キースラガー(名野川鉱山) その1

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高知県西部、中津明神山東麓に位置する名野川鉱山。四国では数少ない秩父帯に属するキースラガー鉱床で、その形成過程も三波川帯のそれとは些か趣を異にしている。この標本は、黒色千枚岩に接する黄鉄鉱と黄銅鉱の塊状鉱で、研磨されているのでその様子がよくわかる。別子のように海底のブラックスモーカーが強い変成を受けて層状に形成されたものではなく、もともと鉱脈型の熱水鉱床が変成を受けたと考えられており、鉱床も層状というよりは、塊状、レンズ状、ポケット状など不規則に胚胎しながら、その鉱区内に散在していることが多い(「日本地方鉱床誌 四国地方」 朝倉書店)。いわゆる足尾で言う“カジカ”であり、多くの鉱体が立体的に独立して存在しているので、山師の探鉱能力の善し悪しがその鉱山の命脈を左右することになる。それに加えて秩父帯の銅鉱床は、金含有率が高いことも特徴で、野村鉱山の13~15g/ton を最高に、東向鉱山(12.5g/ton)、名野川鉱山(2~5g/ton)などが良く知られ、大鉱山会社が食指を伸ばして探鉱を積極的に行ったこともある。しかし、名野川鉱山が面白いのは、何といってもその歴史にある。すでに藩政時代から、本川鉱山(土佐郡)、田野口鉱山(幡多郡)、安居鉱山(吾川郡)、庵谷鉱山(長岡郡)とともに稼行され、下のような鉱山札まで発行されている。さらに「四国鉱山誌」には「慶応年間に仏人アントワンによって開坑された。」とある。四国の鉱山多しといえども、幕末に、外人によって開発された鉱山は名野川鉱山が唯一のものではないだろうか?・・果たして仏人アントワンとは何者なのか??・・そして、それは本当のことなのだろうか??・・そこでこの項では、小生がいままで調べた概略を述べ、アントワンを日本に連れてきた“雇い主”こそが、明治維新の影の「立て役者」であり「黒幕」だったという私見を述べさせていただきたい。少々長く2回に分けての掲載となるのだが、ご興味のある方は、ぜひお付き合いください。

 

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(名野川鉱山札 5銭。裏面には「通用山内限」とある。おそらく明治初年のものであろう。)

 

 文久3年(1863)、尊皇攘夷の大義の下、血気にはやる長州藩は、5月10日を期して下関を航行する外国船に対して砲撃を開始、孝明天皇を大和に行幸させそのまま倒幕に向かって邁進する手筈だった。ところが前年、第一次寺田屋の変で倒幕派を一掃し薩英戦争で攘夷の不可能を悟った薩摩藩は、幕府と組んで長州を都から追い落としてしまった(八・一八の政変)。七卿とともに長州に逼塞して憤懣やるかたない志士達は藩主を動かし、高杉らの自重論を踏みつけて一年後に軍勢とともに大挙して都に攻め上ってきた。いわゆる蛤御門(禁門)の変である。勇壮な来島又兵衛の奮戦も空しく、満を持して待ち構えていた薩摩軍の前にあえなく潰滅し、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎など多くの松下村塾以来の有能な志士を失い、あげくに長州藩は朝敵となってしまった。同時にアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの四国連合艦隊が下関砲台を占領、奇兵隊は蹴散らされて無力化し、ここに毛利家始まって以来の危急存亡の秋、世に言う「内憂外患の元治元年」となったのである。続く第一次長州征伐は毛利家恭順の下で粛々と進められ、福原、国司、益田の三家老切腹で辛うじて藩主の罪は不問とされ改易や減封は免れた。ただ藩内には幕府寄りの俗論党が台頭し、松島剛造や楢崎弥八郎など生き残りの改革派(十一烈士)や、毛利家累代の家老である清水清太郎(有名な備中高松城主 清水宗治の子孫)まで次々と投獄の上、切腹あるいは斬首され、正義派の精神的支柱と頼む周布政之助も自殺して果ててしまった。こうして長州藩が自壊していく絶体絶命の状況でひとり憤然と決起したのが高杉晋作である。自らが生み育てた頼みの奇兵隊も優柔不断な山県狂介(有朋)が自重論を説いて動かず、元治元年12月14日の夜、「今から長州男児の肝っ玉をお目にかけます。」と、雪の功山寺で五卿と別れの杯を交わした晋作に従う者はわずかに伊藤俊輔(博文)以下80人ばかりであったという。「高杉君、君は野山獄の苦しみを忘れたか?」と泣きながら諫める旧友の福田侠平を馬で飛び越えて去ってゆく晋作の姿は誠に悲壮で一幅の絵になる。この決起がなければ長州藩は俗論派に完全に席巻されていたのだから、維新回天の大きな要めの分岐点であったことには間違いないだろう。それゆえ、この時点で高杉に従った伊藤博文は、やはり何といっても明治の元勲の第一人者なのである。

