「銅山略式志」の来歴について

 

                                                                                                  田邊一郎   

 

 小生は元よりこうした鉱山史や古文書については全くの素人である。別子銅山の鉱物や絵葉書に少々興味があってそれらを収集して楽しんでいるコレクターの端くれに過ぎない。このような学術報告書に庶俗的な一文を投ずるのは凡そそぐわないという誹りを免れ得ないのは重々承知しているが、この「銅山略式志」の入手についての逸話を記しておくことは、或いは将来的な貴重史料発見の参考になるかもしれないと思い、久葉裕可館長のこころを煩わせてここに掲載が叶うこととなった。伏してご容赦を願う次第である。

 さて、小生は別子関係の品々を入手するにあたって日頃、ネットオークションを利用している。こうしたITを通してのオークションは往々にして偽物が多く、茶道具や絵画の大半が贋物であると聞くとレベルの低い“大人買い”の世界に過ぎないと顔を背ける向きも多いだろう。まあ、小生が手を出す絵葉書類は高額でも数千円までの商品が多いため万が一騙されても被害額は知れているので、気楽に入札を楽しんでいる訳ではあるが・・・。

 2014年の2月だったと記憶する。ある朝、“別子”関係のリストを眺めていた小生は見慣れない一冊の古書が出品されているのを見つけて目が釘付けになった。「銅山略式志 椎亭老人著 尾崎一楼画」と墨書された表紙と、20ページほどの内容が画像で紹介されている。詳細は専門の先生方の解説に譲るとして、そこには旧別子で催される江戸時代の年中行事の数々が実にリアルなタッチで詳細に描かれていたのである。特に見事なのは、銅山の中心に位置する勘場での盂蘭盆会と大山積神社の例大祭の描写である。大きな盆灯籠の周りで提灯を掲げて居並ぶ多くの稼人達に囲まれて、或いはお面を付けあるいは御高祖頭巾を被って舞い踊る人々の姿は、銅山中を熱狂させたという“おけさ踊り”もかくやありなんと思いを巡らせ、同時に人形や祭壇を飾り付けた“山車”が何台も繰り出す様も実に勇壮である。また、大山積神社の例大祭では溢れんばかりの人々に担がれた立川と別子の2台の神輿が、だんじりや担い太鼓、山鉾などの行列に導かれて厳かに渡御する光景は、まさに時空を越えて小生を白昼夢の世界に誘わせてくれる。こうして入札終了までの1週間は、仕事もどこか“うわの空”でこの本のことばかり考えていたが、もしこれが本物ならば、おそらく別子のみならず祭礼研究上の貴重な発見であるばかりか、新居浜市民にとってもかけがえのない宝となるだろう、どうしても落札して新居浜に持って帰らなければ、という妙な使命感のみが小生のこころを支配していたのである。

 そして入札終了当日、悶々とした長い1日が過ぎ、終了1時間前あたりから案の定、見ず知らずのライバルと熾烈な入札競争を繰り広げることとなった。刻々と金額は上昇してくる。もう限界だ・・傍らにいる妻から諦めるよう悲鳴にも似た絶叫が聞こえた時、ようやく相手の入札が止まった。ホッと安堵する一瞬、そして限りない脱力感。次第に冷静さを取り戻すと共に、とんでもない“お宝”を手に入れたという得の言えぬ喜びと満足感がようやく胸の底から沸々と湧き上がってきたのだった。

 1週間ほどして“商品”が手元に届き、初めてゆっくりと舐めるように作品を見てゆく。まず確かめなければならないのは真贋の見極めである。こうした市場には悪質なコピー本や偽本も混じっているのでなおさら慎重に確認をしていく。彩色の施された鮮やかな墨痕は紛れもなく手書きの稿本に相違なく、所々に作者自身のものと思われる俳句や賛が挿入されている。また、絵に描かれた勘場の全景とほぼ同じ角度から撮影された明治14年撮影の「別子写真帳」とを見比べてみると、前庭に新しい家屋が増築されている他は神輿蔵や医館に至るまで正確で、実際に情景を見て書かれたものであることが容易に推測できる。(図1)祭礼の一部には未だ彩色の施されていない箇所もあり、何も描かれていない白紙も2,3帖綴じられているので、あるいは未完成のままで放置されたものかもしれない。

