南海治乱記・・・軍を揚る事は糧食運送を専要とす。其の功者を撰んで其の職掌せしめずんば有るべからずとて、宮木長次郎、吉田清衛門、建部壽徳、小西立佐四人に命を賜て諸国浦舟を聚め粮米十万石先達て赤間が関へ指越し段々運送懈怠無きやうに定らる所也。
京都御留守居五畿内の警固には羽柴中納言孫七郎殿に兵衆三万人を附て残置き玉ふ。其の警固には三河侍従在京也。九州御供の国々は山城摂津和泉紀伊伊勢美濃尾張若狭丹後越前越中加賀能登丹後播磨淡路十七ヶ国の軍勢十万餘人と聞へける。
関白殿下三月朔日御進発也。御前備衆の頭は羽柴左衛門侍従、羽柴河内侍従、有馬刑部法印、津田隼人佐、生駒主殿頭、稲葉兵庫頭、坂井儀太夫、牧村兵部大夫、蜂屋大膳大夫、市橋下総守、柘植左京亮、古田織部頭、瀬田掃部頭、上田佐太郎、矢部善七、池田久左衛門、稲葉右近、松下加兵衛、高木八郎左衛門、御弓鉄砲頭は生熊源助、野村内匠、伊藤彌吉、宮木藤左衛門、鈴木孫市、木村彌市右衛門、大島次郎八、木下與右衛門、舟越五郎右衛門、御脇頭は羽柴陸奥守、山崎志摩守、羽柴出羽守、羽柴三郎兵衛、徳川三河侍従、水野宗兵衛、長谷川甚兵衛、木下式部太夫、御後備頭は富田左近将監、奥山佐渡守、津田大炊頭、丸毛三郎兵衛、糟屋内膳、池田備中守、間島彦太郎、青木宗右衛門、戸田半右衛門、寺西次郎助、加藤主計頭、片桐市正、河尻肥後守、佐藤才次郎、古田兵部少輔、大塩與一郎、竹中吉助、早川主馬頭、木下清兵衛、生駒仙御馬廻り丈夫に立られ一夜一夜の御陣取と云へども先陣の衆として結構に御普請有りて壁壘堅固なり。。大軍群集の形勢目をおどろかす所なり。
路次いそがせ玉ふ故に三月廿八日に長門の国赤間が関に着せ玉ふ。森勘八、森兵吉、船奉行として諸国の大船を揃へ一度に曈(どっ)と関戸を越玉へば天地も響て夥し。九州の者ども耳目を驚し脚立もなく行迷ふ。豊前国右馬が嶽、長野三郎左衛門が搆に至て御陣を居させ玉ふ也。豊前国巌尺の城は秋月種実が家臣、隈江越中守、芥田悪六兵衛が守る所也。此の城の押として羽柴孫四郎(本姓前田)、羽柴忠三郎(本姓蒲生)を指向らるる。其外の先衆は筑前の大隈の城へ取懸攻落し御陣に普請すべき由仰出され、大隈の城兵、大軍の向ふを聞て城を捨て秋月に帰る。関白殿下、巌尺の山下に御陣を寄せられ御下墨有て孫四郎、忠三郎両手として攻落べしと有て羽柴少将を撿使として相加へらる。彼の巌尺の城は山高くして林木生茂り険阻第一の要城なり。四月朔日払暁より攻寄ると云へども人衆の群る所へは石弓を落かけ輪木を転はす故に攻寄せがたくして終日攻戦とも落ず、殿下も西国の物初なれば大事に思し召す處に、城兵大隈の城の落たるを見及び、秋月の中間を絶ては持ち難き事を知り間道より落行く。城中に人なく成て申の刻計りに攻入る。退き遅れたる者どもを切捨て城中を放火す。殿下、快悦し玉ひて三将に御感書を下されて都鄙の面目を施し玉ふ。兵士、谷野與右衛門、高木助六、関小半先登として比類なき手柄なる故、御感書を下さるる也。四月二日に豊前豊後筑前三ヶ国の境に彦山と云ふ山寺あり。切所なる故に逆徒楯籠ると聞へれば御後備衆の内、富田左近将監、奥山佐渡守を大将として一万餘人山中に攀登り門前に放火す。寺中の山伏ども御歎き申上るに付て御赦宥を蒙り先規の如く立置れて安住す。此勢を見て端々の小城持ども皆退散す。
