年余りで休止となった。その原因のひとつに安岡喜八の離脱が挙げられている。安岡は途中から単独行動を取って、東京よりアントワンを招き、長坂山の別鉱区開発に着手したのである。これがおそらく「四国鉱山誌」に言う“蕗ヶ谷坑”なのだろう。当時の外務省の認可状が残っている。

 

                             片岡小一郎 安岡喜八 雇

                          

                             法郎西(フランス)人 アントアンヌ

         鉱山地質調査   

            住所(欠)

            給料 一ヶ月日本紙幣四百円

            期限 明治六年第六月ヨリ同年十二月三十日迄  

         右雇差許候事

 

            但雇差止候節ハ此免状返上之事

          明治六年六月二十五日  外務省   

 

 これからすると、土佐藩を解雇されて後、2年ほどは東京に在住していたと考えられる。砲兵士官だった彼が急に鉱山開発とは一寸結び付かないし、住所が(欠)というのも少々気になるのだが・・おそらくこの2年の間に採鉱について勉強したか、あるいはモンブランが一緒に連れてきた鉱山技師を利用したのかもしれない。住所も各地の鉱山を転々と巡り歩いていた可能性もあるが、いずれにせよ、今となっては知る由もない。とにかく月給400円とは相当高額である。明治7年の統計によると、岩倉具視が600円、三条実美が800円、お雇い外国人では、5〜600円台が25名、800円以上が10名、1000円以上が3名だったというから、国賓レベルの破格の高待遇と言えるだろう。ちなみに別子銅山では、支配人の広瀬宰平が100円、ルイ・ラロックが600円、一般の日本人熟練工に至っては10〜15円程度の時代である。そんな訳で、アントワンも喜び勇みながら異国の何もない山中で鉱山開発に力を尽くしたに違いない。馴れない探鉱や精錬も積極的に試みたことだろう。それが今も名野川に彼が名を留める最大の理由でもある。ところが「土佐藩工業経済史」は続けて淡々と意外な事実を綴っている。「アントワンは翌年七月になっても給料の支払いをうけず、生活に窮して七月七日高知県参事 手代木勝任に救済を訴えた。調査してみると、安岡はアントワンに十四箇月分の給料をも払わず数回にわたって五千六百五十円を借用したまま行方をくらましたもので・・。」・・・なんと言うことであろうか!!・・アントワンは詐欺にあってしまったのだ。結局、安岡が捕まったか否かも、アントワンに給料が支払われたかどうかも一切不明で、その後の彼の行く末も杳として知れない。お気の毒としか言いようのない話だが、頼みのモンブランもすでに失脚し、フランス自体が普仏戦争に敗北して国威が失われている状態では泣き寝入りをせざるを得なかったのかもしれない。安岡と同じ日本人として、今も恥ずかしく慚愧に耐えない。失意のアントワンが去った名野川鉱山もまたしばらくは休山を余儀なくされるが、大正12年に至って白石鉱業が積極的に探鉱を行い、昭和にはいり高知県有数の鉱山として発展していくのを見れば、アントワンの鉱山見立も決して棄てたものではなかったことが証明されるのである。激動の時代とは言うものの、ほとほと運に見放された人と言う他ない。

 

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(映画“シルク”の主人公エルヴェ)

 

 ここに「SILK」という2007年に公開された日本−カナダ−イタリア合作の純愛映画がある。詳しくは省略するが、「郎女迷々日録 幕末東西」の管理人は、主人公であるエルヴェこそが、アントワンではないかと推測しておられる。エルヴェは、フランス軍人であったが、日本の生糸を入手するために美しい妻エレーヌを残して日本に旅をする。そこで謎の美少女に遭遇する。生糸(蚕の卵)買い付けは成功し無事フランスに帰還、巨万の富みを得るが、どうしてもその少女が忘れられない。少女に会うために何度も幕末の日本に密入国する。そんな中、自国に戻った彼に美しい日本語の手紙が届く。謎の美少女からだ!?・・愛の告白とも受け取れる内容に彼は喜び勇んで再度、日本に赴くのだが・・・時はすでに明治維新を迎え大混乱の中、肝心の少女とも会えず、やっとのことで手に入れた蚕の卵も台無しとなり、失意のどん底でフランスの自宅に引きこもってしまった。それに追い打ちをかけるように妻エレーヌは病死してしまう。ところが後で、日本語の手紙は謎の少女からではなく、エレーヌが人に頼んで書いてもらったものだと知る。美少女は寂しい思いを募らせるエレーヌの幻影だったのか・・妖しい謎に包まれて妻の墓前に泣き崩れる場面で映画は終わるのである。

 本当にアントワンがモデルかどうかは議論のあるところだろうが、映画は創作なのだから深くは追求しないでおこう。しかし、幕府側に付いて戊辰戦争を戦った正規のフランス軍事顧問団でさえ、維新後、母国には帰還せず、日本で結婚し日本で死んだ軍人も多いという。帰国したところで第二帝政はすでに崩壊しており、軍人としての誇りも職位も保てないと言うのが大きな理由のひとつである。アントワンの場合はさらに悲惨だ。もともとモンブランに雇われた私兵のような存在で、薩摩にも容れられず、やっと手に入れた土佐藩軍事指南の職もわずか1年足らずで廃藩置県のために失った。見様見真似?で会得した鉱山開発も酷い詐欺にあって完遂できなかった。かの“郎女”様も仰るように、せめて日本でささやかな恋が成就し貧しいながらも幸せな結婚生活が送れたのだと自分なりに納得することがせめてもの慈悲だと小生も思うのである。そうすればこんなにも不運な日本に10年近く居続けた謎もおのずと解けるのではないだろうか?・・彼もまた、モンブランと同じく美しい日本に魅せられた一人だったのだろうな・・ひょっとすると最後は日本の土になったのかもしれない・・と、遙かな土佐の山々に彼を重ねて偲ぶにつけ、そんな切ない思いがこころを過ぎるのである。

 

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