南海治乱記・・・阿波の国は蜂須賀阿波守家政に賜ふ。此国は土佐元親、讎寇の国なれば土民百姓まで恨まずと云ふことなし。土州の兵を退治せしを悦び一時に服従して譜代の国民の如し。家政慈愛深ふして其国中に山士、兵衆、百姓の三品に分ち、山士には世々持衆れる所の山邑を賜て安堵せしむ。国中兵士の血脉の者をば奉公人筋として事有る時は軍兵に従しむ。田夫の筋は百姓筋として事有る時は夫馬の役を勤しむ。平常の交にも其家貧窮也と云へども奉公人筋の者は上座す。其家福徳也と云へども百姓筋の者は下座す。是れ家政の故家旧姓を哀み玉ふ故也。・・・(伊豫讃岐阿波の領主所知入りの記;巻之十五)
四国征討の後、阿波一国は蜂須賀正勝に与えられた。しかし、正勝は老齢を理由に大坂から下向せず、嫡子の家政が実質的な支配者になったのである。「蜂須賀小六正勝」(渡邊世祐著 雄山閣 昭和4年刊)には「・・秀吉にとっては正勝の功績は偉大なものであったので、秀吉はその身が旭日昇天の勢で進展するのに考え、正勝にも報ずる所あらんとした。それで窃に前田玄以をして正勝に話さしめたのは、やがて四国征伐が済んだならば、龍野城から阿波一国に封じやうといふ内意を告げしめた。・・(渭水聞見録、阿陽忠功伝)」とあり、征討以前から阿波が与えられることはあらかじめ秀吉と談合ができており、それ故に一宮城攻防においては家臣の久米義昌に水の手を絶たせて突破口を開く抜群の働きをなし(⇒❡)、小野寺一族に長宗我部親吉の情報を伝えて栂橋で襲わせるなど(⇒❡)、戦後の統治に向けて着々と布石を打っていたのである。阿波は長宗我部侵攻に蹂躙されて民衆は疲弊していたので新しい領主を国を挙げて歓迎したと楽天的に記されているが、仁宇谷や祖谷山などではなおも抵抗が続き、唯でさえ山間部が大部分を占める国柄とも相まって統治には相当の前途多難が予想されたのである。山岳地帯はどこが国境なのか必ずしも確定されておらず、例えば祖谷山の久保氏と土佐韮生の久保氏はもともと出自が同じで国境を越えての結束も強く、ある一族は長宗我部氏に協力しあるいは三好氏や十河氏の家臣になるなどしていたので、他国者のうえに野党上がりの蜂須賀何する者ぞ!という気概もあって四国征討後も緊張状態が続いたのであった。
そこで家政はまず直臣を派遣して臣従するよう説得したが、代々、那珂郡仁宇谷を支配する湯浅対馬守は命に従わないばかりか、あろうことか派遣された梶浦与四郎を殺してしまったので、家政は山田宗重に軍勢を与えてこれを鎮圧した(⇒❡)。祖谷山も兼松惣左衛門を派遣したが、やはり山道で巨岩を落とされて惨殺されてしまった。(その場所は有名な「ションベン小僧」の近くで今も「代官アレ」の地名が残されている。)しかし広大で地形が複雑なだけに力攻めにすることもできず、こうした場合は敵と味方をまず分断し、味方に山道を先導させて敵を追い込むのが得策と考えた狡猾な家政は、小野寺一族を用いて“諸役免除”などを餌に粘り強く懐柔し、どうしても従わない抵抗勢力は討ち滅ぼして、毒は毒を以て制する形で6年の歳月を要してようやく天正18年に祖谷山の統治に成功したのであった。このあたりの経過は「四国山地における蜂須賀氏入部反対運動」(丸山幸彦 「奈良史学」24号.2006)に詳しく考証されているが、抵抗勢力の影でなおも失地回復を画策する長宗我部氏の蠢動があったと指摘されているのは興味深い。
その後、祖谷山は小野寺北家の六郎三郎(喜多源内)が政所として絶対的な支配者となったが、「山士」と煽(おだ)てられつつも民衆は生涯一度も米を食することもないような貧困に喘ぎ、山地だけでなく阿波全土に亘って「南海治乱記」に記されるような身分制度の厳しいお国柄が250年間以上続くことになったのである。
下図は「阿波九城」の配置図。家政入国の後、各郡の代表的な城を改修して譜代家臣の郡奉行(郡代)を置き阿波支配の拠点とした。郡代はすべて尾張時代からの股肱の臣で阿波国人はひとりも含まれていない(⇒❡)。一国一城令の施行で、寛永15年(1638年)までに徳島城を除いてすべて棄却された。
(白地図は「旧国旧郡境界線図」を使用。拡大は画像をクリック!)