殿下、筑前の州、大隈の城を御陣城として御入城あり。樓、井樓三重に組上げ腰板を打ち、白壁を塗り、西国にては国数を持たる大名の居城にも是ほどの結構なるは未だ見ずして目を驚かす。御供の軍勢は嘉摩・穂波の二郡に充満して駒の立つ所もなかりければ、秋月種実、其子種長父子、古所山の城より見渡して肝を寒(ひや)し兵革を止て肩衣、袴を著し嘉摩郡芥田と云ふ所の広畑に出て御出馬を相待つ案内を申上げ楢葉と云ふ天下の名物の茶入を奉献して御礼を申上る。殿下、御対面あって先非を御赦免あり。島津退治の御先手に加らる。
四月四日、秋月城居城に御陣を移され秋月の府より艮に方て荒平と云ふ山を御陣所として五三日の御留也。然る處に筑前筑後肥前肥後壱岐対馬五島平戸島主まで人質を進上して御方人に加りける。参候の大名は肥前龍造寺政家、豊前香春岳の城主高橋右近大夫元種、麻生與次郎鎮貞、原田弾正鎮種、長野三郎左衛門尉、立花左近将監統虎、杉十郎、連波安心院、草野十郎、城井弾正鎮房、佐田宝珠山某、宗像大宮司、豊前中八屋を始として御方人に加り陣中に市をなす。然して大隈の城に早川主馬助、秋月の城には生駒雅楽頭を入れ置る。
四月十一日、南の関に御陣を移さる。肥後の内、高田の要害に島津家新納武蔵守居住の由、高聞に達しかば先手の諸将数万人を以て急度押詰め攻干申べき由にて指遣さるる處に、武蔵守是を聞て其の夜明退く。殿下、南の関に一日御逗留有て肥後の内、小代伊勢守が居城、筒が嶽と云ふ城を取立て河尻肥後守を警固として指置るる。十三日に高瀬に至て御陣替あり。隈本の城には(菊池か赤尾か)十郎太郎、楯籠る。同日、先手の諸将取詰る故、降参仕る。即御赦免有て城を請取り普請仰付られ四月十六日に隈本に御入陣、警固として富田左近将監を入置る。同十九日、宇土の城に御入陣、加藤虎之助を入置る。廿一日、高塚、関城、八代三ヶ所の城を明け退く。追討ち切捨て其の数を知ず。其日、八代に至て御著陣、暫く御逗留有て此邊の仕置仰附られ、寺西次郎助、警固として指置るる。
五月五日、薩州の内、仙台川の口、泰平寺に御著陣也。然して千代川に舟橋を懸させ先陣の諸将、段々に押入り鹿児島に向て在陣也。其時、日州の中納言殿より使者来て曰く、島津家老伊集院勾勘と云者、中納言殿の御陣へ走り入り、島津こと一命を御扶け下され候へと段々歎き申處、不便(ふびん)の至に候、赦宥有べき由達て御希黙止がたく仰らるる故に御免を被る也。五月八日、島津修理大夫義久、思ずも剃髪し染衣の姿と成り磔木を金塗にして持せて泰平寺に馳来り先非御赦免の御礼申上げ、若し違却の思召あらば此の磔木に懸らるべしと演説す。此段、高聞に達しかば、殿下御感有て即謁見をなさしめ玉ふ。諸将列座の末に義久を召出す。関白殿下、其日の御束帯は異躰の形を用らる。金襴の光々たる束帯に金の立烏帽子に唐紅の鉢巻し大紋の緞子の幔幕を打揚させ白柄の長刀捕て帳台を出させ玉へば、島津義久参じ候と披露す。殿下詞しての玉はく(曰く)、義久は日本一の大剛の大将也。今度、天下の命を重しとして参候せし事、千秋万歳の始め目出度し、本領薩摩の国、安堵の事相違なし。時の褒美として此の長刀を賜ふとて手づから下し玉ふ。義久、此の一言に感服して涙を流し日来の野心忽ちに消滅し、哀れ、此君に死を致て忠を盡さんことを思ふと也。主将の法は務て英雄の心を擥(と)ると云ふは是なるべし。即御朱印を賜て鹿児島に帰る。
