南海治乱記・・・(より)さて一ノ宮の城攻廿日ばかり過て秀長より谷忠兵衛に相談の事あり参るべしと申し越る。是は先達て忠兵衛上方へ上りて申し通じたる首尾ある故也。秀長より谷忠兵衛を以て元親に申さるるは、今此の一宮・岩倉両城の陥ざる先きに上方へ降参有べきこと第一の思慮たるべく候。両城落て後に降参とあらば元親の兵勢も劣り申すべき也。事の虚実著われざる先に上方へ降参あらば彼我の幸ひたるべき也。元親も隠れなき弓取の事に候へば定めて南方の切所へ引請け一合戦と存ぜらるべく候、たとひ今度の是へ向ひたる軍勢を悉く打従へたりとも又追々に軍兵を指下さるべく候。其内に毛利家八ヶ国の兵を以て伊豫の国を攻取り西表は土佐の幡多までも入べく候。備前の浮田、因幡・伯耆の諸将は讃岐の国へ渡ると云へども痩城ばかりにて手にたつ程の敵なしとて此州へ引越候へば、連々に詰寄せ本国近く成ては扱に成度とても承引成まじく候。殊に手切の一戦ありて後は滅亡までのことに候。岩倉・一ノ宮の落ざる先に降参あらば日来元親の武篇の名も腐ずまじ、公儀へも忠節に成べく候。此段は我に任せ置れ候はば満足たるべく候と忠兵衛に仰せ含められ白地へ指遣はされ候。

           忠兵衛、白地へ参て右の段々元親ヘ申し達せしかば、元親の外腹立して曰く、惣別城を守る者は手練をなし、城を持ち叶はざる時は切腹と究るは武士の道、昔も今も珍からず。此の忠兵衛は秀長にたらされて元親に異見頬をすると見へたり。一ノ宮の城七つの丸が四つ五つ没して本丸ばかりに成たりとも引き退く事は成ざるべき也。此城に譜代の士三百人勝りて込置たるは此時の為也。急ぎ一ノ宮へ帰り城を守り成ざる時は切腹すべし。伊豫の金子は我が譜代の家人に非ず、時に方て降参の者なれども今度、毛利家の大軍を受留め切腹したるを聞ぬか、是こそ士の義理を遂て四ヶ国の誉れを受け名を後世の唱へに残すべき也。今度、讃岐表の戦を仕はづしたるこそ残多きに海部表の戦をば仕外べからず。元親ほどの者が此の大敵を受け一合戦もせず慄々(おめおめ)と降参すべきか、国元の兵一万餘人信親を大将として野根甲の浦に到著し、香曽我部親泰と相議して上方の兵を海部表へ引かけ一戦し元親が旗本、白地の兵八千餘人を以て二の合戦し我が願を晴し、其後は左もあれ右もあれ此一戦は遅々すべからず、本国迄にして降参する事は野根山限に成たる時の事也。西国に名を顕したる元親が一合戦もせずして暗々と無事すべきは屍の上の耻也。土に骨は埋めども名をば埋まぬと云は武士の事也。己れめが存分とは天地懸隔也。忠兵衛、それ程の未練者とは思はずして城を預けつる事の無念さよ、頓に一ノ宮に帰り腹を切れと荒げなく申されて忠兵衛面目を失ふ。然れども、此の忠兵衛は武篇と云ひ智謀と云ひ人並の者に非れば其昏には家老中に相対し終夜談合し成敗を論じて退かず、家老中の存念も忠兵衛と同意し、此期に至ては元親の腹立最もなれども中納言殿の仰せの通り本国近く成ては扱ひに成たりとも為す方無くして降参したるとあれば、縦ひ戦に勝ちたりとも今の和平より味ひわろし、殊に後年まで秀吉公の悪みを結ぶ事なれば、今両城の堅固に持たる中に和平ありたれば国家長久の基ひなりとて忠兵衛を留置き、三日の間家老中元親へ内談あり。元親も怒を止て家老中の諫に従ひ玉ふ。忠兵衛は家老中同意して左右の事は中納言殿の仰せに任せ置き候との一札を取り、一宮に帰り中納言殿へ献り、白地にて元親始中終の存念ども物語りし、讃州表の戦仕はぐれたる間、阿州南方一戦は仕外すまじきと相究られたる方術ども具に達しければ、中納言殿も尤も左あらん、我れも其段を察して此扱ひを入る也。彼我ともに詮なき働なれば和平ほどの目出度事なしと仰らる。秀長賢なる故、刃に衂(ちぬ)らずして四国を平均し玉ふ也。   (羽柴秀吉公、四国征伐記;巻之十四)