 

 

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図1.明治14年の勘場全景(「旧別子の面影」より)

 

 

 次に確認しなければならないのは「椎亭老人」とは何者かということである。余白には椎亭自身のものと思われる俳句も書かれていて、俳句の素養を持った人物と考えられる。当時、別子銅山は俳諧が盛んであり、関西の俳壇でも一目置かれる存在であったようだ。特に文政年間から銅山支配人を務めた西条出身の今澤卯兵衛は、「器椎」と号して俳壇の中心人物のひとりとして知られている。さらに愛媛県生涯学習センターの運営する「えひめの記憶」ウェブサイトを見ると、天保9年に編纂された「俳諧四国集」(柴人編)の序文に「いまだ四国一円の句集なきを、こたび浪速の文屋等が需に応じ、伊予のふたな、あかがね山のふもとにかりに居をしめまうけける、石走る淡海の国人椎亭のあるじ、いとわりなきまめごころから、同じ好人の句々を拾ひ・・」とあるのを見つけて驚喜して舞い上がらんばかりであった。「椎亭」とは近江の住人で、別子の山麓、立川中宿あたりに寓居する大阪の書肆を動かすほどの実力者であったことが窺われる。おそらく柴人とは椎亭自身の雅号であろう。別子銅山の要職にあった人物と思い、直ちにその道に詳しい新居浜市広瀬歴史記念館の久葉先生に照会したところ、かの広瀬宰平の叔父にあたる北脇治右衛門であることが判明し、続けて住友史料館の末岡照啓副館長が筆跡鑑定を行った結果、間違いなく北脇治右衛門の自筆本であることが明らかとなった。

 こうなると小生も、本書の来歴を知っておく必要があると考えオークションの出品者に連絡を入れてみたのだが、出元は京都の某古書店で、他の古典籍と一緒に入っていたのでどのような由来があるかは一切不明とのことであった。同時期の同出品者による書籍品目も調べてみたが、中国の古典籍や日本の地誌などが大半で、特に、別子や北脇家に関する他の史料は見当たらず、これ以上の由来を辿ることができないのは残念である。

 以上、「銅山略式志」の来歴を、自分なりの経験に基づいて簡単に述べてみた。これほどの貴重書がネットオークションに出品されること自体が奇異に感じられるかもしれないが、逆に言えば、想像を遙かに越えた稀覯本や史料が、ネット上で普通に売買される時代に差しかかっているとの認識を新たにしなくてはならないとも言えよう。国指定の重要文化財でさえ紛失し闇で売買される時代である。有識者からはとかく軽薄にみられがちなネットオークションにも日頃から注意を喚起して、文化行政を担うサイドもこうした思わぬ出品に備えるような姿勢が必要ではないかと愚考する次第。

 

 

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図2. 別子太鼓台の上幕(南光院蔵)

 

 とにかく本書が北脇治右衛門の直筆であると明らかになった今、再び得がたいこの史料を個人で秘かに所有しておくことはそぐわないと判断し、新居浜市にその管理を委ねることにした。市民の方に広く見ていただき喜んで戴ければ幸いこれに過ぎるものはない。元来、別子銅山の祭礼山車は「妻鳥良諦師口述」(「明治の別子」泉寔著 近代文芸社 1994年 所載)で述べられているように、明治22年に別子開坑二百年祭を記念して山方、見花谷、両見谷で作られた3台の太鼓台が嚆矢ではないかと認識していた。その時の太鼓台の“上幕”1面(図2)が今も南光院拝殿に保存されているが、すでに江戸時代にそれを凌ぐ豪華絢爛な山車やだんじりが繰り出していたとは想像もできなかったことである。百年の時を経てなお輝きを失わない南光院の“上幕”とともに、別子銅山の富の象徴である煌びやかな祭礼が、今回の「銅山略式志」でさらに彩り豊かに蘇ったことをこころから嬉しく思うのである。

                                                                                          (了)  

 

   B03J12