殿下、即鹿児島に入り玉ふべし、義久帰入て饗応の粧ひすべしと仰せあり。義久、即安国寺に従て申上るは、薩摩州は田舎の果にて中々見苦しき所にて候。其上、山間険阨の地にして広平の所なし。此の大軍入陣あらば難儀に及び玉ふべき也。国中も又馬蹄にかかり亡所となるべき也。御用捨に預り候へかしと希ひ申されければ、殿下聞し召し、尤もさぞ有んとて止め玉ふ也。義久の弟三人は兵庫頭忠久、左衛門大夫俊久、中務大輔家久也。家老には伊集院右衛門大夫(又、勘解由ともあり)、平田美濃守、和田下総守、島津図書頭、大橋伊勢守、町田伊賀守、野村兵部丞、七人人質を進上申す也。此時、琉球王、使者を指越し色々の官物を献じて御礼を申し上る。朝鮮王より青鷹三聴献じて御礼を申し上る。海外の諸州まで来服して御威光を仰ぎ奉る也。
日向、大隅の内に人質を出さざる者、端々にこれ有り。兵将を遣さるる次第の事いちくろへば、浅野弾正、戸田民部少輔、毛利壱岐守、前野但馬守、木村常陸介、羽柴左衛門督、羽柴藤五郎、羽柴孫四郎、村上周防守、溝口伯耆守、大田小源五、青山助兵衛、龍造寺並に筑後筑前肥後衆を指遣さる。邪塔院口は羽柴少将殿、福島左衛門大夫、羽柴與市郎、高山右近、中川藤兵衛、羽柴忠三郎、羽柴五郎左衛門、羽柴三郎左衛門、羽柴彦六、林長兵衛、羽柴下総守、羽柴出羽守、羽柴三河侍従、水野宗兵衛以下右の衆、日向の内、山崎の城主、野村兵部丞が構へを請取り普請し御陣所とす。翌廿一日、殿下、泰平寺を御立有て山崎の城に御入陣、次の日、邪塔院口の御陣回ありて山崎に御帰座、廿三日、鶴田の城まで御出有て大隅へ兵衆を遣はされ人質を相定め、大隅、日向平均して薩州新納武蔵守が居城、大口へ寄せらるる處に、先衆に鉄砲を打懸る。先衆より使を遣はし、島津義久、泰平寺に参候し本領を安堵す、何とて違変するやとて大軍押し入るほどに野も山も混(ひたす)らに軍勢充満し、殿下御陣、大口の城二十町ばかりに寄せらるる。武蔵守、即肩衣、袴を著し御陣所へ参り申上るは、島津事手前忘却仕り降参申たること我等に申送ずして今度御旛先に無礼仕り候とて男子を人質にさし上て御礼申上げ平均す。大隅八郡を長曽我部元親に賜ふ。元親辞退する故に島津兵庫頭に扶助せらる。其内一郡伊集院右衛門大夫に賜ふ。日向の国は大友義統に賜ふ。是亦辞退す。五郡の内、一部を島津兵庫頭が男又市郎に賜ひ、一郡を新納武蔵守宗義に賜ひ、伊東の本領安堵す。筑前秋月種実、肥前有馬左衛門尉、居所を日向の国に移し所領を賜ふ。
五月廿七日に肥州水俣へ御帰陣、廿八日にさしきの城に御一宿、廿九日に八代に御帰陣也。是に於て阿蘇宮の神主が居所、山中険難の地なる故に百姓ども楯籠る聞へあり、成敗を加へらるべしとて、浅野弾正、戸田民部少輔、福島左衛門大夫、羽柴與市三郎、高山右近、中川藤兵衛、羽柴忠三郎、羽柴三郎左衛門、羽柴彦六、羽柴五郎左衛門、林長兵衛を遣はさる。山中の者ども人質を出し御赦免を乞ふ故に平均す。夫より隈本へ御動座、中一日御逗留有て、肥後の国を羽柴陸奥守に賜り九州の警固と定め玉ふ。是、面目の至り也。
六月三日、肥後の山鹿、四日筑後の高良山、六日に筑前の宰府安楽寺に御著陣。岩屋古城の麓、観世音寺に御殿を建て御著陣を待つ。七日に博多筥崎に御著府、八幡宮の宝殿を御座所とす。諸勢前後左右に陣取を結搆し諸大名四方に群集してさしも広き筥崎の浜に尺地も残らず満々たり。誠に目出度き形勢、言語を以て述がたし。昔は博多筥崎相続て三方、軒の所なれども近年兵乱相続き戦場の街となりて兵火にかかり亡所となる。今度、関白殿下、竪町十町横町十町に御自身地割を成させられ散在の町人どもを召し寄せて居住せしめ博多再興をなし玉ふ。万人の悦ぶ所也。