 

 

 

 

元親記・・・・・扨て城攻め廿日計ありて、大納言殿より谷忠兵衛を召出され、御手を入れらるる。則ち忠兵衛を御使に仰付けらる。その諚に、兎角一の宮・岩倉この両は如何様共攻めほすべし。その後は南郡牛岐・海部の城ヘ差向ふべし。元親事西国に並びなき弓取の事候条、定めて南郡の節所へ引請け一戦せらるべし。縦この度の軍勢を悉く打ちしたまるると云ふとも、追々手遣あるか、又は御馬を出さるるか、之あるべく候。連々御国元近くなりての御扱は御存分にもならず、結局御六ヶ敷御座候半間、今、岩倉・一の宮両城落去致さぬ先に降参候はば、且は御強み、且は御忠節にもなり候べし。是非とも先づ任せ置かるれば、御満足に思召さるべしと仰含めらる。忠兵衛羽久地へ罷越し、元親卿へ御諚の通、申聞かし候。爾処、元親卿以ての外腹立し給ひ、惣別籠城する者の役には、実叶はざる段には腹を切るが習に候。如何様大納言殿にたらされ、元親に異見つらをすると見へたり。一の宮の城七つの丸を、四つも五つも切崩され、本丸までになりたりとも、籠城の者共、命を助かり候事はならず候。この城へは譜代の侍を、三百人勝て定番に遣し候つる事は、加様の時の為にてこそあれ、已に預州の金子は家之者にても之無きが、毛利殿に攻めほされ、腹を切りたるをば聞かぬか。彼れ四ヶ国の中にて侍の義理を遂げたる者は、この金子一人に帰したり。はやこの期に至りて、金子恩を報ずべき様なし。縦岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許に詰候つる軍兵、又国元の人数打震ひて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表へは御働を相待つ筈なり。野根山限りになりたりとも、本国迄の降参はならざる事案の中なり。西国にての弓矢取と名を得たる元親が、一合戦もせで、やみやみと無るべき事の義、尸の上の耻辱たるべし。骨は埋むとも、名をば埋まぬと哉らん云ふなり。をのれめらが存分とは、天と地の違ひたり。忠兵衛それ程の未練者と思はで、城を預けつる事の無念さよ。頓に一の宮へ帰り、腹を切候へとあらけなく宣ひて、既に忠兵衛は面目を失ひたり。され共この忠兵衛と申す者は、武篇旁その隠無きかうへい者にて、その晩に老衆へ罷出で、終夜談合致す。老衆の申様も、元親の腹立も、今この期に至りて尤なり。然れども大納言殿の御諚の如く、本国近くなりての御扱は、無了間での降参たるべし。今、両城堅固の内、結局物強て然るべく候はんと、惣様の口同前なり。忠兵衛を留置き、三日老共、元親ヘ随分窺ひ、御内証御談合申す。兎角大納言殿へ任せ置かるる筈になる。(⇒に続く)    (太閤様に降参の事;巻之中)

 

 

 

 

土佐物語・・・・爰に香宗我部安芸守親泰は、海部の城に居て、渭山の城主吉田孫左衛門康俊が許へ人を遣し、敵は猛勢なれば、味方の小勢を、諸方へ分けて宜しからず、一所にて軍議を談ずべし、早く此方へ参られよといひ遣しけるが、木津の城早攻落されぬと聞えければ、迚も叶はじとや思はれけん、土佐國へと落ちられける。孫左衛門、斯る事とは思ひも寄らず、渭山の城を明けて手勢を引具し、海部へ行きて見れば、人一人もなし。扨は親泰聞逃せられたりと大きに怒りて、城中を立廻り見れば、能く周章てられたりと覚えて、鎧太刀刀旗なんぞ捨ててあり、孫左衛門是を下部に取持たせ、手の者を打連れ、直に土佐へぞ帰りける。斯くて羽久地の城主谷忠兵衛を一の宮へ遣し、江村孫左衛門親俊に力を合せ、羽久地へは、中内善介を籠置かれけり。  (木津城軍の事)

