「銅山略式志」の概要

 

 「銅山略式志」は、天保年間頃に記述された別子銅山の絵図である。著者の「椎亭老人」は当時の銅山支配人の北脇治右衞門で、広瀬宰平の叔父にあたる人物である。絵図を描いた尾崎一楼については詳細が伝わっていないが、新居浜の絵師であった尾崎梅芳の一族か門下と推定される。絵図は全9面からなり、それぞれに別子山内での祭りや生活が彩色で活き活きと描かれている。執筆の動機は不明だが、おそらく天保11年の「別子銅山開坑150年祭」を契機に、別子銅山の生活を記録しておこうという治右衞門個人の意図から発した作品と考えられる。ただ、綴丁は最後の3面が白紙で残され、「山神宮祭祀神輿渡御ノ行装」の一部の彩色が成されないまま放置されているのは、あるいはこの作品が椎亭老人の死とともに中断されたことを物語っているのかもしれない。

 以下にその内容について簡単に紹介する。“高解像画像”部分をクリックすると、絵図の詳細な画像を別のJPEGファイルで鑑賞することができるので、下手な解説をダラダラと書くよりはご自身の目で、当時の別子銅山の様子を心ゆくまで楽しみ偲んで頂きたい。なお、“表紙”の写真をクリックすると、小生がこの冊子を入手した経緯を記した駄文にもリンクしている。

 

1.表紙(高解像画像

               「銅山略式志」の表紙部分。右上の「九番下」とあるのは、これ以外の作品の存在を示すものであろうか?

               それとも、保管する書架を示す単なる番号に過ぎないのだろうか?・・・興味はつきない。

                椎亭老人については、天保9年に編纂された北脇治右衞門(編者)の俳書「俳諧四国集」の序文に

「いまだ四国一円の句集なきを、こたび浪速の文屋等が需に応じ、伊予のふたな、あかがね山のふもとに

かりに居をしめまうけける、石走る淡海の国人椎亭のあるじ、いとわりなきまめごころから、

同じ好人の句々を拾ひ・・云々」とあるので、治右衞門本人であると知られる。

  北脇治右衞門は、天保14年(1843)〜嘉永2年(1849)までの6年間、別子銅山支配人を務め

 大湧水や遠町深鋪に苦悩する江戸後期の銅山経営を取り仕切った。弘化2年(1845)には幕府の隠密が

 入山し、その対策にも支配人の立場で色々と指図をしている。文化人でも知られ特に俳句を能くし、前支配

の今澤卯兵衛(器椎と号す)らとともに伊予における一大俳壇を形成させ、「柴人」とも号した。

  広瀬宰平は、北脇家一族に産まれ、6歳の時に叔父である治右衞門の養子となり、9歳の時に治右衞門に

 連れられて別子に奉公に上がっている。後年、事情があって広瀬家に移ったが、大叔父 治右衞門の存在は

 別子銅山に全てを捧げた宰平の生涯に多大の影響を及ぼし続けたことだろう。

 

 

2.元禄見分入山之図(高解像画像

             別子銅山発見時の銅山峰付近である。絵図には「元禄三午年六月 金掘下財長兵衛が

          備中吉岡銅山に勤める惣手代(田向)重右衞門、助七、平七計三人に伊予国宇摩郡別子山村

          奥に銅𨫤これ有り由注進に付き、右三人、長兵衛を案内として見分入山の図」とある。

          (切上がり)長兵衛は阿波の産、立川銅山で稼いでいた時に、別子の大露頭を発見し、

          恩義ある吉岡銅山の傭人達に情報を伝え、その功績により後年、住友末家に列せられた。

           本当に長兵衛が別子露頭の最初の発見者だったのだろうか?・・・その素朴な疑問は

          伊藤玉男先生も「あかがねの峰」で述べておられるし、小生の記事でも少し考証している。

          しかし、此処ではこの絵の如く全く未開の森林に、長兵衛の案内だけを頼りに分け入って

          艱難を極めつつ、露頭目指して進んでいく一行4人の姿に想いを馳せていただきたい。

          左上には、椎亭(柴人)自身の句「さればされ 此一すちに 雲の中」が入る。

 

 

 