島津修理大夫義久兄弟、老中を召し連れ博多に伺候し上方の御供申さんとす。即御暇給って帰国す。小早川隆景、豊後日向大隅の事済み博多に参候す。是に於て筑前筑後肥前三ヶ国を毛利輝元に命じて警固とす。博多の近所、立花の古城の浜手に然べき城地あり。是に普請仰付られ兵粮を入置き小早川隆景に與へ筑前の州并に肥前の内、基郡藪郡、筑後の内、三井郡三原郡を加へて領せしめて伊豫の州に替玉ふ。立花左近将監に筑後の柳川を賜ふ。小早川内記秀包に筑後の久留米の城を賜ふ。鍋島信濃守に龍造寺が本領を賜ふ。肥前大村平戸松浦等、本領を安堵せしむる也。
七日朔日、筥崎を御立あって豊前の州小倉の津に至り玉ふ。小倉は関の戸に向ひ舟津よし要害有るベキ所也。即ち普請仰付られ豊前の内に郡を附て毛利壱岐守に賜ふ。豊前六郡を黒田勘解由に賜ふ。右馬が嶽の城、丈夫に搆へ居住すべきよし命じ玉ひて面目の至り也。
七月三日に門司の関より赤間が関に渉り玉ふ。中納言秀長卿、此所に止て待受け玉ひ御対談あり。西国平均を賀し玉ふ。毛利輝元一献を奉る。吉川、小早川を召し連て御礼を申上る。此君、千秋萬歳を唱ふ。抑も吉川、小早川は毛利家の族となる事、吉川は元南家の藤原にして遠江守の為憲の後なり。為憲八代の孫二郎経義、駿州吉川の邑に住してより吉川を以て称号となす。其子小治郎友兼、正治二年、梶原景茂を討取る。頼家卿其の功を感じて播州福井の庄を給ふ。其孫左衛門尉経光、承久兵乱の時、宇治橋に於て武功あり。之に依りて北條家より芸州大麻本庄二ヶ所の庄を宛行(あてがわ)れる。其子経高、始て芸州に下る。其弟経盛、播州にあり。是より吉川家に流となる。建武の乱に播州の吉川は宮方に属する故に子孫微々に及べり。芸州の吉川は足利家に属するゆへ安芸国の内を領し、世々新庄小倉山の城に居す。経高より九代治部少輔興経子無きに依りて毛利元就の二男元春を養て子とす。又、小早川は坂東八平氏にして土肥の治郎実平の後也。実平の子彌太郎遠平、相州小早川郷に住してより小早川と号す。実平、遠平、鎌倉将軍家に仕へて軍忠あること世の人知れる所なり。遠平の曾孫茂平、北條家の命に依り芸州に下リ沼田の郡に住す。其れより十二代、又太郎正平、元就の三男隆景を養子とす。元就、吉川伊豆守国経の女を娶て隆元、元春、隆景を産む。三人共に軍術に達して元就の助となる。是より彼家の武威益々盛ん也。故に毛利、吉川、小早川の三家と云ふとかや。秀吉公、九州の先手を三家に命じ給ふ時、九州静謐せば筑前の国を元春に給ふ可く約束し給ふといへども、去年十一月、豊前小倉に於て元春卒去の間、今年、筑前を隆景に給ひ筑後を元春の息の元長に給ふ。時に元長、日州都の郡に在て死去あり。之に依て筑後を別人に分ち玉ふ。元春、元長相続て病死の事甚だ不幸と云つべし。元長子無く弟の広家を養子とす。広家、今度赤間が関に於て本領安堵の御礼申上られ黒田孝高内外の取持たり。広家本領は芸州石州の内といへり。此人、父兄の業を続て度々の戦功ありしかば伯耆半国、隠岐一国、出雲の内三郡下し給はって雲州富田の城に居住ありけるとぞ聞へし。
