開法寺の鴟尾

 

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客舎冬夜

客舎秋徂到此冬

空床夜々損顔容

押衙門下寒吹角

開法寺中暁驚鐘

 

 香川県坂出市府中町にあった古代寺院、開法寺。三豊郡豊中町の妙音寺とともに讃岐最古の寺と云われている。国司庁に接していたから菅原道真の詩文集「菅家文章」に詠われていることで有名である。今は寺院としては何も残っていないが、ご丁寧にも道真自身で「寺在府衙之西」と自註が記されていることや、開法寺池畔の塚が昔から大塔跡と伝えられていたことなどからある程度の伽藍配置は推定されていた。昭和45年以降、数次の発掘調査によって塔心礎が確認され、法起寺式の寺域の全容が明らかになった。

 此の鴟尾は、開法寺池内から採集されたもので、ちょうど金堂跡に当たるので、その甍に燦然と金色に輝いていたと想像される。昭和30年代にも川畑迪先生によって鴟尾破片が採集されているが、簡単な箆書紋しか描かれていないため、これほどの豪華な蓮華紋が付いていたとは想像することもできなかったと思われる。あるいはそれは金堂以外の建物を飾っていた別の鴟尾なのかもしれない。若き日の空海や国司の菅公、紀夏井など当時の錚々たる学問の大家が日頃、国司庁から見上げていた鴟尾かと思うと見るたびに心が躍るのを押さえることができない。

さて、旅窓で手元に資料がほとんどないため詳しいことは書けないが、香川県からは蓮華紋帯鴟尾が、東讃の「石井廃寺」と「願興寺」の2ヶ所から出土してはいるものの、いずれも著しく簡略化された蓮華紋で、白鳳期の美しい複弁蓮華紋を配した鴟尾は、四国では唯一ではないかと認識している。さすがはわが坂出の開法寺!と手前味噌ながら驚嘆せざるを得ない。

 

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全国でも蓮華紋帯鴟尾は10片ほどしか出土していない中で、もっとも有名なのは上写真の大坂四天王寺のものである。近畿から中国地方にかけて出土した他の鴟尾も、これと同笵であることが知られている。よく似てはいるものの開法寺のは周囲に鋸歯紋がないことや中房の大きさの差などから異なった様式で、むしろ川原寺式軒丸瓦に近いと、新居浜市在住の研究家、Y先生は指摘されている。いずれにせよ、白鳳期、中央の寺院建築に中心的な役割を果たした瓦博士により作成された最上級の鴟尾であることは間違いない事実であろう。

 

このような郷土の誇りを個人で所有しているのもどうかと思い、どこか然るべき施設に寄贈して後世に伝えて貰うのには吝かではないのだが、現在、開法寺から出土した多くの瓦や、仏頭、仏具類などの貴重な出土品が、どこでどのように保管管理されているのか、小生の不勉強だけかもしれないがよくわからないというのは不安だ。開法寺のすぐ近くには県の立派な埋蔵文化財センターが開設され、一般の展示室も開放されているのだが、開法寺の遺物は常設展示もされていないようである。発掘したのが“市”の教育委員会だからであろうか?県下の貴重な古瓦類も、多くが個人蔵であり、そういった方々も高齢になり、さらに死去されてしまった場合に遺物の行方がどうなってしまうのか、他人事ながら、とても気になることでもある。現に大野原町「大興寺」の鴟尾などは、今、行方不明で拓本しか残っていないというのも、日本の文化財行政のお粗末さを端的に物語っている事例とも思われて残念でならない。この開法寺の鴟尾についても、以前にある県内の文化財関連施設に連絡したこともあるのだが、「一度、見に行きます。」というメールがあったまま何の音沙汰もないところを見ると、そんなものには興味がないということなのだろう。どうせ後世に伝えられないのであれば、結局は個人で楽しめばよい、ということに帰結するのかもしれない。まあ、それも好し・・そういう諦めにも似た思いを抱きつつ、せめて亡き父には心ゆくまで楽しんでもらおうというのが、物置にある肖像画の前にいつも飾っている理由である。

 

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