鎌田共済会郷土博物館
小生の生まれ育った町、香川県坂出市。往年の塩田も全て姿を消し、瀬戸大橋開通に沸いたお祭り騒ぎも今はむかし。最近の市町村合併からもひとり取り残され、自慢のアーケード商店街も「シャッター街」の異名を取るほどの寂れよう。飛ぶ鳥も落とす勢いの宇多津町や丸亀市に比べてなんともみすぼらしく情けない思いがするが、胸を張って万人に自慢できるものがひとつある。それが「鎌田共済会郷土博物館」だ。若干33歳で貴族院議員に当選し、財界、政界にその名を馳せた「鎌田勝太郎(淡翁)」氏が、町民の福利厚生を目的に設立した「鎌田共済会」を母体に大正11年に開館。巨額の私財を投じて郷土資料や書籍を購入し、郷土研究の利便を図った。また、郷土館主事に、当時新進気鋭の郷土史家であった岡田唯吉氏を登用。その積極的な調査研究と、「崇徳院と讃岐」、「讃岐製糖史」をはじめとする多くの研究書(鎌田共済会叢書)の発行は今もなお高い評価が与えられている。秘蔵する貴重本も多く、「太平記(鎌田本と称する)」などは岩波古典文学大系の底本としても使用され、重要文化財に指定されてもおかしくないほどの稀覯本である。しかし、小生のいう自慢は、このようなモノよりも、むしろ鎌田勝太郎氏自身の“人となり”である。中央政界にも広く交友を持ち誠実な大らかな人柄であったというが、ひとたび己が正しいと思えば、その信念を貫く“気骨の人”でもあった。時は、太平洋戦争直前、日本は日独伊三国軍事同盟を締結。総理大臣に、翁と親しい近衛文麿公が就任した。大政翼賛的な雰囲気の中、その祝賀会席上で「もし三国同盟を結べば、必ず米国と戦いとなる。何百万の人命を失い且つ帝国の滅亡につながる。・・陛下に対し申し訳ないし、国民は塗炭の苦しみをしなければならない。」と声高に諫言し、一同、場が白けてしまったという。翁の予言通り開戦となったが、その後も来客にその持論を持ち出して憚らないので、官憲は以後だれとも面会を謝絶にしたという。翌、昭和17年、病を得て、孤独と失意のうちにこの世を去ったが、その心中、いかばかりであったであろうか?のちの敗戦を思うと、察するに余りあるというものである・・・
さて、前置きが長くなってしまったが、その翁の「夢の遺産」である本館に、立派な輝安鉱標本が保存されている。
四国でもっとも立派な標本のひとつであるが、地学資料室の一角にひっそりと展示されているので知る人も少ないのではないかと思われる。郷土館発行の「郷土資料目録」にも「アンチモニー標本 出所不明」とのみ記され、館員の方も詳しいことはわからないという。しかし、これが「市之川鉱山」産のものであることは誰の目にも明らかであろう。そこで無理をお願いして、先日、内部資料を閲覧させてもらった。すると昭和4年に、かの田中大祐翁が鉱物収集のための郷土館嘱託を拝命していることがわかった。また「鎌田共済会雑誌」によると、昭和14年と17年に田中翁が岡田主事と面談している記事もあり、なにか鉱物購入に関しての打ち合わせであった可能性が高い。ただ昭和13年の資料目録の中には輝安鉱の名前はなく、鎌田共済会雑誌も昭和18年以降、配紙統制のため休刊となったため、それ以降の状況に関しては調べようもない。さらに惜しいかな、岡田主事が昭和20年に死去してしまったため、戦後混乱期の郷土館活動は一時、頓挫したのか詳しい資料もなく、結局、田中翁がいつまで嘱託であったのかも不明のままである。しかし、田中翁との接点がみつかった事実は重要で、戦中戦後にかけて田中翁から、直接購入した可能性がもっとも高いのではないだろうか。できればさらに戦後の郷土資料購入簿などを調査して、ぜひ、その確固たる証拠を見つけていただきたいと思う。これだけの標本を「出所不明」のまま放置しておくのは本当に惜しい話であるから・・・
そんな訳で、貴兄も坂出に来られる機会があれば、ぜひ一度、この郷土博物館を訪れて、80年間以上、時間が止まってしまったようなロマンティック空間の中で、四国一とも目される「輝安鉱」をご自身の眼で確認し、評価していただければ幸いである。ふるさとの贔屓目ながら、こと鉱物標本に関して不毛に近い香川県にあって、愛媛県の「西条市立郷土博物館」に保存されている「世界重要鉱物標本」と比べても、決して見劣りのしない「市之川もの」の“白眉”であると小生自身は考えているのだが・・・はたして貴兄のご意見は如何?