南海治乱記・・・(❡より)さて、木津の城落居の後、大和秀長は一宮城へ取懸り攻玉ふ。三好秀次は岩倉の城ヘ取かけ玉ふ。一宮の城は江村孫左衛門、谷忠兵衛両人にて是を持つ。或時、横山隼人と云ふ者の持口は藤堂與右衛門尉高虎の攻口也。高虎仕寄を附け寄る所へ横山鎗を取て塀の手を飛越へ高虎の胸板を一鎗つく。多兵つつき来て隼人を撃んとす。隼人難なく仕払て城内へ飛入る。和睦の後ち、高虎より隼人を呼出し対面ありて其の擧動を感ぜらる。・・・(⇒❡に続く) (羽柴秀吉公、四国征伐記;巻之十四)
元親記・・・・・(❡より)木津の城相済み、一の宮の城へは大和大納言殿、岩倉へは三好孫七郎殿御手当なり。一の宮の城は江村左衛門・谷忠兵衛両頭にて持ちたり。この城攻めの内に、横山隼人と云ふ者の攻口の丸は、藤堂和泉守攻手なり。和泉守仕寄の所ヘ付けられ候を見付け、隼人塀を越飛びて出で、和泉守が胸板の辺を一鎗に撞(突)きたり。大勢続合ひ、隼人を討捕らんとひしめいたり。隼人難なく仕払ひて城の中へ引取りたり。和談の後はこの隼人を呼び出し、和泉守見参せられしとなり。・・・(⇒❡に続く) (太閤様へ降参の事;巻之中)
阿波国徴古抄・・其比、一宮を土佐より持居申候所、秀吉公大軍を以て御攻候とて、上方勢下る趣相聞へ申すに付、国中の侍共一宮へ籠り候。其時に矢野市之助も籠城仕、然るに上方勢の内、大和国筒井順慶の縨(ほろ)の衆拾弐人、其内に高畠左兵衛も右縨の侍の内にて下り、一宮の城を取巻候所、輙く落申ずに付、数日を経て落し申べしとて、或は鹿狩川狩、又は遊び舞様々にて、慰み自然にほし(欲し)と相見申候。其時矢野市之助兄の高畠左兵衛、市之助籠城の由伝聞、城中ヘ箭文を射越候、意趣は、夫に籠居候の由、我等も此度は寄せ来候、武士の家名重きは常にて候。誉を残す事第一に候、必嗜おくれを取り申ず様に、互にはげみ申すべしとの文にて候。其後又文を射越候は、城内に犬有り候はば貸し給候へ、狩場の慰に仕度候由申越に付、左候はば一疋貸し候へと、城中より灰毛の犬貸申候。寄手の為躰、幾年も落城迄は引べく候とも相見え申ず候へ共、城中の者共退屈し、兎角噯(あつかい)を入和談し城を渡し申べしとて、噯になり城を渡し土佐へ引申候。夫より阿波国秀吉公御手に属し、籠城の士ども、本所へ引退申候。此時、左兵衛、順慶に少暇を乞ひ、犬などを引かせ矢上村に趣、身も暫く矢上に休息し、大和国へ登り順慶に随ひ居申候。右犬は市之助方に残置候。 (矢野氏覚書より)
秀吉事記・・・・其威を以て一宮の要害に押寄せ四方八面屯を成す。彼の城郭は良将を相栫へ、久く保つ所也。之に依て人数の翔り自由にして、官軍も急に近き難し。行を以て之を攻て日を送る。殿下(秀吉)是より先き馬を出さず、師を行ふ事なし、故に心許無く思ひ給ふ。北国の道(てだて)を為んと悉く触れ残し置く人数を相て、御動座有るべき由を相定め、七月三日初夜一番螺に相拵へ、三更二番貝に兵粮を使ひ、五更三番貝に首途(かどで)の刻り、早舟にて尾藤(知宣)使者として著岸し、一書を捧げて台覧に備ふ。其状に云く、
秀長謹みて言上す。抑々此度四国征伐之事、御代官仰せ付けられ渡海せしめ、阿州・讃州に人数を賦り、時日を移さず敵城所々存分に任さらるるの條、天下の面目何事か之に過んや、然と雖も残党未だ散ぜざるの處に、急度御動座有るべき由を承り畢んぬ。驚き奉る者也。秀長、弓矢の力足らずに依て、此の率土の濱に至り、御進発の儀併て御威光少きに似たり。某も亦当座の恥辱を招く。縦ひ日限を送ると雖も、盍ぞ御本意に属せざらんや、希ふ所は、御動座を止められば、秀長忠勤に励み、戦功を終るに於ては、一世の大慶、全く御憐愍為るべき者哉、仍て此等の趣、宜くご披露に預るべし。 誠惶謹言