 

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(山口県下関市功山寺の高杉晋作像)

 

 高杉は萩藩のドル箱である下関会所を襲い武器弾薬を手に入れ、防府に取って返して遊撃隊と海軍局を説得、山口近在の大名主である吉冨藤兵衛や林勇蔵の協力も得て農民兵を結集し俗論党を伐つべく萩に向かって進軍を開始した。この段階でやっと山県狂介も重い腰を上げ、萩を進発した粟屋帯刀の俗論党軍と歳が明けた慶応元年1月6日に秋吉台近くの大田・絵堂で両軍は激突した。山県にとっては、この一戦こそが一世一代の大勝負であったに相違なく、後年、鹿鳴館の仮装舞踏会に、このときの奇兵隊の装束を羽織って大真面目で現れたというのも充分頷けるのである。数日に亘る激戦で奇兵隊は遂に勝利を収め、まもなく萩の俗論党は潰滅、ここに長州の国論は倒幕に向けて再び統一されたのである。こうした状況が甚だ面白くないのはもちろん幕府である。しばらく様子を見ていたが一向に改まる気配がないし、桂小五郎(木戸孝允)までが秘かに帰国して村田蔵六(大村益次郎)の指揮で再軍備を着々と固めているようである。折しもフランス公使に、軍人であるレオン ロッシュが任命されると幕府の軍艦奉行 小栗上野介(忠順)は軍隊をフランス式に増強するとともに横須賀造船所を建造、強大な陸海軍の軍事力を背景に一気に長州を叩きつぶすべく、第二次長州征伐を計画するに至った。もし今度こそ長州が滅びてしまうと幕府に対抗できる力は皆無となり徳川の力は再び盤石となるだろう・・、坂本龍馬はそうはさせじと長州と薩摩の間を熱心に周旋してなんとか同盟を結ばせて幕府に対抗させようと粉骨砕身の努力をしていた。その影でフランスに対抗心を燃やすグラバーを初めとするイギリス勢力があったことも見逃すことはできないのだが・・。しかし蛤御門の仇敵同士である薩摩と長州はそう簡単には和解できない。長州の志士は草鞋に「薩賊会奸」と書いて常に踏みつけている始末・・それでも紆余迂曲を経て桂小五郎は龍馬の説得でしぶしぶ京の薩摩屋敷にやっては来たものの、「助けてくれ。」とはどうしても切り出せない。西郷は桂のそんなせっぱ詰まった気持ちが分かっているのかいないのか、ただ憮然として顎を撫でるだけである。半月が空しく過ぎていった。そこに業を煮やした龍馬が乗り込んできて、「天下国家の大義の前におまんらの下らんその意地の張り合いは何ぜよ!」と両者を大声で叱咤罵倒し、一気に薩長同盟の合意を取り付けた。時に慶応2年1月21日であった。薩摩の合力を失った幕府は第二次長州征伐に失敗、その権威は地に墜ちそのまま瓦解へと突き進んでいくことになるのである。

 

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                   (薩長同盟の再現。左より西郷隆盛、小松帯刀、坂本龍馬、桂小五郎。高知県の「龍馬歴史館」の蝋人形)

 