3.銅山繁栄之図(高解像画像

             旧別子銅山を南側から俯瞰した絵図である。正面の峰地蔵(現存)を夾んで左が西山、右が

          東山である。太陽は遠く東の赤石山(当時は赤太郎の尾と呼ばれた)から昇る朝日であろう。

          峰地蔵の直下には「鋪方」がある。いわゆる採鉱本部である。場所は歓喜坑、歓東坑のあたりで

          坑口には石を積み、その上に建物を置くのがお決まりだったようだ。東側の赤鳥居は金毘羅社、

          その下は山神(大山積神社)のものである。山神の場所は「縁起の鼻」と呼ばれ、その斜面

          一帯には木方の焼竈小屋が拡がっている。山神の右の坑口は天満間符、さらに尾根をひとつ越えて

          東山間符(東延)の坑口も見える。小さな滝は「素麺滝」であろう。目を転じて西に移すと、

山神の左には円通寺の卒塔婆先端の宝珠が覗き、川の対岸には大きな勘場(鉱山本部、明治12年

          からは重任局)や吹所(製錬所)が並ぶ。

          菅沼奇淵の「山の鉉(つる) 草木にかへて しけりける」「蓬莱の 山哉いくら あらしても」と        

          北脇治右衞門の「銅烟の のぼるもひさし 春ひさし」の二句が添えられる。

 

 

 

4.勘場惣図(高解像画像) 

             天保年間頃の勘場全景である。勘場は現在の目出度町大山積神社跡地にあった。別子山中最大の

          建造物で、銅山支配、手代を始め住友家用人が勤める「出店」や金銭の出し入れを行う「台所」、

          山内の食糧を取り仕切る「売庭」、運送を担当する「荷方」、米や銅、縄を貯蔵する各種の蔵など、

          別子銅山の機能の中枢であった。また面白い所では、祭礼の神輿や神具を保管する「ミコシ蔵」や

          坑夫の元締めである「山廻ヘヤ」、医師の常駐する「医館」なども詳細に描かれており、同時期の

          「別子山内図」(墨癡 画)と比較すると面白い。「座敷」はいわゆる接待館で、来山する各界要人

          のために使用された。「勘場図」によると「一の座敷」から「四の座敷」までがあり、湯殿や雪隠も

          二ヶ所設置されており、絵図の黒塗りの板塀の場所がおそらくそれであろう。絵に記載はないが、

          「出店」に接して下財用の風呂や雪隠もあったようである。こうした勘場の景観は、明治23年撮影

          の「別子鉱山写真帳」の頃まで面影を残していたので、別ページに勘場内面図(天保頃)とともに

          比較しておいた。さすがに50年の隔たりがあるので、各所に増築がなされているが、江戸時代の

状況を良く偲ぶことができる。惜しくも明治25年の火災で全焼し、対岸の木方へ全施設を移転した。

          左上には、田川鳳朗の句「桟(かけはし)や 雲も柱の かた相手」が書かれている。

 

 

 5.飯米貸渡ノ図(高解像画像)        

             勘場売場において、山中諸稼人に月々6分(歩)の利子で飯米を貸し渡している図である。人々が

          大きな米袋を背負って、勘場前の大石段を下っている。その米を当て込んで、荷方の前では魚屋が

          商売を始め、“付け”を回収としようと?歓楽街の女性と思われる艶な姿もちらほらと見られる。

          左下隅には杖をつき米袋を担いだ腰の曲がった老人も描かれており、こうした老人や小児にも一定の

割合で配給されていたことが窺われる。医館の脇では、犬に餌をやるような仕草を見られ、この日ばか

りは犬もご馳走のおこぼれに与れたのかもしれない。そんな喧噪を他所に医館の中で書き物に没頭して

いる医師の姿が気高く感じられる。飯米の供給額は、当初6千石であったが、立川銅山を吸収後には

8千3百石となった。このうち、約6千石は、越智、桑村、新居、宇摩4郡の幕領収穫米が当てられ、

残りの2千2百余石は、同じく幕領の作州米で補填された。明治維新の混乱にはこの米の供給が途絶え

山内で暴動と逃散が起こったことは良く知られている。当然、米の他にも味噌、醤油、酒、野菜などの

生活必需品の供給は常に必要で、その生命線は多くの中持衆の人海戦術に全て委ねられていた。こうした

物資が無事、稼人達に届いた日の喜びは、今の給料日も同じで、描かれる人物の表情にそれが如実に現れ

ているようである。なお、絵の上部の漢詩は、治右衞門の実弟 北脇淡水の作品である。

 

 

