昭和橋
「鷲尾勘解治翁」(昭和29年 燧洋倶楽部発行)によれば、昭和橋は昭和6年2月に竣工したと記載される。
鷲尾は別子銅山亡き後の新居浜後栄策として都市整備と港湾整備を挙げ、その第一弾に道路計画を策定した。
星越から接待館(現 別子銅山記念図書館)と、別子大丸から新高橋に至る幅6間の一直線道路を建設し
それらを南北に貫く道路で連結するために、西原と新田を挟んだ金子川に架橋したのがこの昭和橋である。
全て住友の資金で作られたためか、残念ながらこれ以上の詳しいことは小生手持ちの資料では不明である。
当時は昭和11年完成の新居浜港線もなく、金子川に架かる唯一の大橋としての威容を保っていたことだろう。
すぐ下流には、「新居橋」と名付けられたもう一つの(おそらく)木橋があって、人馬往来の便を図っていた。
明治・大正期にはこの橋が口屋と惣開を結ぶ唯一つの最短連絡路として、重宝されたことは容易に想像できる。
今も住友電錬所脇の河岸には、草木が生い茂った立派な石造りの橋台が残存しており往時を偲ぶに充分である。
市内のW氏から写真を頂いたので下に掲載する。さすがに明治の建築は100年を経てもビクともしていない。
右下の写真で新居橋上流に見える白い橋は、新居浜線の旧鉄道橋である。昭和橋は更にその奥に位置している。
新居橋がいつ頃まで存在したかは不明であるが、戦中戦後の電錬工場の拡張に伴って撤去されたのであろう。
W氏は、昭和21年の南海地震で沈下した堤防の嵩上げ工事があり、この頃の廃止ではないかと推測されている。
(金子川河岸に残る「新居橋」の橋台。上流の白い橋は、住友鉱山鉄道新居浜線の鉄道橋。)
さて、昭和橋竣工と時を同じくして、奇しくも鷲尾勘解治は本社に常務理事として栄転し、新居浜を後にした。
栄転とはいうものの、その後の惨憺たる流浪の暗転を見ると、この時点が彼の人生の頂点と言うことができよう。
従って、昭和橋は鷲尾が己の意思で成し遂げた最後の仕事ということになる。昭和通りの開通は遅れて6月なので
その式典に鷲尾の姿はすでに無く、港湾整備も都市計画もすべて後進の手に委ねるしか術はなかったのである。
この絵葉書は竣工して間のない昭和橋。橋柱に飾られた洒落た常夜灯が如何にも昭和初期の風情を感じさせる。
昭和6年5月の「町内ブラ突き記」で、「昭和橋は、モダーンの典型。満潮、月明の夜は如何ばかり美しかろう。
もしも、金子川が浚渫されて、スイスイと、ボートが浮かぶに到っては、町の名所となろう。」とあるのも
さもありなんと頷ける。まだ閑散としているこの付近も、戦後、別子大丸や昭和通り商店街が発展するとともに
多くの人々が行き交い、正に新居浜発展の象徴として、大阪道頓堀の戎橋にも例えられるようになったのである。
そうした新居浜発展の気概を込めて、名付け親の鷲尾勘解治は、橋柱に「昭和橋」と揮毫し、共存・共栄橋と並べて
新居浜市民と喜びを分かち合ったのであった。絵葉書右端の橋柱にその字は、ひとしお力強く大きく刻まれていた。
残念ながらコンクリートに刻まれていたために平成9年の改修の際に失われ、今はその字も拝むことはできない。
鷲尾が亡くなってすでに30年以上が経ち、新居浜に暮らし住友に生きる、多くの人々の世相や心も移ろい変わり
自疆舎の存続も危ぶまれていると聞くと、橋だけでなく昭和も共存共栄も遠くなったと感じざるを得ないのである。
(平成9年に改修された現在の昭和橋。中央は鷲尾揮毫の橋柱。今は字体も彼のものではなさそうだ。)