南海治乱記・・・天正十一年春、小西彌九郎行長、関船二艘に乗り兵士百人許にて香西平賀柴山の出城の下に着船し、武者一人舟の舳先に立て扇を揚   げ城中に物申さんと云ふ。出丸の海賊の大将に渡邊市之丞同三之丞、樓に出て何方より来るぞと云ふ。渠が曰く、是は京都羽柴筑前守殿より使者として小西彌九郎行長の来り玉ふぞ、城主に其旨を申すべしと也。市之丞も宏才者なれば答へて曰く、今、四国は土佐の長曽我部殿を旗頭とす、更に私の了簡を加ふべき事なし。重ねて此浦に来り給ふべからず。早く船を漕返し玉へ、若し遅滞に及はば大筒の鉄砲を打懸くべしと云ふ。城中には敵のあたけ船が来るとて右往左往とひしめく事大形ならず。市之丞、城中の騒動を見せじやと思ひけん、急ぎ漕返すべし、延引に及はば悪しりなんぞとて大鉄砲を打かけければ一艘の船の横かみに當りて破損す。夫より船は沖に漕去る。是よりして後、敵船は寄来る事なし。香西家臣とも在所より馳聚りて市之丞、三之丞が計ことを問ふに右の如し。各中申すは善き返答の申すやうなり。時の機転、後来の考へとも相当なり。戦場にて動をなす者は有べし。時変を知つて事を計る者は少なかるべしと云ひ合へり。  (小西彌九郎、香西浦に来るの記;巻之十三)

 

 

香西史・・・・・芝山城ハ香西町芝山山上ニアリ。香西氏ノ水城ノ地ニシテ本丸四間ニ六間、北ノ丸三間ニ五間、南ノ丸四間ニ七間、尤モ斂浸アリ、高下アリ、麓ニ昔ニカラ堀アリタリ。渡邊市之丞、同三之丞ノ守リシ居蹟タリ。渡邊氏ハ香西氏ノ臣ニシテ、直島ニ本領アリシモ、香西ニ采地ヲ加食セラレ此城ヲ守ル。天正十一年春、小西行長ノ関船二艘ト争ヒシモ此ノ城ナリ。 (芝山城の項)

 

 

全讃史・・・・・渡邊城;上円座村に在り。渡邊市之丞及び三之丞、之に居りき。香西伊賀守の海賊奉行なりき。

 

 

           天正11年春、香西芝山沖に二艘の関船が現れた。羽柴秀吉の使者として小西行長が来訪したと告げる。その時、海際にある芝山城主の渡邊市之丞が(独断で?)交渉し、とにかく四国は元親の采配地であるから他国の干渉などは断ると大鉄砲(フランキー砲か?)まで打懸けて追い払ってしまった。すわ、秀吉の攻撃かと右往左往する城内の混乱を悟られまいと取った市之丞の機転に皆が感じ入ったとしているが、この判断は本当に正しかったのであろうか?まだ本能寺の変の余波で羽柴秀吉と柴田勝家が対立する中で天下の情勢は定まらず、毛利氏も中立して不気味な沈黙が続く中で、来訪の理由も聞かずにそうあからさまに使者を敵と見なす行動は妥当だったのだろうか?少なくとも長尾城の国吉甚左衛門か香川親和に連絡し、元親の意向を伺う必要があったのではないかと思うのである。ただ、藤尾城内には国吉三郎左衛門?などの土佐方の目付が常在したことも考えられるので迂闊な交渉をすると却って妙な勘ぐりを受けるかも知れず、香西氏としても応対にはとても悩んだことだろう。この時の記録が「南海治乱記」しかないため、これ以上はなんとも評価しようもないが使者の扱いによってはそのまま戦闘に発展する可能性もあったかもしれず、鉄砲まで打懸ける市之丞らの”無鉄砲さ”に元親にすれば大いに眉をひそめて側近に苦言を言ったのではないかと想像するのである。

           さて、その市之丞は、もともと直島の海賊衆であったが、後に香西氏の家臣となったとされる。史書には塩飽海賊衆として宮本、妹尾、渡邊が一括して記載されることが多く、宇喜多直家の海賊退治(「備前軍記」⇒)などをみても、どちらかと言えば丸亀、坂出から備前の島々あたりを縄張りとする海賊一族とするのが妥当なような気がする。こうした海賊は天正10年の香西合戦(⇒)の際には香西側につき、香西氏自身も大内義興時代には大陸まで往来する海賊衆の元締めのような存在であったから、渡邊氏や及生氏なども次第に海賊から直接の家臣として取り立てられたと考えられる。しかし油断ならないのは、海賊というものは合戦に際して海上でその成り行きを傍観し、場合によっては敵に寝返るということも平気でやってのける自我の強い集団であるから、いろいろと”飴”を与えて優遇しておかなければ領主と雖も安心はできないのである。「全讃史」には、芝山城から遙かに南の円座村に「渡邊城」を築き「渡邊市之丞及び三之丞、之に居りき。香西伊賀守の海賊奉行なり。」とあるが、海賊の大将たる者が、このような内陸を守らされるというのは”陸に上がった河童”よろしく凡そ似つかわしくはなく、寧ろ家臣に取り立てる”飴”として円座に領地を与えられ市之丞の一族が其処に居住し管理していたとするのが然るべきではないだろうか?従って“城”というよりは“居館”とした方が適当と思われる。後年、秀吉によって「海賊禁止令」(⇒)が出され多くの海賊が急速に衰退してゆくがそれも田畑を有さない支配者の悲しさであり、領地を与えられた海賊だけが江戸時代を生き抜くことができたことを考えあわせると、渡邊氏にとって領地の確保は大いに意味があった訳である。ただ渡邊氏が、香西氏滅亡後も本島の宮本氏や直島の高原氏のように新しい領主の元で巧みに領地を保持できたかどうかは定かではない。来航した関船に対してもう少しうまく立ち回っておれば香西氏を含めて小西行長の取りなしなども多少は期待できたかもしれず、ちょっと残念に思うのは小生だけの淡い”そら事”に過ぎないのだろうか?

 

 

(航空写真は国土地理院(昭和37年)を使用。拡大は画像をクリック!)

 

 

 

 

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