6.於庭上酒飲させ之図(高解像画像

    別子銅山では、1月16日と9月16日の2回に亘って、勘場の大庭で酒と煮染めを振る舞う慣習が

あった。もちろん、稼人達を労う意味が大きいが、正月や祭りの神祇で供えられた供物を全員で分け合う

という神聖な儀式でもあったのだろう。現に佐藤信淵の「坑場法律」には、正月十日の金坑開きに「凡そ

人夫に濁酒を賜ふことは一人二合づつなるべし。」とか、廿日の佐岐帖神事に「・・神酒を配分す。即ち

山の祭礼の例の如く、政事所に二樽、社家に一樽を饋り、其残り十二樽は山内の諸人夫に与ふ。」という

記載が散見される。しかし、唯でさえ気性の荒い坑夫に酒を与えるとどうなるかは容易に推して知るべし

で、各所で相撲や喧嘩が始まり、野次馬や仲裁、囃し立てる人々の表情が活き活きと描かれている。医館

の医師も玄関に出てきて、「コレコレ、怪我をするなよ。」とか「いい加減にしておけよ。」と言いたげな

表情が実に面白い。他にも犬を追いかける者や、勘場の玄関で酔いつぶれて犬に舐められている男の姿

などを軽妙なタッチで描ききる絵師の力量には唸るばかりである。こうした慣習は風紀紊乱となるため

広瀬宰平によって慶応二年に中止されたというが、寧ろ幕府による長崎御用銅や買請米制度廃止など、

銅山危急存亡の秋に当たって、酒を飲んで浮かれている時ではないとの情勢判断に鑑みての事であろう。

 

          

7.山内老若男女踊之図(高解像画像

             盂蘭盆会の月明かりの下、庭に設えた大きな切子燈籠を中心に多くの人々が踊り歌っている。お高祖頭巾

          の女性、狐やお多福の面を被った男性、その前には烏帽子の神官の姿もあるようだ。太鼓に合わせながら

          大きな口を開けて唄う祭り囃子は何の曲であろうか?当時は佐渡金山にあやかって佐渡おけさや相川音頭が

          唄われたというし、河内音頭で名高い“くどき”もすでに流入していたであろうから、心中物の鈴木主水や

          義経弓流しとか那須与一の軍記物が朗々と唄い続けられているのかもしれない。提灯を捧げてそれに見入る

民衆の神妙な表情がまた実にいいではないか。少し目を転じると、人形を乗せた山車が4台ほど描かれてい

          る。人形の詳細はわからないが、裃を着けた人物や、“櫻井の駅”を連想させる大小のものもあるし、狸や

          獅子らしい姿も見える。石段が多いので、おそらく全て“担ぎ山車”であろうが、囃し立てる多くの民衆に

          「見てくれ、この雄々しさを!」と石段を駆け下りる若衆の力強さは、今のお祭り風景と少しも変わらない。

          ちなみに旧暦7月16日は盆の最終日で、盆踊りは仏教由来であるが、山車はどちらかというと祇園の山鉾

          に代表される神事か陰陽道に近い風習である。西日本では、双方を一緒におこなう地区もあるそうなので、

          別子がどこの影響を受けているのか探るのも興味深いものである。桜井梅室の「身をつつむ 人もそれ来る

          盆の月」と栃山(義仲寺住職)の「銅の気を 誘ふて深し 山の霧」の2句が添えられている。

 

 

8.山神宮祭祀神輿渡御ノ行装(其一)(高解像画像

             大山積神社、秋の例祭の様子を3面に亘って描いた其一の景。焼鉱竈の並ぶ小高い丘の頂きに在す神社から

          2台の神輿がまさに渡御しようとする荘厳な光景である。沿道には大山積神社の神紋である「折敷三文字」が

          描かれた御神燈を始め多くの提灯や、長細い住吉提灯が立ち並び、その間を人々に担がれた別子、立川の神輿が

          御旅所に向けて下がってゆく。一基は拝殿の前で勇ましく担き上げられているようである。絵図の右隅には 

          「九月九日山神宮祭祀 神輿渡御ノ行装 神輿二基(一基 別子 一基 立川)駕輿丁人ハ山方下財 床屋下財 

          隔年ニ努ム」と説明が入る。傍らの狛犬には「木方 吹方」の寄進名も見える。今でこそ、大山積神社の祭礼は

          正月の「大ノ祭」と5月最初の「山神祭」を指しているが、当時は勧請元の大山祗神社の秋の例大祭(抜穂祭、

          一人相撲で有名)に倣って旧暦9月9日に行っていたのである。この頃の神社は、強風を避けるためか本殿が

          高い石垣で覆われ、その後ろは絶壁の様に切れ落ちている。その様子は、明治14年撮影の「別子鉱山写真帳

          で偲ぶことが出来るが、正面に神社を捉えたアングルがないのが惜しまれる。むしろ、明治11年に来山した

          クルト・ネットーの写生画で当時の全景を知ることができるのは幸いである。明治23年の「別子開坑二〇〇年

          祭」では、新たに3台の太鼓台が作られたというが、それ以降の祭礼の詳しい様子は不明である。おそらく

          明治25年の勘場の火災で「ミコシ蔵」も焼失し、祭祀具を失ってしまったことも原因しているかもしれない。

 

