大山祇神社明治
今も山根グラウンドの南に鎮座ましましている大山祇神社である。
昭和初期の撮影と思われるが、景観は現在とほとんど変わらない。今も住友の守護神として崇敬されている。
もともと旧別子の目出度町に在ったが、大正4年に東平に遷座、昭和3年に当地にも勧請された。
また、四阪島にも、明治41年に祭祀され、別子開坑250年(昭和16年)を記念して社殿が新築された。
したがって、東平閉坑の昭和43年までは、3つの大山祇神社が鉱山を見守っていたことになる。
もちろん、坑口や事務所などにも数多く祭られているので“3つ”という表現は些か正確ではないのだが
別子銅山の「大山祇神社」として一般名称で通用するのは、神社の形態が整ったこの3カ所ということになる。
祭神である大山祇神は、愛媛では「鉱山在る処、大山祇神在り」の感が強いが、特に全国共通であるという訳ではない。
たとえば石見銀山や足尾銅山では、イザナミの吐瀉物から生まれた鉱山神、金山彦命と金山比売命が祭られているし、
日本最古の銅山として知られる埼玉県和銅山「聖神社」のご神体は、銅製の「ムカデ」で、自然銅とも云われている。
わが大山祇神は、同じくイザナギ、イザナミの御子で、しかも「伊予一の宮」である大山祇神社の祭神であることから
別子の守護神として選ばれたのであろうが、もともとは「海と山の守り神」で土地の神様、つまり地神的存在であった。
高知にある西門山には、日本唯一、大山祇神の誕生所と伝えられる場所もあって、四国の総鎮守といっても過言ではない。
「明治の別子」によると、坑口にはさらに天照皇大神をはじめ、八幡大菩薩、春日大明神、不動明王、薬師如来に至るまで
まさに神仏混淆、職業に関係する神仏なら何でも大らかに祭っていたようで、細かいことは言いッコ無しであったようだ。
明治30年代の旧別子大山祇神社 昭和42年の東平大山祇神社
旧別子に大山祇神社が最初に勧請されたのは開坑間もない元禄4年で、歓喜坑と向き合う「縁起の端」に造営された。
以後、300年に亘り、山上の1万人の住民とともに喜怒哀楽をともにしてきたのだから、名実ともに別子の主である。
明治時代の山神祭は、それは賑やかだったそうで4台の太鼓台(山方、木方、吹方、東延)が彩りを添えていたという。
しかし、それらは伝わらず、雄姿を捉えた一枚の写真すら現存していないので、今もなお「幻の太鼓台」と呼ばれている。
ともあれ、鉱山の繁栄は神社とともにあり、神社の隆盛は鉱山とともにある訳で、佐藤信淵が、「山相秘録」の中で
「凡そ土地に山岳あらば、春秋二時に必ず級戸邊神・火産霊神・埴安姫神・大山津見神・金山彦の神・木祖の神・
草祖神・玉祖神を祭るべし。抑も此の神等は皇祖大神の勅命を奉り、各数十万の眷属を率いて、人世有用の諸物を発育し、
日夜其の職を勉強して絶えて休息する間もなき者なり。故に土地を領する者は、物産の学を精究し、経済の法を講明して
審に境内の山谷を実検し、化育の群品を巡覧して、人世有用の貨物を探索し、国人を将ひて諸神の賚を受採り
以て境内を富饒にして□□□安養し、上下の神祇を敬い祭りて以て其の大恩に答謝することは
□土に主たる者の常識なり。」と山神の由来と鉱山の関係を明瞭に解いているのは卓見である。さらに続けて、
「若し夫れ政事を怠惰し天工を曠廃するの国は、必ず財用足らずして百姓剥奪の害を蒙り、或は山崩れ水溢れ、飢饉属々至り、
或は暴風、失火、疫病大いに行はれ、或は人心和せずして争論頻に起り、上下共に困窮に迫る者なり。皆是れ諸神、
震怒して此に冥罪を下せるなり。畏れざる可けんや、畏れざる可けんや。」とあるのも充分頷ける話ではある。
しかし、どんなに祭りを派手にしても、神の怒りの如き災いを別子も度々味わってきたのも事実だが、そうなればなったで
「己の信心足りず」として、ますます神々にすがりつつ黙々と努力を続ける、その姿勢こそが日本人の美徳でもあった訳だ。
そんな隠忍自重と先取開明の甲斐あって、明治以降、別子の産銅量は飛躍的に増大し、大山祇神を山根にお迎えした
昭和初年には、遂に年間12,000tの大台を越え、別子銅山史上、空前絶後の繁栄を極めることとなった。
まさに天は自ら扶くる者を扶く、天佑神助は人事を尽くした者に与えられるの喩えで、神と共に栄華の絶頂を見たのである。
後年、別子開坑250年祭にあたり、いみじくも住友友成家長(当時)は、式典の挨拶で次のように述懐された。
「・・想へば家祖名泉院君が別子銅山を開坑せられましてから私に至る迄、一代は一代と承け伝へて幸にも今日の日まで
之を継続し来ったのであります。その間に於ける幾多の波瀾、幾多の曲折、私は瞑目して唯々列聖覆載の洪恩を懐ひ、
神明無邊の加護に打たれて自ら頭の下るのを禁じ得なかったのであります。」
(大山祇神社と川口新田住宅 「ふるさとの想い出写真集 新居浜」より転載)