【財田左兵衛頭義宗、小笠原義盛らが財田城で、北朝方と戦う】
大日本史料・・財田凶徒蜂起之由、其聞エ有ルノ間、差下ス所ハ桑原左衞門五郎也。要害ノ事、談合ヲ加ヘ相共ニ軍忠ヲ致スベキノ状、件ノ如シ。
建武四年六月廿日 兵部大輔(細川顕氏) 花押
香西彦三郎殿
財田城攻落之由事、今月廿一日注進状並ニ着到、同廿七日到来シ委細披見セシメ畢ンヌ。殊ニ以テ神妙ナリ。没落凶徒等、尚以テ相残族、在所ヲ相捜シ誅伐ヲ加ヘラルベシ、将又当城ニ於テ軍忠ヲ致シ輩ノ事、聞召サレ畢ンヌ。弥(いよいよ)軍忠ヲ致スベキ旨、面々相触レラレベクノ状、件ノ如シ。
建武四年七月廿九日 顕(花押)
桑原左衞門五郎殿
(以上、大日本史料 第6編之4より抜粋;原漢文)
阿波志・・・・細川顕氏、桑原常重ヲ遣シテ、阿波ノ南軍ヲ財田城ニ攻メシメ、是日、香西彦三郎ニ令シテ、倶ニ力ヲ效サシム、翌月城陥イル。
(史料綜覧 巻六;南朝延元二年 北朝建武四年六月)
建武4年(延元2年)は、前年の湊川合戦で足利尊氏が勝利して後醍醐天皇が吉野に移り、尊氏のもとで着々と幕府の体制が整えられていた時期である。すでに和氏ら細川一族が四国に下向し阿波秋月に本拠を構え、讃岐は前年11月より細川顕氏が守護に任命された。しかし、それに抵抗する南朝方の勢力も未だ少なからず、一部は財田城(宝田城とも;香川県三豊市財田町)に立て籠もって蜂起したのである。守将は財田左兵衛頭義宗、これに阿波池田城主の小笠原義盛が援軍で駆けつけたという。しかし、防戦も空しく2ヶ月余りで城は陥落し厳しく残党の詮索が行われた。上記の大日本史料の記事は、その時に細川顕氏から発せられた軍令状と感状である。残念ながら、「南海治乱記」には何の記述もない。これにより讃岐の香西氏や、阿波の桑原氏が細川方で戦ったことを知ることができる。「第13回 郷土博物館陳列品解説」(鎌田共済会 昭和15年)によると、香西彦三郎は、羽床(藤太夫)重高第六世の孫の盛長(⇒❡)と考えられるが他に確証がある訳ではない。「阿波志」や「阿府志」によると、桑原氏は阿波国麻植郡牛島村上浦に居城とあるが、元々は西讃の出であるという。二つの書状は徳島県の「西野嘉右右衛門氏所蔵」となっているが、元来は「桑原家」の古文書であるらしい。いずれにせよ、讃岐に起こった事件であるから、細川顕氏の管轄下である讃岐の北朝勢力で解決を図るというのが筋であり、桑原氏も当時は讃岐に本拠地を持っていた可能性はある。顕氏にしても幕府側の側近として事件当時は在京していたため、この二人に対処を任せて書状の伝達を以て遠隔で処断を下していたのであろう。
さて、南朝方の小笠原義盛は、「承久の変」で上皇側について断罪された佐々木経高に替わって代々、阿波国守護を務めた義光流清和源氏小笠原の名門である。初代の長清から数えて5代目の嫡流となる。「本朝尊卑分脈」(図1.)では「阿波守、宮内大夫、左京大夫」とあるが南朝についたという記載は何もない。ただ、「東名東村吉田孫六系図抜粋」(阿波国徴古雑抄 所収;国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)に「義盛 康永二年九月、頼春四国管領補任ニ依テ、頼春ノ旗下ニ与力ストイヘドモ、先祖累代守護職ハ、本ノ如ク国中ヲ執政ス。是ヨリ勝瑞ニ住シ、本姓ヲ改テ三好ト云。文和元年壬二月廿日、四条大宮ニテ、頼春一所ニ討死、四十九歳」とあり、四国管領(このような官職はないのだが・・)の細川頼春が、阿波守護は今まで通り小笠原に任せるとまで言って懐柔したのであるから康永2年までは南朝側であったに違いないという都合の良い憶測と、「阿府志」の“阿波ノ南軍”を結びつけて財田城で抵抗したのは小笠原義盛であろうとする説が江戸時代になって拡散していったと思われる。小笠原一族にしても、建武新政以来、守護識は細川に奪われたという負の感情が強かったと思われるので南朝の抵抗勢力に加担しても何ら不思議ではないだろう。