七月二日
細井中務少輔殿
則ち披見を遂げ、御動座を止られ畢んぬ。・・・
蜂須賀家記・・・五月、阿波に入る。秀長に従ひ一宮城を圍む。久米義昌(四郎左兵衛)、公(正勝)に説ひて水道を絶つ。(義昌の父は安芸守義広と曰ひ、名東郡芝原城主、長曽我部氏(自注;三好氏の誤り)の滅する所となる、義昌遁れて播磨に如き公に従ふ。公、義昌を以て嚮導と為す。功を以て百五十石を禄す。)・・・
木津に集結した秀吉軍のうち、羽柴秀長は4万の軍勢を率いて一宮城の攻略にかかった。属する諸将は蜂須賀家政、藤堂高虎、明石(将監)則実、増田長盛など錚々たる面々である。これに対して守る土佐方には北城の江村孫左衛門親俊、南城の谷忠兵衛忠澄ともに元親の懐刀の軍将である。土佐軍は2千にも満たない少勢であるから当然ながら籠城の策を取り鮎喰川を挟んで秀長軍と対峙した。牛岐には香宗我部親泰も控えているので南からの援軍を期待したいところだが、その手当も秀長はしっかりとできており、別働隊が牛岐を包囲攻撃したために一宮城も孤軍奮闘を余儀なくされたのである。しかし、大軍を以てしても一宮城は数度の合戦を生き抜いてきた名だたる名城だけあって中々抜くことができない。土佐方の横山隼人が塀の内から飛び出てきて藤堂高虎の胸板を鎗で突くなどの小競り合いはあったものの、籠城は5月から7月に及び、2ヶ月経っても落ちそうな気配は見せなかったのである。至近距離で向き合う緊張感とはうらはらに「矢野氏覚書」(阿波国徴古抄)は、至ってのんびりとした逸話を伝えている。登場する高畠左兵衛と矢野市之助は兄弟で、かの矢野駿河守国村(⇒❡)の甥、矢野備後守の次男と三男である。左兵衛は秀長軍、市之助は籠城軍に属していたが矢文を通して塀越しに通信し、余りの退屈さに市之助が狩猟用の犬を左兵衛に所望し「それなら貸してやれ。」と城中から灰色の犬を一匹借りることができたというものである。籠城ともなれば犬といえども貴重な食糧で敵に貸すなどとんでもない話であるが、お互い同村の顔見知りも多いことから敵味方を忘れて余興に興じる姿はまことに微笑ましく、殺伐とした戦国の世に一服の清涼剤のような清々しさを今に伝えている。
とは言え、籠城が長引くことは越中平定(⇒❡)を控える秀吉にとっては不安材料で、自らの四国渡海を秀長に通告するが間一髪で秀長の(弁解の)書状が届いたためしばらく見合わせることになった。一方の秀長にとっては面子を保つ意味でも一刻も早い一宮の開城が求められ結構焦りを感じて金堀師に地下道を掘らせてみたりもしたが、このあたりの岩質は結晶片岩で堅くおそらく困難であったと考えられる。ところが朗報は意外なところからもたらされる。蜂須賀正勝の配下であった久米四郎左衛門義昌が勝手知ったる?一宮城の裏手から水源地のある「水手丸」を占領して城中の飲料水を絶つのに成功したのである。効果はてきめんで城中は渇きに飢え、秀長の降伏勧告もあって遂に開城し守将達は土佐へと去って行った。開城の後、高畠左兵衛は借りた犬を連れて故郷の矢上村に滞在し市之助と旧交を温めたというから、累々と死体の転がる戦場を父の遺骸を求めて彷徨い歩いた“中富川の合戦”(⇒❡)の凄惨さとは比較にならない程の”のんびりムード”であったことが偲ばれる。ちなみに久米四郎左衛門義昌は、「鑓場の義戦」(⇒❡)で戦死した久米安芸守義広の嫡子でその後、赤松則房の家臣となり、さらに蜂須賀正勝に仕えていたのである。この作戦の成功の裏には、同居する土佐勢とは何となくしっくりとこない古参の阿波国人の中に秀長有利の情勢を悟って敵と通じる一派があったことも考慮するべきだろう。