七月四日、下の関御出船也。殿下、大坂の城に著玉へば御供の大名、御留守居の大名群集して城門に駒の立所はなかりし。今度、西国にて高名夫々に恩賞行る。然る処に日向の高城にて宮部善祥坊、陣取に島津中務夜戦をかける時、身方の大軍の内より救かざるは何ぞや、其意聞つべし。善祥坊申て曰く、其夜、敵兵、亀井能登守が陣に攻めかかる。我横合に出て救ふ。敵又、我が陣にかかり来る。我れ固く守て防す。敵、永竹にかぎを附て塀の手に引かけて引き傾け既に乗入んとす。内より鎗長刀にて突き落し払ひ落し、夜中攻戦て掘は死人にて埋みけれども退ず。夜の明るに依て引退く。其時、尾藤甚右衛門陣より横合に出て突き崩すときは是程の難儀には及ぶまじ、身方の敗を目の前に見て救はざることは情なし。余の命を助りて今我もの言す事は幽霊が申すと思召せとて涙を流す。
甚右衛門申上るは、善祥坊由なき申すこと也。島津、大軍を分て重手を作り一陣を攻て脇より助出るときは夫を破て勝を取べきと謀る。我出て敗を取らば君命に耻ん、夜明るを待て敵の退散を見る。是ほどの事を知ずして軍兵を傾るべき歟。善祥坊謂れなき申しこと也、と申しかば、殿下、攻るを好て守を悪み玉へば、夫からが甚右衛門臆病也。敵、重手を作らば其の重手に懸りて打破るべし、重手あらんと怖て救はざるは臆病也とて讃州を召し上らる。尾藤に讃州を賜ることは名ばかりにて一所務もせずして退散す。其次を生駒雅楽頭正規に賜ふ。伊豫の国をば九州にて戦功ある諸将に頒賜ふ。新居の松崎を加藤左馬助、今治を藤堂佐渡守に、松山を福島左衛門大夫、大津を脇坂中務太輔、宇和島を戸田民部少輔に賜ふ。阿波は蜂須賀阿波守、土佐は素より長曽我部元親也。是より四国の領主相定て禄を世にする也。 (羽柴公九州御進発記;巻之十六)
十河物語・・・・偖翌年天正十五年秀吉公九州御進発の時、日向にて宮部善性坊が取手を薩摩衆夜攻め仕りたることあり。薩摩衆、討死したる死骸を見れば、腰に木札をぞ付け、仮名・実名・年の齢まで書付けたる多し。其働き言語を絶せることなり。其時、尾藤、善性坊が隣に有りながら(た)すけ申さず。其上鉄砲の玉薬を善性坊打切り、尾藤に乞ひしかども遣はさずとて、尾藤も御改易あり。讃州は生駒雅楽頭に下さる。偖薩摩勢は年光の城を攻落し、此の長途へ出て、来年まで相待ち、官軍と対陣然るべからずとて勢を討入る。翌年天正十五年、秀吉公九州御進発あり。和睦になり、島津殿本国安堵の御朱印頂戴し玉ひ、九州静謐に相済み候。薩州の内に御蔵入少し有りつれども、高麗表泊州にて島津殿一戦あり。三万八千七百余討捕り玉ふ。秀吉公は御他界なされ、秀頼公は未だ御幼少なれば、御名代に毛利中納言輝元・会津中納言景勝・備前宇喜多中納言秀家・加賀大納言利家・江戸内大臣家康、此五人連判の感状出づ。
今度朝鮮泊州表、大明、朝鮮人猛勢を催し、相働くの処、父子(義弘・家久)一戦に及ばれ、即ち朝敵を切り、三万八千七百余討捕之段、忠節比類無し。之に依り御褒美として薩州之内御蔵入給人分有り次第、一円宛行はる。諸目録別紙之有り。并に息又八郎(家久)少将に任せられ、其上御腰物長光、父義弘へ御腰物正宗拝領せられ候。猶当家御名誉之至也。仍て件の如し
慶長四年正月九日
安芸中納言輝元
会津中納言景勝
備前中納言秀家
加賀大納言利家
江戸内大臣家康
羽柴薩摩少将殿
御蔵入残らず返し遣はされ、息又八郎少将に任ぜられ、長光の御腰物、父義弘へ正宗御腰物拝領せられ、感状に、当家にをひて御名誉の至りとあり。
(白地図は「旧国旧郡境界線図」を使用。拡大は画像をクリック!)
