南海治乱記・・・天正十三年の夏、四国征伐有て伊豫・讃岐・阿波三ヶ国を諸将を分ち賜ふ。伊豫の国は小早川隆景に賜ふ。隆景は中国八ヶ国の威勢を以て国 中に徇(ふれ)て曰く、当国は秀吉公より隆景に賜る所也。国中の城持各退去すべし。当家に陪従の望あらば扶助を加べし。公儀に訴訟あらん者は取次で得さすべし。居を去んと欲する者は路を開て得さすべしと也。国内の諸姓来服して一時に兵革止む。・・・(伊豫讃岐阿波領主所知入記;巻之十五)
秀吉の四国征討の後、伊予のほとんどは小早川隆景に与えられた(⇒❡)。これは征討前の談合で隆景が伊予の領袖を強く望んだからである。秀吉は毛利一族の勢力が四国にまで及ぶのを必ずしも快くは思わなかったが、四国征討の中でも特に難渋が予想される大国伊予に万全を期すためにも毛利家を束ねる隆景の力を頼るしかなかったのである。最初は輝元の要請に素直に従わなかった隆景も、この談合が成功するや号令一下、怒濤の如く伊予を平定してしまった。東予の石川・金子連合軍を野々市原(⇒❡)に全滅させた隆景軍は、続いて河野通直の籠もる湯築城を包囲したが、通直が隆景の降伏勧告を受諾したので大きな戦闘もなく伊予一国三十五万石は隆景の支配下に収まったのである。河野家は従来、毛利家との親交深く、村上水軍を通じて小早川家とも懇意なので、そのうち秀吉への取りなしが行われて御家が再興できるものと期待していたが、秀吉は用を為さなくなった旧家の処遇には極めて冷淡で隆景を筑前へ“栄転”の名目で転封させるとともに、通直は新しく湯築城の城主となった福島正則の命で伊予を退去させられて備後竹原で隠居、その翌年の天正15年に24歳の若さで失意のうちに死去した(⇒❡)。あるいは自害したとも暗殺されたとも伝えられている。通直とともに降伏した黒瀬城の西園寺公広(⇒❡)も天正15年に新しく領主となった戸田勝隆(⇒❡)によって誘殺され、ここに伊予の二大名族は見捨てられた形であえなく滅亡したのであった。
河野家を亡ぼされた旧臣達は憤懣やるかたなく、天正20年、秀吉が朝鮮征伐のため肥前名護屋城に趣く途中に三原で停泊する情報を掴んだ面々は三原八幡原に潜伏し襲撃しようと目論んだが、悲しいかな、事前に露顕してすべて誅殺されたという。いわゆる「三原八幡藪事件」である。加担した者は得能備後、和田左衛門、栗上因幡、土居兵庫父子、松末美濃守ほか三百余人であったといい、その五輪塔群が今も野串の山林に空しく残されているという。(「河野氏滅亡と周辺の武将たち」別府頼雄著;平成9年発行 を参考にしました。)
関ヶ原以後、伊予は数区画に分断され、河野氏の復興も叶わないままほとんどが他国者大名によって統治されて幕末に至るのである。
(湯築城付近の空撮。中世居館の趣きがよく残る。航空写真は国土地理院(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)