 以上、壮大な防長回天史の極く触り部分をハイライトで述べてみたが、やや冗長すぎたかもしれない。しかし、話はこれからである。先年の大河ドラマの「龍馬伝」や高知の展示館に行くと、薩長同盟を成功させたのは龍馬ひとりの功績であるかのように語られている。小生もそれを完全には否定しない。しかし、薩摩の腹は談合より前にすでに倒幕と決まっていたのだと小生は推測している。その鍵を握るのが、フランス国籍のベルギー貴族であるシャルル・ド・モンブラン伯爵である。彼は大の日本好きで前後3回ほど来日しているが、最初は横浜で幕府に取り入ろうと色々工作したようだが目的を果たせず帰国した。しかし、元治元年(長州、内憂外患の年)に幕府の遣欧使節がフランスに来ると、この機会に幕府とつるんで大儲けをしようと武器の商談を持ちかけて西洋に不慣れな役人をうまく丸め込んだ。ところが、翌慶応元年にやってきた使節の柴田剛中は、まったくモンブランを相手にせず、前年の約束も反故にしてしまった。柴田としては幕府の全権で来ている訳だから、個人的な商談などとんでもない話だし、おまけに第一次長州征伐が成功しロッシュという強力な公的な協力者もいる。今さら一民間貴族に過ぎないモンブランなど相手にする必要もないということだ。折りしも時を同じくしてフランスには、グラバーの援助で薩摩の密航留学生達が秘かに学んでいた。幕府に無視されたモンブランは急速に彼等に接近していくのである。中でも後に“大阪の父”とも呼ばれる五代才助(友厚)とは意気投合し自分のインゲルムンステル城に賓客として滞在させたりしている。このとき、モンブランは次のように五代に耳打ちしたという。「今、日本は長州が破れ、幕府と薩摩が連携しあっているが、幕閣の小栗らはロッシュと謀って長州の次は薩摩を滅ぼす番だと言っている。幕府にはくれぐれも気を付けたほうがいい。」と・・。驚いたのは五代である。ヨーロッパで、それもロッシュと同じフランス人の警告はさすがに聞き流すことができない。さっそくその内容をしたためた密書を国元に送り、間もなく薩長同盟が締結されたのである。この話がどの書籍に書かれてあったか、今どうしても思い出せないのだが、大佛次郎の「天皇の世紀(朝日新聞社) 昭和53年」には、勝海舟の話として、「・・知る如く、今、危急の際なり。政府、仏蘭西に金幣幾許、軍艦七隻を求む。到着次第、一時に長(州)を追討すべし。薩(摩)も亦、その時宜に依りて是を討たせん。然して後、邦内口を容るるの大諸侯なし。更にその勢いに乗じ、悉く(領土)削小して郡県の制を定めんとす。・・」とあるので、まんざら荒唐無稽の説とも言えないだろう。

 

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(五代友厚(左)とモンブラン伯爵(右)の肖像)

 

 モンブランとしては、自分の“売り込み”が幕府に通じない腹いせに、ちょっとした未確認?の機密情報を五代に漏らしたのだろうが、聡明な五代にとっては自分の生国に関わる極めて重大な事項であったのだ。残念ながら、それを証明する書簡や文書は一切残っていない。無事、薩摩に届いたとしても幕府に知られないよう西郷らの手によって抹消されてしまったことだろう。しかし、これが西郷の迷う心への一撃となって倒幕に一気に傾いたとすれば、モンブランこそ維新を成功させた影の功労者と言えるのではないだろうか?慶応元年の暮れまで公武合体派に近かった西郷がわずか一、二ヵ月の間に、一介の脱藩者に過ぎない龍馬の説得を素直に聞き入れて倒幕に180°方向転換した謎を解く一つの説として説得力は充分にあると小生は思うのである。

 

 その後、モンブランは薩摩側にますます傾倒し、慶応3年のパリ万国博覧会では、彼特有の貴族的な狡猾なやり方で“憎き”幕府の鼻をあかすのに成功する。幕府は清水家の徳川昭武を将軍 慶喜の代理として派遣したが、薩摩を正式に対抗出品させることに成功したのだ。つまり、日本には2つの政府が存在するかのように世界にアピールしたのである。さらに薩摩が「薩摩琉球国勲章」なるものを作成しフランスの要人に配り、西洋人好みの演出を派手におこなったのもモンブランの手ほどきに依る。さすがの幕府側もこれには焦って類似の勲章を作成しようとしたが、時を経ずして明治維新となり幕府が消滅してしまったため幻の勲章となってしまった。このあたりの事情は、往年のNHK大河ドラマ「獅子の時代」で熱く語られていたのを思い出す。第一回の冒頭で、現代のパリ・リヨン駅の構内を当時の和服のままで徳川昭武一行が進んでいくロケ場面には度肝を抜かされたものである。パリ万国博覧会に始まり、秩父困民党事件に終わる山田太一書き下ろしのこのストーリーは、あまり知られていない明治維新の裏面史を扱った作品として小生は今も高く評価している。秩父事件が政府により弾圧され、仲間がどんどん去っていくのを「裏切り者だ。」と人々が罵倒するのを、菅原文太扮する平沼銑次が「最初、“自由自治元年”の旗の下にみんなが同じ志を持ったと言うことが大切なのだ。生きておれば、その思いは永く残る。去る者を非難してはいけない。」と諭す場面は、全50回の長いドラマが、この一言に凝集されているような気がして、学生運動から連合赤軍に至る現代の若者の長い苦闘の道のりをも重ね合わせながら秘かに涙したものだ・・今、奇しくも秩父のすぐ近くに住んでいるのだから、またその史蹟を尋ね歩いてみることにしよう・・

