南海治乱記・・・天正八年春、土州元親六千余兵を以て讃州鵜足郡長尾郷に来陣し、長尾大隅守と相議して西長尾山に新城を築き、土州国吉甚左衛門尉を城守として馬廻の士百騎すぐって与力とし組士ともに一千余人を以て守らしめ、其近辺を以て知行せしめ西讃岐の陣代とす。然して綾の北條に発向し香川民部少輔を旗下に服す。香川氏は近来毛利家の力を借て地取合に勝ち其家を保つと云へども、今元親の威力、四国を覆ふべきことを察して土佐方に降す。元親、即ち西庄の城を巡見し郡中を撿察す。各小城持ども、国府の小早川三郎左衛門を初として郡中悉く降し、元親、綾松山の麓に到り頓証寺御領山林ともに乱妨を禁止し、夫より天王に到り摩尼珠院に入りて往古の来歴する処を聞きて、其辺旧跡を巡検し西長尾に帰り暫く此に止りて壁壘を修造し営舎を作りて安居せしめ、糧食を積み中通の山路六里の間、阻道桟道堅固に通し大西白地より粮の運送よきやうに便し、元親、陣に入り玉ふ。元親、白地の城を修造し出城として爰に留り讃州へ手遣し玉ふ。故に其功速に成也。 (土佐元親、讃州西長尾に出陣の記;巻之十一)
長元物語・・・・一.長尾の城は、国吉甚左衛門御据へ、組与力大分相添へて、此所にて何れも知行給はる。甚左衛門をば讃州一ヶ国の惣領頭に仰せ付けらるる。
西讃府志・・・・長尾氏:長尾氏ハ橘家ノ族ニテ、三野郡筥ノ御崎ニ居テ、海崎豊後守元村ト称ス。元村ノ子元高大隅守と称す。山田、羽床、栗熊、長尾等ノ諸村ヲ領テ、応安元年正月七日、西長尾ノ城ニ移リ氏ヲ長尾ト改メ世々大隅守ト称ス。六世ノ孫高晴ニ至リ、三野、豊田、多度、那珂、鵜足、阿野等ノ諸郡ニテ、六万五千石余ノ地ヲ領セリ。・・(高篠の戦の記載につき略⇒❡)・・元親、イカナル怨ヤアリケン、大隅守ヲ滅セントシテ阿波ノ重清ノ城主、豊後守ト相謀リ、是歳七月二十七日、大隅守ヲシテ、重清ノ城ヲ攻メシメ、元親モ兵ヲ出シテ攻ルマネシテ、却テ豊後守ト共ニ大隅守ヲ圍ミ八月朔日大隅守ガ為ニ謀ラレ、遁ルベキヤウモナク、手勢残ラズ戦ヒ死す。元親其城ヲ取テ、西讃ノ陣代トス。今長尾村ニ、野田井ト云地アリ、ココニ若宮ノ祠アリ、相伝フ、天正七年、高晴重清城ニテ、死スル由聞エシカバ、高清ノ女乳母ニ従ヒ、城ヲ出テ、此地ニ来リテ自殺ス。因テ其霊ヲ鎮メ祭ルト云。・・(高晴分限録は略)
全讃史・・・・・長尾孫七郎:長尾孫七郎は、鵜足郡長尾郷、種子城主、左近左衛門盛国の子なり。夙に父を喪ひ其の舅家備中守に育せられき。天正七年、土佐元親阿の重清城を攻め、長尾備中を誘ひて之を殺しき。時に孫七井上長大夫と衆中に没し、敵鎗七枝を伐折りて脱せり。敵兵皆舌を吐けりと云ふ。
国吉城:天正八年春、土佐元親、此の山に城(き)づき、国吉甚左衛門をして兵一千人に将とし、此の城に居らしめ、以て讃州の鎮と為せり。又阿の大西白地より、六里山路を開き、軍餉使を得て、兵機自在なりき。
玉藻集・・・・・天正九年四月、長曽我部信親、香川山城守信景を近付て謀を相定、北條・長尾両手に分て働けり。西長尾へは香川衆・土佐衆を加て攻寄、扱を入てければ、長尾大隅守降参して、信親の旗下に成にけり。此時信親は下道を経て、綾の北條西ノ庄に押入、香川民部少輔を攻にける。西ノ庄の城四方深田にして、要害の地なりといへ共、大軍に取詰られて、中々城を持㕝ならず、降参して城を渡し、備前の内三原へ立退けり。
羽床氏と組んで、櫛梨城から東進してきた長宗我部軍と戦い勇名を馳せた長尾氏も香川氏の和睦勧告を受けて降伏し元親に下った。その後の長尾氏の動静は不明な点が多いが、「西讃府志」や「全讃史」によると、どうも三好徳太郎らが土佐勢と謀って矢野国村らを騙し討ちにした岩倉・脇城の戦い(⇒❡)に駆り出されて一族は殺されたらしい。しかし、この戦いは冬であり、「西讃府志」では七月でしかも重清城となっているので、別におびき寄せられた可能性も残るが、もし、岩倉城・脇城の時とすれば、元親自らが大隅守に話を持ちかけていることから、詰まるところ、三好徳太郎らが張本人ではなく元親自らが三好重臣の一挙殲滅を画した謀議であったことが歴然となって非常に興味深い。地元で”若宮”として伝えられる大隅守の奥方らの自殺も、長尾氏が元親に滅ぼされた歴史を暗示しているようだ。元親はこの長尾の地が非常に気に入っており、讃岐侵攻の根城にするつもりであったから付近の知行地も含めて長尾氏は邪魔だけの存在だったに違いない。その後、重臣の国吉甚左衛門親綱を配して城を新たに修築し、一千人の兵士を駐屯させ阿波白地からの兵站線も整備して一大要塞と化した。現在のヤフーやグーグルマップでは記載されていないが、国土地理院発行の地形図では佐岡付近に”国吉”の地名があったことを小生は記憶している。
さて、羽床・長尾を抑えた元親は、天正9年春になって、香川民部少輔行景の籠もる綾北條西庄城に押し寄せた。2年前の天正7年に、羽床資載の攻撃を小早川隆景の援軍を以て撃破した行景も今回はあっさりと降参して元親に下ったようだ。すでに織田信長は長宗我部と小早川の共通の敵となりつつあったので、さすがの行景も小早川を頼ることはできなかったのだろう。小早川にしても織田方に寝返った宇喜多直家への対応に追われる時期で四国等は構っておれなかったのかもしれない。多少の土佐番兵の残留はあってもこのときは領地をそのまま安堵されたと考えられる。余裕の元親は、その後、白峰の頓証寺や摩尼珠院(現在の四国札所79番高照院付近)を見物して白地に帰還している。なお、摩尼珠院近くの天王城主として小早川三郎左衛門の名前が見えいかにも小早川氏の派兵のようにも思われるが、元亀2年の香西元載の児島への出兵の際にも「国府の小早川三郎左衛門尉」(⇒❡)とか「天王小早川(八騎)」(香西史)とあるので、以前から此の地に土着した国人衆と見るのが妥当ではないだろうか?