私立住友病院(本院)

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別子銅山における医療施設は、古くは元禄の頃、南光院快盛法印が修験力を坑夫に施したことに始まる。

快盛法印は、人々の教化は言うに及ばず、当時、鉱山に巣くっていた魔物を退散させたことでも有名。

「物住の頭」は、元々は「物の怪の住む頭」の略で、法印が魔物を封じ込めた場所だと伝えられている。

その後、幕末から維新にかけては「医館」という診療所が設けられていたというが詳細は不明である。

本格的な近代診療は、明治16年、旧別子目出度町に、「私立住友別子病院」が開設されてからとなる。

無料で名医の診察が受けられるとあって、別子山上1万人の安心と信頼を一手に引き受けていたと云う。

しかし、明治32年8月28日夜半に襲った山津波によって医師、患者諸共全て押し流されてしまった。

「鉱山医院医師 神尾泰之氏は到底死を免れざるを覚悟したるものと覚しく、自分の名刺を右の腕に付け

其上を白布を以て繃帯の如くなし居りたれば、真先に死体を発見せられたるが、家族七人もある身の

其時の心中如何ならんと。人々涙を催せりとなん。」と「諸国災害図会」にはその惨状が記されている。

これが契機となって、その年の内に病院を惣開に移転、明治34年に新築なった姿が、上の写真である。

開設当初は、内科、小児科、外科、眼科の4科で構成され、入院病床数はわずかに21床であった。

ちなみに下写真(左)は、目出度町当時の病院全景、右は水害後、旧別子に再建された診療所の絵葉書。

災害後は惣開が本院、旧別子がその出張所となってしばらく存続したようだ。出張所はまず木方重任局跡、

その後、高橋溶鉱炉跡に新築移転されたが、大正4年末に廃止された。この写真は高橋のものと思われる。

一見、東平分院と見分けがつかないのだが、背後の山が東平とは全く異なっているのでそれと知られる。

玄関には白衣の医師とおぼしき人の姿も映っていて、復興後の旧別子を知る貴重な一枚となっている。

 

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                      (旧別子目出度町の私立別子病院(左)と、大水害後に再建された同出張所(右))

 

惣開移転後は患者数も順調に推移し、旧別子閉院の後は、全山の総合病院としての機能が強化されていった。

明治39年の「別子鉱業所一覧」によると、本院の職員は16名、年間患者総数は3913名となっている。

しかしこの時点では、別子出張所が、職員9名に対して患者総数が5091名とまだまだ山中が盛況のようだ。

出張所廃止後の大正12年になると、本院の年間患者総数は20000人を超え、職員も60人以上に増加する。

そこで大正8年に、玄関部分などの増築をおこない、下写真(左)の如き西洋風の瀟洒な木造2階建となったが、

後方の大きな瓦葺きの部分や隣接する蔵?などは創建当時のままで機能面では限界に近づいていたようである。

おまけに鉱山病院の患者層は、一般病院のそれと比べるとかなり異なっている。まず、疾病の種類が特殊である。

落盤や“飛び石”による打撲や挫滅創に始まり、多種多様の工具による傷害や踏み抜き、坑内の転倒や墜落事故、

さらに火薬の爆発や電気系統の事故、トロッコの脱線やチップラーの回転不良事故まであらゆる対応が必要である。

内科的には圧倒的に多い塵肺、珪肺などの呼吸器疾患や削岩機による振動病、神経・運動器疾患など枚挙に暇ない。

現在と違い過酷な労働条件は、住友とはいえ例外ではなく、ストレス病も大正から昭和初期にかけて急増している。

このような状況に鑑み、昭和11年、病院を惣開から王子町に移転、内科、外科、皮膚科、眼科、小児科、婦人科、

耳鼻咽喉科、X線科、歯科を充実させ、医師数25名、病床数169床を誇る東予一の大病院に整備された。(下右)

従業員およびその家族の診療入院などの料金は、原則として医師会所定料金の半額で、診察料自体は無料であった。

戦後もしばらくこの状態が続いたが、昭和41年に現在の鉄筋病棟完成とともに一般に開放され保険診療となった。

今日も住友関連企業の事故はもちろん通常の疾病にも最新の治療を行い、社員の健康管理にも万全が期されている。

 

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                         (惣開時代の住友病院本院(左)と、王子町に移転された住友別子病院の威容(右))

 

現在、惣開には、大正8年に増築された木造2階建の本館部分だけがほとんど当時の面影のまま残っている。

変化は、エンタシス調の柱が美しかったバルコニーが撤去され、鉄筋の無粋な車寄せになったくらいであろうか。

前を流れる水路は当時のままであるが、木製の橋はコンクリートとなり、石造りの門柱も撤去されてしまった。

戦後は学校になったり海運会社になったりしたが、今も某社事務所として現役なのは、まことに嬉しい限りである。

 

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                                            (惣開地区に今も残る住友病院本館跡)

 

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