 

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(パリ万国博覧会に出席した幕府側(左)と薩摩側要人(右)。中央は「薩摩琉球国勲章」。日本最初の“勲章”でもある。)

 

 さて、パリ万博で薩摩に大きな貸しを作ったモンブランは、目出度く藩から「軍制改革顧問」に任命され、万博要人達とともに来日、しばらく薩摩に滞在することになった。このとき、取引用の多量の武器とともに、陸海軍士官、地質学者、商人を各々2名、従者1名を引き連れてやって来た。おそらくアントワンは、この陸軍士官の一人だと考えられるのである。(ヤレヤレ・・やっとアントワン君のご登場である。・・)彼の身分は砲兵隊一等士官であった。さらに驚きは、その地質学者の一人が、明治初年に政府御傭外人技師となって生野鉱山を再開発し、「日本鉱物資源に関する覚書」を著した、かのフランシスク・コワニエであることである。コワニエは手始めに薩摩の鉱山・地質を調査し、母岩の特長、鉱脈の様子、変成の状態、脈石、鉱物の性質などを詳細に報告している。数年後、別子銅山に来山し、ルイ・ラロックの契約にもコワニエが関係することを思えば、日本の近代鉱山の黎明期にモンブランが深く関与し援助を与えていたことが知られるのである(地質調査事業の先覚者たち 6)。また、幕末諸事情に非常に詳しい「郎女迷々日録 幕末東西」には、明治の著明な鉱山学者となった薩摩留学生 田中静州(朝倉盛明)や医師の中村宗見も、パリでモンブラン宅に寄寓しながら鉱山学を修めたことが記載されていて、彼が取引商品として日本の鉱物資源を狙っていたことが思いやられて興味深い。

 

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(生野鉱山猪野々谷の異人館。後方がコワニエの居宅。)

 

 モンブランは薩摩の軍制をフランス式に改革し、武器弾薬にいたるまで全て独占しようと目論んだようだが、さすがにこれはパークスやグラバーなどイギリス派の反対にあって挫折した。しかし五代友厚との二人羽織で幕末から明治に至る複雑な外交問題の顧問として活躍、遂にロッシュを差し置いて、日本総領事に任じられた。思えばこれが“策士”モンブラン伯爵の絶頂期であっただろう。明治2年には樺太問題や宗教事件など国の重要案件に助言を与えて一旦、批准のためフランスに帰国した。ナポレオン3世は彼を正式に日本総領事に任命し、政治的経済的に日本をさらにフランスに取り込もうとしていた矢先、普仏戦争が勃発、あえなくナポレオン3世は失脚し第二帝政は崩壊、これとともに日本総領事も解任され、モンブランは政治の表舞台から姿を消した。その後も、日本留学生の世話や日本文化を紹介するなど、ヨーロッパ空前の日本ブームを開花させる原動力として活躍したが、明治27年(1894年)、パリでその波瀾万丈の生涯を閉じた。一生、独身であったという。結局、政治的には薩摩と幕府の間に二股をかけるなど双方から猜疑の眼で見られ、またモンブラン商会を設立して独占貿易を強引に進めたことが裏目に出て、一般的な日本史では二重スパイのような胡散臭い人物として評価されることも多いが、幸運の女神がもう少しだけ彼に微笑んでおれば、おそらく幕末維新を推進した第一人者として高く顕彰されていたことだろう。根っからの日本好きの彼は、多くの日本人留学生の世話をし、金銭的援助も惜しまなかった。フランスから有能な鉱山技師を招いて積極的に鉱山開発もおこなったし、日本人が起こした国際的な事件や問題も日本側に立って弁護してくれた。彼の手から放たれた多くの人材が後年、近代国家の基礎を作り、富国強兵の有用な一翼を担ったことを思えば、もう少し高く評価されてもいいのではないだろうか・・日本人が「薩摩琉球国勲章」と幻の「日本国勲章」を授けるべき第一のフランス人は、やはりモンブラン伯爵こそが最も相応しいと小生は思うのである。

 

さてさて、こうしてモンブランを中心に幕末の日本をグルリと回してみたのだが、この激動の時代にはるばるフランスからやって来た青年砲兵士官 アントワンの運命や如何に?・・何故、彼は高知の名野川にその名を残しているのか??・・それはまた次回のお楽しみに・・

 

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