下は井伏鱒二作「多甚古村」の一節。「六の丸城」として一宮城が小説の舞台となっている。鱒二は実際に阿波に来る事なく執筆したので、現実と創作(誤りも含めて)が入り交じって独特の雰囲気を醸し出しているが、ぜひ小説を読まれて文豪の描いた当時の徳島の風景や風俗を存分に楽しんで頂きたい。
『 六の丸城は、本丸、明神の丸、御蔵の丸、水の手丸、椎の丸、小倉の丸の六塁より成り山城に属していた。山城とは山頂を平坦にして城を築き、尾根につづくところどころに塹壕すなわち空濠をつくる。平坦部の城は里城という。口碑には十三の丸または七つの丸があったともいい、いま残るは北城の牙城であるといわれている。城下に、本町、西町、横町、北町、船戸、下町などの地名があるのは昔を物語っている。
その昔、六の丸神社は城山の明神の丸に鎮座していたのを現在の山麓に移した郷社である。平安朝初期の御神像が祀られてある。
六の丸城は初代の城主長房より吉野朝廷に純忠を捧げた謂わゆる山岳武士で勤王方を誇りとしておった。七代の城主成祐は天正十年十一月七日、夷山に於て討死した。天正三年の秋、土佐の長曽我部元親はK方面より侵入、城主東条関久を結婚政策で自党に入れ、七千の大兵を率い成祐を夷山に誘導した。元親は鑓をもって成祐を突いた。成祐の家臣は城山に立籠ったが、元親のため城を焼打ちにされ、城兵は一兵も残さず討死した。・・・
山上には、昔のままに石崖が残っていた。見晴しが無類に上等で、遠く西の方の平野に大きな川が流れ、街道には荷馬車やバスが通っていた。東の方は海である。
神主は山麓に見えるこんもり茂った森を指差して「あしこの、田の中に森が見えるでがしょう。森のなかに赤い華表が見えるでがしょう」と云い「あしこの森が、この山城に対し本城の里城でがした。あのお社の横にまわっている用水堀が、昔の内堀だったそうです。お社の東にある小川の橋のところが舟戸でがして、舟着場の石段が川に残っています。この山の麓には、西町、北町という地名もありまして、しかし今は田畑のなかにあります。実に、国破れて山河ありでがすな」と神主は咏嘆した。
微風が神主の白衣をなぶり、彼は私のために親切に説明したが私は次第に退屈になって来た。明神の丸にあがると山上は平坦になって、昔はここにも城砦があったということである。すでに神主は感傷的になっており「ここに沢山の戦国武士が立ち、それから坐り、話をしたり笛を吹いたりしたのかと思うと、まるで夢のようだすな」と云い、そうして彼はお蔵跡の小石の散らばっている地面をステッキで掘り起し、黒くなった一粒の麦を拾って見せた。麦のくびれたところがはっきりと見え、それは土に埋まったまま何百年後の今日まで一粒の炭となって残っていたものである。私も感慨無量であった。・・・ 』
(左は一宮城包囲図。右は一宮城の拡大図。航空写真は国土地理院(昭和39年)を使用。拡大は画像をクリック!)
上左の包囲図は、「阿波古戦場物語」(鎌谷嘉喜著;教育出版センター 平成10年)を参照にした。久米義昌の進軍経路はあくまでも推定である。上左は一宮城の拡大。現在、本丸の石垣や石段などの遺構は蜂須賀時代のものである。才蔵丸は一宮氏の家臣の小田才蔵、小倉丸は同じく小倉忠吉が守ったのが名前の由来と伝えられている。