ただ、この記載を信じるならば南朝での活躍は延元元年から康永二年、「南海治乱記」によると細川頼春の伊予侵攻ではすでに細川方で戦っており(⇒❡)、たかだか数年の勤王であったと考えられる。それに反して、一族の小笠原頼清(「本朝尊卑分脈」では嫡子だが従兄弟、弟などの諸説あり(⇒❡)は阿波山岳党と組んでその後も長らく細川氏に抵抗を続けたというがやはり不明な点も多い。これについては一宮氏に関する項目で再度、触れたいと思う。「財田町誌」(同編纂委員会編 昭和47年)には、本篠城跡付近から出土したという、小笠原氏家紋の三階菱のはいった鐙の写真が掲載されている(図2.)。これを以て小笠原義盛か頼清がこの戦いで負傷したのかもしれないと考証しているがほとんど空想の世界で、鐙は二組あり、土中からの物にしては綺麗すぎる印象もあって俄かには信じがたい。一度、実物を見てみたいものである。
図1.「本朝尊卑分脈」の小笠原義盛付近の系図。(中央右下付近;拡大は画像をクリック!)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載、一部、合成。)
図2.本篠城から出土したと伝えられる鐙。(「財田町誌」より;鮮明なものと差し替え予定)
財田左兵衛頭義宗に関しては、「青蓮院密蔵寺縁起」(「香川叢書 第一」所収;国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)の「往昔ハ、当処奥野城主財田左兵衛頭義宗祈願院トゾ、金堂・坊舎悉ク周備セリトナン、然処、天正七巳卯ノ春、土州長曽我部元親、五千余兵ニテ阿波大西ノ邑ヨリ、奥ノ城没落ノ間、仏閣悉ク兵火シ、唯本尊ノミ残玉フ。・・財田中ノ村上本篠、奥野城跡ニ、五輪塔有、才田左兵衛義宗ノ墓ナリ。」とあるのが唯一の拠りどころと思われる。奥野城は「香川県中世城館跡詳細分布調査報告」(香川県教育委員会 平成15年)に「奥ノ内城跡」とあるのがそれで本篠城とは別に記載されている。これは財田庄屋文書「地誌撰述」に“石野”(本篠城は石野ではない・・)にあるとするのが根拠であるが、実際に“奥ノ内川”が石野にあることも後押しとなるだろう(⇒❡)。しかし、この文章だけでは義宗が南北朝時代の人かどうか判然とはしない。さらに、「西讃府志」の“本篠城”の項目に「四国太平記ニハ財田左兵衛尉トイヘリ・・」とあり確かに「四国太平記」なる江戸時代の古典籍も存在するようだが(⇒❡)、本書を未確認のため詳細は不明、義宗と天正6年に長宗我部元親に攻略された財田和泉守常久(⇒❡)との家系上の繋がりも何ら確認できないのも残念である。
それでも、地元では義宗と常久の墓は別々に存在するし城跡も異なっている訳だから、口碑としてもふたりが永く郷土の誇りとして伝えられていることは意味があることだろう。今後、さらなる研究が進むことに期待したい。だいぶ後のことになるが、徳島県の有瀬家文書に「・・(有瀬)成重嫡男有瀬右京進成正、寛正五年(1464年)十一月十日に讃州宝田之合戦に討死仕云々」(「山城谷村史」 同村役場編 昭和34年)とあり、義宗らの戦いから130年後に、この地で再び合戦が行われたことを伝えている。祖谷山の有瀬氏は小笠原氏の流れであり、時期としては細川成之が伊予に出兵した頃で、応仁の乱の前哨戦としての位置づけがなされているが、宝田で誰と誰が戦ったのかは全く不明である。
ともあれ、上記の調査報告を信じるならば、「奥ノ内城」は現在の「たからだの里 環の湯」付近と思われる。すぐ南にはもともと義宗の祈願所であった青蓮院が建立され財田城の支城とも推測される塔重山公園(⇒❡)があり、雄大な讃岐山脈を背に城櫓を擬した展望台も設置されている。のんびりと環の露天風呂に浸りながら、三度、激戦の繰り返されたこの地の遙かな歴史にしみじみと思いを馳せてみるのも、また一興であろう。
図3.財田城付近の史跡地図。(原図はYahoo地図;拡大は画像をクリック!)