 

 

 

 

土佐國編年記事略・・七月中旬、後ニ渡海シタル甲斐(ママ)ノ兵トモ、牟岐ノ城ニ向ヒ、其夜一城ニ陣ヲ居ヘ翌日牟岐ヘ向ヒ外郭ヲヤフリ、近里ヲ放火シテ一宮ノ軍兵ニ加ル、牟岐城ハ香宗我部親泰カ城ニシテ、小勢ヲ以之ヲ守、岩倉ノ城陥ニ及テ此城亦走、吉田孫左衛門亦渭ノ山ノ城ヲ棄テ海部ニ退ク。(以下注釈:吉田家由来書ニ、大和大納言四国責ノ時、孫左衛門ハ親泰ノ手ニ付ケルガ、親泰仰ニハ、寄手大軍味方小勢、合戦仕難シ、土佐ノ本城江ツホミ然ルベシトノ玉フ、孫左衛門申ケルハ、上方勢ノ手立モ見ズ引取候事然ルベカラズ、一戦遊サレ候コソ然ルベシ、左モナク御引取アレバ、元親公ノ御心ニ叶間敷、兎角御引取アルベキナラバ、元親ヘ御窺然ルベシと申、親泰用ヒズ、其夜引ノキ玉フ、孫左衛門参ケレドモ、ハヤ一人モナシ、コトニ物具共取捨テ有ケルヲ、孫左衛門取集メ、跡ヨリ土佐ヘ帰リケルナド有ニ據、天正記ノ文サダカニ聞トリ難シ、マツウキト有ハ牟岐ナルベシ、其ママ一ショウニヨセト有ハ牟岐ノホトリニ有ル明城ナルベシ、能日ハ翌日カ、又長僧カヘガ為シヤウト有ハ、親泰本名香宗我部ナレドモ、佗ニテハ長宗我部トモイヒシナルベシ、扨此ニテミレバ、親泰ハヤク牟岐ニハ在城ナク、手勢少々入置レタリト見ユルハ、吉田家ノ説ノ如ク、取急ギテ退レシガ、思フニ、親泰ハ左程ノ臆病仁トモミヘネバ、大軍ニ対シ利害得失等ノ考計有テノ事ナルベシ、且天正十二年八月十八日、瀧本寺榮音ガ金子備後守ニ與ル書ノ中ニ、方角ノ御聞合モ此節ニテ候、万々御心遣肝要ニ候、連々急度仁體一人差越ラレベク候、追々談申スベク候、其表人数渡候ハ、親泰早々打出ラレベク候、其内此方ヨリモ一人ハ礑ト有仁申付られ候、トモ見エテ、金子後巻ノ手当ニモ配リ置レシトミユレバ、其為ニ早ク土佐ヘ引取レシモシルベカラズ、シカルヲ、孫左衛門ガ武功ヲ強ク言立ントテ、其軍将ヲ臆病人ニナシタルハ、却テ匹夫ノ勇ニ代リ、将略ヲ知ラザルニ似タルカ、又按、長元記岩倉落城ノ次ニ、此如クノ首尾故、阿波讃岐両国ノ小城共悉ク開退也トアレバ、牟岐渭ノ山ノ城モ、此時明退キシコト明白ナリ。)

 

 

 