九州征伐後、確定した大名の領土と石高は次の通り。(多少のファジーはご容赦を!)
● 小早川隆景・・・筑前+筑後の二郡、肥前の二郡 37万石
● 小早川秀包・・・筑後の三郡 8万石
● 立花宗茂・・・筑後柳川 13万2千石
● 黒田孝高・・・豊前の六郡 12万5千石
● 毛利吉成・・・豊前の二郡 6万石
● 大友義統・・・豊後一国 41万石
● 龍造寺政家・・・肥前の七郡 32万石
● 大村喜前・・・肥前の数郡 2万石余
● 松浦隆信・・・肥前の二郡 6万石余
● 有馬晴信・・・肥前の一部 5万石
● 佐々成政・・・肥後一国 34万石
● 相良頼房・・・肥後球磨郡 2万石余
● 高橋元種・・・日向延岡 5万石
● 秋月種実・・・日向高鍋 3万石
● 伊東祐兵・・・日向都於郡 3万6千石
● 島津義久、義弘・・・薩摩、大隅二国、日向の一部 56万石
秀吉の九州征伐の経路などについては、「羽柴公筑紫征伐記;巻之十六」(⇒❡)を参照のこと。これに続く上記の「羽柴公九州御進発記;巻之十六」も結構長い文章だが、九州平定の過程を淡々と述べるに留まり、「阿讃戦国史」に直接関係する部分も少ないので、平定後に分配された諸大名の様子を列記しておくに留めよう。「十河物語」は「四国史料集」(山本 大編;人物往来社 昭和41年)に収められている史料で、これはその末尾の部分である。十河家の事蹟を簡単に述べた後で、なぜか島津家の栄誉に関する感状を掲げて終わっている。解題で山本教授が指摘しているように、この記録は十河家以外の何か別の史料の一部分ではないかと推測されている。興味深いので併せて転記しておいた。
この九州征伐で一番、貧乏くじを引いたのは言うまでもなく尾藤甚右衛門知宣である。原因となった根白坂の戦いについては(⇒❡)を参照されたい。宮部善祥坊につまらぬ因縁を付けられて讃岐を没収された後は北条氏や小笠原氏に仕えたと伝えられている。北条氏降伏の後、剃髪して秀吉の前に現れて寛大な赦免を乞うたが、却って秀吉の逆鱗に触れ捕縛され路上で手打ちにされたという(⇒❡)。さらに尾藤を客将として匿っていたとされる小笠原貞慶(⇒❡)も改易されたが、興味深いのは、先だって貞慶が北条征伐の恩賞として讃岐半国を与えられたという事実である。「戦国人名事典」(安部 猛・西村圭子編;新人物往来社 平成2年)にも「天正十八年の小田原の役では前田利家に属し奮戦した。その功により讃岐半国を与えられたが九州の陣の際、秀吉に追放された尾藤甚右衛門尉を庇護したため改易された。」とあるので事実なのだろう。しかし、讃岐一国はすでに生駒親正に与えられているのだから、その始末をどのようにする積もりであったのか知りたいものである。また、原典を含めてどなたかご教示賜れば、と思う次第。さらに尾藤は追放の時、秀吉から「奉公構」(⇒❡)を言い渡されていたということで、そうであれば、それが発覚して貞慶が改易されるのも道理であるとも思われるが、奉公構は江戸期になってからの掟と思っていただけに、それが厳格に施行された初期の一例として、こちらも話題性に富んだ逸話と言えるだろう。