 

9.山神宮祭祀神輿渡御ノ行装(其二)(高解像画像)          

            「銅山略式志」の中で、見る者を最も驚嘆させた一枚である。江戸時代の新居浜地区の祭礼は、太鼓台ではなく

          だんじりであろうことは以前より推測されていたが、当時の別子銅山のだんじりが、これほど鮮明に、かつ詳細に

          描かれているとは予想だにできかったからである。それも現在の西条市や新居浜市大島、さらには遠く岸和田の

          だんじり様式とはまた一味違う独特な造りであることも注目されたのであった。まず最大の特徴は二連の屋根で

          岸和田のような大小の屋根に分かれるのではなく、2つの屋根を中央で連結しているようにも見える。前側には

          御神酒徳利などの供物台を置き、後ろ半分は垂幕に覆われて中を窺い知ることはできないが、おそらく神札と

          太鼓などの“鳴り物”が入るのであろう。だんじりには高欄が付くが一層のシンプルな造りであり、西条だんじり

          のような高層、板張りの豪華さこそないが、垂れ幕には金糸で波などの刺繍が施されているようだ。屋台後部には

          2本の山鉾が天を突き、屋台の前後には松や笠、日輪の出し飾りを付けた住吉提灯や大幟、吹き流しの列が続き、          

          当時の山中の出し物としては予想を遙かに超えた豪勢さと言うことができる。これも別子銅山の弥栄を願う民衆の

          共通の願いあってこそであり、幾多の困難や災害を被れば被ったで、神を恨むより、己の信心足らずとして益々

          神仏にすがる日本人の、已に失われてしまった素朴な美徳が凝集された一枚とも言えよう。ちなみに、絵の下部の

          裃を着けた人物は、銅山上役か警固の役人であろうか?前の人物が腰を屈めているのも少し気になるところである。

          

          

10.山神宮祭祀神輿渡御ノ行装(其三)(高解像画像

             練行列の先頭部分である。天狗と思しき猿田彦命が先祓いを勤め、山方の奉納した櫓太鼓が裃姿の警固役に見守

          られながら厳かに進み、その後ろには「大山積大明神」の神社幟、半円形の吹貫、住吉提灯の付いた毛槍、日輪や

          鉾の出し飾りのある赤幟、さらに松飾り付きの多くの長提灯の列と続く。当時の典型的な祭礼の様子が克明に描か

          れている。特に注目すべきは先頭の櫓太鼓であろう。御幣で飾られた唐破風の屋根と獅子頭は、“伊勢の大神楽”

          を彷彿とさせる。この大神楽は三重県の増田神社が発祥で、コンパクトな櫓太鼓に獅子頭や神具一式を乗せて、西

          日本の津々浦々を伊勢神宮のお札を配りつつ渡り歩くのである。小生も香川県丸亀市の塩飽諸島で、この大神楽を

          拝見したことがある。郷愁を誘う笛太鼓のリズムに乗せて、曲芸さながらに舞い踊る“つがい”の獅子頭は素朴な

          お伊勢信仰の原型を見るようで、なぜか懐かしくとても感動したものだ。この大神楽と近江商人とは非常に密接な

          関係があったそうだから、近江商人の系譜を引く北脇治右衞門ら別子銅山の経営陣が、祭礼のアトラクションとし

          て招いていたとしても不思議ではなく、寧ろ充分あり得ると思うのである。祭礼というものは、常に流動的に変化

          をしていく。獅子舞も元々は中国や東南アジア伝来のものであるし、櫓太鼓やだんじりも神社ではなく集落や組織

          などに属して格式に縛られないので、流行を追って次第に華美になり、西条市や新居浜市の形態に変化していった

          と考えられている。しかし、どんなに変化しても、我が神を喜ばし心身の安寧を得たいという一心な思いだけは、

          描かれる民衆の表情のように、今も昔も変わることなく連綿と受け継がれているのである。

 

 

 本記事を書くに当たって、「別子銅山図の系譜と神格化 −皆川淇園から東京美術学校まで−」(末岡照啓著 住友史料館報 第46号 同館発行 平成27年)と「西条祭礼絵巻」(福原敏男著 西条総合文化会館発行 平成24年)を参考にさせて頂いた。なお、現在、「銅山略式志」は愛媛県新居浜市の「新居浜市広瀬歴史記念館」に寄託し、同館に保存されている。高解像画像は、同館のご厚意により提供された。館長の久葉裕可先生と住友史料館副館長の末岡照啓先生に、こころから御礼申し上げます。