きびす山

[所在地]高知県長岡郡本山町

[登山日]2001年9月30日

[参加数]2人

[概要]本山町は、江戸時代初期の土佐藩執政 野中兼山(1615〜1663)采邑の地である。とにかく彼は一代の傑物であった。土佐発祥の南学の朱子学思想に基づき、公私にわたって「従て学び、従て行う」を実践した。当時、土佐藩は幕府の外様削減計画による度重なる出費と、長宗我部残党による世情不安のため疲弊しきっていた。改易の恐怖!・・高知城内には重苦しい空気が蔓延していた。そんな中で彼は決然と立った。荒野を開拓し、港を作り、山林を保護し、重要品目の専売性を確立した。贅行を慎み、勤労を奨励した。例えば漁民に対する「一、鰹釣り候時、近辺に見えず候時は、遠く沖に出ず可く候。鰹見えず候はば、早々帰り、陸の働き仕る可く事。・・」など、「余計なおせっかいだ!」と言いたくなるほどこまごまと指示している。しかし、彼の妥協を許さぬ厳格さと、性急な性格は次第に政敵をはぐくみ、遂に志し半ばにして失脚、失意のうちに世を去った。それに追い打ちをかけるように野中家には領地没収、宿毛幽閉、断絶の過酷な運命がふりかかる。「ざまあみろ!」反対派は一時の快楽に酔いしれたことであろう。しかし、彼の真価が認められたのは100年が過ぎてからであった。巨大なプロジェクト群はようやく実を結び、たびたび藩財政の危機を救い、来るべき幕末の雄藩体制に向けての原動力となったのである。そして、当時、凡夫の解すべくもなかった深遠な政策の恩恵は現在もなお続いている。今はやりの「産学官」合体が、いかに強大な力を発揮できるかを彼は300年以上前にすでに証明してみせたわけである。その身は苦しみを受けたが、彼を尊敬し慕う声は今なお高い。まさに「もって瞑すべし。」というべきであろう。その眼差しは、今しずかに「きびす山」に向けられている。

[コースタイム]

  白髪山・きびす山登山口(9:00)―頂上(10:20)

[登山手記]台風の余波を受け、あいにく雨模様の中、「きびす山」登山に先立ち、本山町の帰全山公園に参拝しました。帰全山には、野中兼山の御母堂(秋田夫人)の墓や、兼山の銅像があります。名前は、兼山の思想上の師であり友でもある山崎闇斎の「父母全うして之を生み、子うして之をす。孝と謂う可し。」の一文に由来するそうです。今も静寂の中に威厳と気品が満ちています。すぐ横に吉野川が流れ、橋の上から「きびす山」の秀麗な姿を望むことができました。兼山公も、ここから日々仰ぎ見たのだろうなと思いつつ登山に移りました。

昨年の白髪山と同じ「峰が平」の白髪山登山口から登山開始。水平道を15分ほど進んで林道に飛び出したところから、指導標に従って山道を進みます。少し登っては林道を横切り、また山道に入るという繰り返しです。林道のため、登山道は次第に荒れているようで、自信のない方は林道を辿ってもかまいません。数回、そんなことを繰り返して、いい加減ウンザリする頃、荒れた林道で一度、登山道が途切れてしまいます。草茫々で指導標もなくちょっと戸惑いますが、道なりに少し進むと右手の少し崩れた場所に再び山道が見つかるはずです。ネイチャーハントの山とはいえ、ここのところはあまり整備されていません。以前はもっと整っていたのかもしれませんが・・。ここをクリアすれば、あとは頂上までしっかりした山道です。雨のため薄暗く少し不気味ですが、最後の急登を喘ぎながら登り切って、10:20無事、頂上を極めました。ここにはお馴染みの「ネイチャーハント」標識がないので注意が必要。写真のような細長い標識となっています。雨のため展望もなく、すぐ下山にかかりました。少し下ったところに岩場があり、南は急斜面で一気に吉野川に落ち込んでいます。佇んでいるとガスがさっと切れて本山町や早明浦ダム湖が現れました。台風の影響で、黒雲が沸き上がってはちぎれて乱れ飛んでいきます。

 ここで私はふと次の歌を口ずさんでいました。

1.汨羅(吉野)の淵に波騒ぎ 巫山(きびす)の雲は乱れ飛ぶ

              混濁の世に我立てば 義憤は燃えて血潮沸く

2.権門(佞臣)上に傲れども 国(藩)を憂うる誠なし

              財閥(豪商)富を誇れども 社稷を思う心なし

7.見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて

              革新の機到りぬと 吹くや日本(高知)の夕嵐

 良く知られた「昭和維新の歌」です。幕末の野根山騒動を歌った「至誠は成らず野根山の・・」と同じ旋律なので高知県人にとっては馴染み深いかもしれません。これ以外のフレーズは右翼的で時代に合わないものもあるので、この程度にしておきますが、小泉首相に歌って聞かせたいですよネ。70年の歳月を感じさせない新鮮さが今なお漲っています。ちなみに括弧内のように言葉を換えれば、これはそっくり野中兼山の心境になります。歌いながら、しばらく独り岩の上に立ちつくして腕を組み、兼山に成りきってみました・・・

 これには後日談があります。過日、市内の老先生と雑談しているとき、話題がたまたま登山のことになって、私は「きびす山」と野中兼山に言及しました。そして「憂国の士」ぶって「昭和維新の歌」を歌ったことを喋りまくりましたが、先生はジッと聞いておられました。さらに調子に乗って「土佐人は、雁山といい、帰全山といい、さらに剣山や三嶺を「けんざん」「さんれい」と呼ぶなど漢語的表現が好きですね。この際、「きびす山」を「巫山」と呼称してはいかがでしょうか?」と戯れに言ったとき、急に言葉を遮って厳しい口調で「君は、汨羅とか巫山とかを単なる風景描写と思っているのかネ?」と問い返してきました。私が「はあ・・」と曖昧に答えると、「汨羅とは、憂国の士である楚の屈原が投身自殺を遂げた淵の名前だ。巫山も同じく楚にある山の名前だが、「巫山の雲」とは男と女の****(老先生の言葉とは思えない露骨な表現なので伏せさせていただきました)のことを言うのだ。その程度の意味は当時、子供でも知っていたぞ。従って、「汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ」とは、「(不況や世情不安で)自殺者が増え、性は乱れきっている」という意味の、まさに漢語的表現なのだ。現代そのものではないか!それがわかってこそ次の「混濁の世に・・」のフレーズが力強く歌えるのだ。そんなことも分からない者に、この歌を歌う資格などない。まして、高邁の士である兼山と、孟母の誉れ高き母君ゆかりの地に「巫山」なぞ腑抜けた名前を付けるとは・・・もってのほかである!・・この痴れ者めが!」と本気で怒りだしたので、しばらくはなぜ怒るのかその意味もわからず、ほうほうの体で家に逃げ帰ってきました。