南海治乱記・・・天正十年九の月、阿波国治平して城主を定らる。牛岐城には香曽我部親泰入城して阿波一国の旗頭と定らる。一の宮城には江村孫左衛門、与力組ともに入城也。一の宮南の城には谷忠兵衛入城也。岩倉の城へは長曽我部掃部助、組与力ともに入城なり。海部の城は香曽我部親泰根城也。吉田城には北村閑斎入城也。宍咋の城には野中三郎左衛門、木津には新城を築て東條関之兵衛を置かる。渭の山には吉田孫左衛門、脇の城には元親の姪(おい)長曽我部新右衛門親吉を居せらる。
九月十六日、元親より名代として久武内蔵助親秋を丈六寺まで遣はし富岡の城主、新開遠江入道道善方へ使を遣はし申すやうは、今度勝瑞退治し一国平均す。知行分の事ども談合の為に久武是まで参て候、道善是まで出合玉ふべしとの事也。道善即参りしかば久武対談して曰く、阿波国治平の事は貴方、当家へ帰服して謀を回し玉ふ故也。それに因つて勝浦郡を附与せらるるとの事也とて悦ばしめ事終て帰る時、相図をして待かけ横山源兵衛と云者、道善を撃つ。道善が家人、松田新兵衛と云者横山を撃つ。横山が姪八兵衛と云者、新兵衛を鎗にて突く処を、突かれながら八兵衛に深手を負せて多兵下り合て打留ぬ。・・ (土佐元親阿波国平治の記;巻之十二)
三好記・・・・・去る程に、長曽加部元親は、天正十年に阿波・讃岐・伊豫・土佐四国を打靡かし、守護仁と成りて下八万満村夷山の城に陣を取りて御座す。諸民敬ひを成す事、吹く風に草木の靡くが如し。同年九月十六日の日、富岡の新開遠江守入道道善を方便(たばかり)討つべきため、元親の名代として久竹彦七郎親秋を丈六寺まで遣はす。彦七郎、丈六寺より富岡の新開道善へ使者を以て遣はしけるは、今度元親天道に叶ひ、軍に勝利を得、四国を手に入れ候事、時の剛運とは申し乍ら、偏へに諸将の謀剛きを以てなり。然れば城郭を搆へ、多勢を遣ひ給ふ大将達へ領知(地)を増し加へ進じ置き、国家を堅くせん事、末代までを存ぜられ候に因つて、元親名代として親秋丈六寺へ罷り越して候。仰願くば是れまで御発足なされ候はば、委細に面談仕り候はんと、詞を尽くして云ひ遣はされければ、道善則ち時を移さず、丈六寺まで立越え、内室に入りて、久竹彦七郎に参会す。元親より道善え加増として、勝浦郡を玉はりければ、道善喜悦の眉を開く。互に面談事終りて、酒数盃酌流す。道善在所に立帰らんと申されければ、彦七も客樓の広縁まで送り出て、道善の御馬是れまで寄られ候得と、申すを合図と待懸くる、彦七郎が家来の横山源兵衛と云ふ侍、道善の後より立寄り、道善を討ちければ、道善運や尽きたりけん、首は縁より下へころび落ち、草露と消えをはりぬ。
道善の家来の松田新兵衛と云ふ侍、道善の刀を持ちて跡に付て出けるが、持ちたる刀を取直し、抜討に、主君道善の敵(かたき)横山源兵衛が首を、水もたまらず打落す処を、源兵衛が甥、横山八兵衛と云ふ侍下合せ、鑓にて新兵衛を突く処を、突かれて鑓の柯(え)をたぐり寄せ、八兵衛に痛手を負はせ、其身軽げに行跡(ふるまへ)ども、多勢に無勢叶ひ難く、終に討たれて空しくなりぬ。・・ (長曽加部元親四国を治むる事付けたり諸侍を方便討つ事)
(中央は「阿波古戦場物語」の表紙。元絵は丈六寺蔵の絵馬。左右は有名な血天井。道善はまた”禁酒”の神様、女房の断酒の願掛けの折に撮影・・)
中富川の決戦直後に、元親が新開道善を謀殺した有名な「丈六寺の変」である。新開氏は白峰合戦(⇒❡)で細川清氏を討った細川頼之の家臣、新開遠江守真行の後裔で、中院源少将の拠る西長尾城を攻めると見せかけた陽動作戦を成功させた功績によって代々、阿波国牛岐庄の領主を務めていた。”変”時の当主は新開遠江守実綱(忠之とも)で、三好実休の戦死した久米田の戦以降は出家して道善と称していた。妻は実休の娘で三好氏の重鎮として活躍したが、元親による南阿波侵攻で東條関之兵衛らとともに降伏、しぶしぶ元親に臣従した。しかし、信長の四国征討を前に帰国した三好康長(笑岩)の説得で再度、三好側に内通したが中富川の決戦では再び元親に従っている。こうした背信行為は元親のもっとも忌み嫌う所であり、決戦後のどさくさに紛れて粛正されたのだろう。騙し討ちなので土佐側の資料は至って簡単な記載しかないが、「元親記」でも「道前と一の宮城主は、その後心替仕るに付き腹を切らせらるる。」と自らが粛正したことは認めている。十河存保の讃岐退去が9月21日であるから、まだ勝瑞城が落ちていない状態で決行されたのである。
元親の名代の久武親直は丈六寺から道善を呼び出した。最初は警戒していた様子だったが、恩賞に勝浦郡を与えられ酒宴で心を解いた道善は酩酊状態で富岡城に帰ろうとした。客殿の縁に出て、親直が「道善殿のお馬を之へ。」と言うのが合図であった。親直の家臣の横山源兵衛が後ろから一刀のもとに道善の首を切り落としたという。この横山源兵衛というのは、天正六年秋、本篠城の合戦(⇒❡)の際に財田和泉守を討った横山源兵衛の嫡子である。おそらく土佐介良城主の横山氏の一族だろう。その源兵衛も道善家臣の松田新兵衛に斬られ、新兵衛はまた源兵衛の甥の八兵衛に鑓で突かれて戦死した。本篠戦で繰り広げた身内同士の復讐戦をここでも繰り返したのである。この場で道善主従は全員討たれ、後日、長宗我部軍に富岡城を攻められて嫡子の実成はじめ一族もろともに滅ぼされた。ただ、生き延びた子孫もいたことが、米田賀子氏の研究(⇒❡)で判明しているのは、せめてもの救いであろう。
平成4年発行の「戦国の覇者 三好家と十河一族」(谷口秋勝 著)には、道善が最期に「己れ元親謀り居ったかっ、四国の覇者とも在ろう大豪が、蠅蚊の如き此の道善を謀るとは、呆れ果たる盗国奴め・・・」と叫ぶ様子が描かれている。残念ながらどの文献に拠るものか定かではなく、或いは氏の創作かとも思われるが、ぐうの音も発せずに首を討たれるよりは、憎き元親に対してこれくらいの口上を吐き捨ててから死んでもらいたいという徳島県民共通の願いが込められているのかもしれない。