南海治乱記・・・天正九年春三月二十日、三好山城入道笑岩、讃州に来著して国中の形勢を聞き、それより阿波国に入て我が本領美間三好に至る。子息式部少輔(初の名は徳太郎)は、先年土佐元親、阿波国乱入の時、猛勢を揚げ攻来る故、我が領を保守することを得ずして元親に候し、我子を質に出して其領を失はず。今度、笑岩下向あって岩倉の城主、式部少輔に告て曰、其方、今長曽我部氏に降するは時変に因て身を立べき為也。信長、四国を征伐せらるることは亦間も有べからず、其時、信長に降するも面目なかるべし。今、我旨に任せて土佐方を違変すべし、是、信長へ忠なれば恩賞も有べき也と申すすむる故に式部少輔、実子を捨て土佐方を違変す。笑岩しばらく阿州に留りて美間三好二郡を元の如く治めて三好存保と力を合せ播州の秀吉と謀を同ふして淡州阿州と取つづき、信長の命と号して国中を誘ひ引く故に、笑岩に随附の者多し。其謀を定めて其年の秋上洛し、近日大兵を挙げて来るべきことを示す。阿州の城に居たる土佐の兵も城を捨て引退きたる方もあり、元親も大事の時なれば阿波の大西白地の城に住して阿波讃岐の手遣ひをなし大敵を防ぐ計を定め、事を敬して信を厚くし身方の離ざる事を要とす。 (阿州三好式部少輔、変を生じるの記;巻之十一)
元親記(中)・・この岩倉の城主式部少輔は、前かど降参して、実子(俊長)を人質に出し置きしが、三好長張(治)河内より阿州へ下向の後、親正厳(笑岩)の異見故、人質を捨て、又三好方へなり替はる。この人質は正厳の為には孫なり。是を助け河内に送付けて、正厳へ渡され候き。正厳大慶(おおよろこび)して元親に使者を以て礼あり。その後、元親、太閤様へ降参して上洛の刻、上方にて正厳別して馳走大形ならず。三好孫七郎(秀次)殿への御取合など、一段と走舞あり。仮に式部少輔にくきとて、この人質を生害し給ひたればとて、別なる事も有間敷に、慈悲を加へ置き給ひて、只今正厳、天下にての馳走を見る時は、併せて天道の恵ぞと、元親卿の案のほど、聞く人皆感じけり。岩倉の城廿日計に攻落し、式部少輔は命を助かり、いづくともなく下郡さして落ち行きたり。扨てこの城は同名掃部助に預けらるる。この度にて阿波一国残る所なく相済むなり。 (阿州岩倉城攻之事、并びに岩倉城主式部少輔捨てし人質を助け送らるる事)
昔阿波物語・・・一、天正拾年に、三好山城殿御下りの時、阿波の侍衆も、大略山城殿へ降参なされ候。八多の麻植殿、八万の新蔵、一宮殿内衆そのほか、大略降参申され候。其様子聞え候て、一宮殿は、人質に取り候て、土州の西寺の堅斎・池田肥前・野中三郎左衛門一両具足の衆二百ばかり、一宮殿に供も付けず壱人を取まはして、牟岐迄のがれ候。又、八万の庄野和泉は、池田甚兵衛・くれた五郎左衛門一両具足百人にて、和泉を人質に取りて、牟岐までのがれ候。即ち一宮殿の城へも、勝瑞より番衆を入れ、八万のゑふす山へも、勝瑞より番衆を入れ候。此の子細、土州は不断の物語に、合戦する程取入る事なし。ただあつかひにしてだましころす程の事はなく候と、不断雑談にて、其の如く牛岐の新開道喜(善)と申したる侍も、味方にして打果し候。川村殿なども味方にしてころす。その外何程と申す積りなく候。かやうの物語を聞き候て、一宮殿の内衆も、迚(とても)ころされ候と存ぜられ、山城殿へ降参と聞え候。・・・ (巻第三)
三好笑岩が帰国すると、実子の徳太郎を寝返らせたのを皮切りに多くの阿波の城主達が三好方に靡いた。あの一宮成助までが三好に返り咲いたのは驚きだが、元々、笑岩は篠原紫雲を討った長治には批判的であったから、そのあたりを軸に説得したのかもしれない。成助にしても長治の実弟である存保とは仇敵の間柄だが、昔から旧知の笑岩に従うのなら、という気持ちもあったのだろう。また、矢野国村や森飛騨守が討たれた脇城外の合戦も、謀略の張本人が徳太郎ではなく土佐にあったことを笑岩の口から知らされた可能性もある(⇒❡)。その上、笑岩が土佐の人質となった孫を見捨ててでも阿波を救おうとする、その不退転に覚悟に大いに感じるものもあったことだろう。まあ、時勢に聡い成助であるから元親では信長の四国征討に到底勝ち目はないとの打算が働いたのが最大の理由とは思うが・・とにかく天正10年春までに、脇城の武田信顕、牛岐城の新開道善はじめ主だった城主が笑岩に従ったのである。一方、「昔阿波物語」はまた、面白い視点からこうした動きを捉えている。多少の時系列に誤りがあるが、重清豊後守や讃岐の長尾氏(⇒❡)など、元親は味方に引き入れても騙し討ちされるという風評があって、それを恐れて笑岩に降参する者が相次いだというのである。「川村殿」というのは、蔭城(美郷村)の川村左馬亮恒基のことであろうか?彼は脇城外で矢野国村らとともに騙し討ちされたが、味方にするという意味では少し異なるものの、謀殺という点では一致しているので、ここで一緒に語られたのかもしれない。元親も自分のやり方で離反者が出ているのを察して便宜上「事を敬して信を厚くし身方の離ざる事を要とす」としたのである。
一宮に背かれた土佐軍は成助一人を人質にとって牟岐まで逃れたが、中富川の決戦の後、その変節を元親に咎められて、結局は夷山城で騙し討ちされた。新開道善も同様である。庄野和泉守は人質として土佐方に残り変節しなかったので咎め立てをされなかったという。そういう点では元親は実に単純でわかりやすいが、わかりやすいだけに戦国の浮き世を渡っていくのが如何に際どい綱渡りであるかを、この逸話に知るのである。