           一宮城の籠城が続く7月中旬、羽柴秀長は先だって秀吉への使者を務めた谷忠澄を呼び出し、再度、元親ヘの降伏勧告の使者となるよう要請する。忠澄はもともと神官であり、こうした折衝の能力は毛利氏の安国寺恵瓊や北条氏の板部岡江雪斎のように口達者なだけに双方にとって好都合だったのだろう。元親がすんなりと降伏勧告に応じるとは思えないので、その剛直な怒りを吸収できるような柔軟な才を忠澄に期待したのである。案の状、元親は烈火の如く怒り、再び腹を切れとまで捨てゼリフを吐くがその言い分は至極尤もで、さすがの忠澄も一言も言い訳できない理路整然としたものであった。一宮城も岩倉城も全滅するまでは降伏するべからずという主張は、スターリングラードのヒトラーやインパール戦の牟田口中将と同じく、兵站線の延びきった拡大戦線での撤退を一箇所でも認めると雪崩を打って全線が崩壊する恐れもあった訳で、己の面子のためにあたら多くの人命を失ったという批評家の非難とはうらはらに軍略的にはある程度、要を得た主張であったと受け取ることはできる。おそらく撤退を開始すると土佐国境での防御線など何の意味もなくなり長宗我部家の滅亡を招くことは元親自身が一番わかっていたであろう。さらに土佐とは縁の薄い伊予の国人衆でさえ野々市原で小早川軍と死闘を演じた末に全滅した一報(⇒❡)が元親まで届いていただけに、なおさら譜代がすごすごと降伏撤退することなど後々までの恥辱で心情的にもあり得ないことであった。とは言うものの、讃岐や阿波の諸城の情勢が絶望的にありつつある段階では進むも引くも地獄の状況で、白地城が伊予境と阿波上郡から夾撃を受ければ、土佐ヘの撤退路が難所なだけに雪隠詰めになるのはすでに時間の問題であったともいえる。10年以上もかかって成し遂げた四国平定が僅か2ヶ月余りで水泡に帰するのは耐えがたい現実であったとは思うが、ここで降伏勧告を受け入れなければ肝心の本国自身も破滅してしまうので、冷静になって再考した上で家臣の忠告も聞き入れ、苦渋を舐めつつも秀長の降伏勧告を受諾したのである。一方、交渉を任された忠澄は、元親にあれだけ怒りをぶちまけられれば白地の片隅で詰め腹を切るのが武士の意地でもあるが、そうせずにしぶとく家老達を説得するあたりは、やはり武将というよりは有能な官僚ネゴシエーターであったとも評価できよう。

           さて、この交渉と前後して牛岐(「土佐國編年記事略」の通り牟岐かも・・いずれも親泰の配下であった)を守る香宗我部親泰の異変を「土佐物語」は伝えている。親泰は渭山城の吉田康俊に味方が分散していたのでは秀長の大軍に太刀打ちし難いので牛岐に来るように要請したが、早や木津城が陥落したことを聞いてそそくさと牛岐を放棄してしまい、康俊が牛岐に到着した時には既にもぬけの殻で、さらに海部城まで来てみるとここにも一人もおらず武具、鎧まで散乱したままであったという。土佐まで逃げてしまった親泰の不甲斐なさをおおいに怒りながらそれらを片付けて本国に引き揚げたというのである。立腹しながらも親泰が蔑まれないよう後片付けしてゆくあたりは、さすが家老の務めをよく弁えた行動であるが、「土佐國編年記事略」の註釈では、逆に親泰が単独で撤退したのは軍略によるもので、「一戦もせずに引くのは元親が許さないであろう。」という康俊の言い分は匹夫の勇であると非難している。さてさて真実は何れかということになるが、元親は忠澄に「信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、香曽我部親泰と相議して上方の兵を海部表へ引かけ一戦し」と作戦を披露しているので、海部表まで無人になっているというのは親泰の分の方が悪いとしか言い様がない。もし、逃げたというのなら木津城を放棄して土佐に帰った東條関之兵衛ともいわば五十歩百歩で、片や切腹、片やお咎めなし、というのでは身内贔屓との誹りを免れることはできないのだが、元親が最も恐れていた前線の安易な降伏撤退のきっかけを作った東條の失態は万死に値すると裁断されたのかもしれない。いずれにせよ、元親の構築した防御ラインも未だ大軍が至る前(前哨戦はあったようだが・・)に、味方同士の意思疎通さえままならず、すでに内部崩壊していたことを示す逸話として非常に興味深い。

 

           下の錦絵は明治16年発行の錦絵「豊公四国征討図」(楊州周延画)。向かって右に加藤清正、左に長宗我部信親、中央の馬上の人物は豊臣秀吉である。講談の上の創作ではあるが、万が一、秀吉の動座が実現しておれば、秀吉の近習として清正も四国入りして、このような華々しい一騎打ちが行われていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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