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極私的音萌史

47卒 井手 浩一

 尾崎会長からの依頼はこの三十年の歴史を俯瞰する文章を書けというものでしたが、それだと長くなってしまうので、OB会発足以前と、出来た当時に的を絞って書いてみたいと思います。つまり、古い古い話です。
 1969年(昭和四十四年)の東高吹奏楽部(当時は音楽部の吹奏楽だった)は楽器も満足に揃ってない新興のクラブでした。低音楽器と名の付く物であったのはスーザフォンと弾き手のないコントラバスのみ。そのスーザでもってコンクールにも吹奏楽祭(秋にありました)にも出ました。幾らその当時でもこれは相当に恥ずかしい。コンクール前に道後中学にいらないE♭バスがあるというのを聞きつけて、貰いに行きました。ベルのひしゃげた腐ったような楽器でしたが、真鍮磨きで綺麗にして何とか見られる状態にしました。 コンクールが済んだらスーザのベルを的にして、その中にタオルや雑巾を投げ込んで遊んでいましたが、一年後に次の吹き手が現れた時にはそんなことは忘れていますから、何かが中に住んでいるとしか思えない音がしました。ベルに水を流し込んで洗ったら大量の雑巾が出てきました。翌年になってやっとバスクラとバリトンサックスを買って貰い、私は栄えあるバリトンサックスの初代奏者に就任しました(単に他に吹き手がいなかっただけの話です)。チューバなんて高嶺の花の楽器でした。
 入部して最初の部会に行くと、教壇で先輩が二人キックボクシングをしている。その一方が部長だということが分かって、これは入るクラブを間違えたかなと一瞬思いました。後で聞くと河野君もそう思ったそうです。そのY先輩には時々昼ごはんに連れて行って貰いましたが、私が新聞を読んでいると念力で紙が燃えて‥‥いや、先輩の持っていたタ○コが偶然紙に当たっただけのことです。その彼が楽器を吹くと、とんでもなく上手い。ロクに練習に来ないくせにどうしてこんな音が出るのかと思いました。
 一級上の先輩はみんな名人揃いで、ちゃんと練習したら凄い演奏が出来た筈なのに、これが練習に来ない。特に文化祭が終わった頃からは、クラリネットの国広さんを除いてはパタッと姿を見せなくなりました。勉強でもしているのなら我慢しますが、教室に行くとトランプをしたりチョークを投げたり(遠くから投げてうまく黒板の縁に乗ると面白いのだそうな)実に下らないことをして遊んでいる。まあこれは頭に来ますわね。ということで、プロジェクトチームを組んだ我々一年生は先輩ごとに担当を決めて毎日呼びに行きました。その中でも特に私はしつこかったようで、おしまいにはそのクラスの女性が同情してくれました。《S君‥‥こんなに毎日誘いに来てくれるんやけん練習に行っておあげ》今の東高にはつい最近までS.S君という金管奏者が在籍していました。一度お父さんの旧悪を暴露してやろうと思っていたのに。
 ただ、そこまでしても来ないものは来ない。仕方がないから七人とか八人で合奏をしますが、当然音が足りない。その場合は例えばクラリネットのパート譜を三枚並べておいて必要なところを拾って吹いていく。或いは日によってクラとサックスを持ち替えて細々と練習を続けていました。我々はとにかく音楽がしたかったのです。たとえ濁ったハーモニーだろうがいい加減なリズムだろうが、人さえ集まれば音楽が出来る。だから苦しい半年が経って次の新入生が大量に入って来て、それまで練習場には見向きもしなかった先輩連中が何も言わなくても現れるようになった時には正直《コンチクショウ!》と思いましたが、スコアに書かれている音が全部鳴る歓びには替えられませんでした。しかしあの突然の変身は何故だろう。一級下には可愛い女の子が多かったせいだろうか。
 その頃のクラブの運営は殆どが生徒に任されていました。というか、先生には相手にされていなかったというべきか。コンクールの指揮も生徒がしていましたが、本番の二三日前に杉森先生が来て下さる。少し聞いて《ちゃんと吹けてる人は三人ね》と腹の立つことを言う、それが当たっているだけに余計むかつくという‥‥別に恨んでいる訳じゃありません。確かにコーラス程は面倒を見て貰えませんでしたが、先生の言われることはいつも緊張して聞きました。《寸鉄人を刺す》というのは、あの人のためにある言葉でした。
 さて、二年生になった夏に『樫の木』の第一回の演奏会がありました。いや、実にカッコ良かったな。どこの音大でも『歌科』というのは独特の雰囲気があってハイソだそうですが、今は聖カタリナ大学の教授の三好幸夫さんを初めとして、みんなキラキラ輝いて眩しく見えました。何よりも高校を卒業しても同じメンバーと音楽が出来るというのはカルチャー・ショックでした。
 OB会が出来る前から東高には先輩が後輩の面倒を見るという気風がありました。夏になるとどこからともなく妙な先輩が近寄って来てあれこれ言う。それには知的な刺激があって憧れたものです。生来歌うことは嫌いではないので樫の木に混ぜて貰ってステージに立っているうちに、東高の仲間ともう一度吹奏楽をやりたいという気持ちが沸々と湧いて来ました。それで河野君や教男君と相談を重ね、西山さん、和田さん、佐伯さん、田窪さん、菅野さんたちに連絡してOB会を立ち上げました。それが1973年の夏のコンクールの日のことで翌年が第一回の演奏会、一番最初の名簿に載ったOBは三十三名でした。
 今年の演奏会が三十回目でそれに間違いはないのですが、実感としては七、八年にしか感じられません。本当にそんな時間が経過したのだろうか。第一回の演奏会では広大の吹奏楽部のOBだった和田さんのお世話で大型楽器を貸して貰えることになり、二人で軽トラに乗って広島へ行きました。帰りに今治のご自宅で晩ごはんをご馳走になりましたが、その時にスヤスヤ眠っていた赤ん坊が奈保子さんです。彼女は成長して東高に入り、お父さんと同じユーフォニアムを吹き、阪大でも音楽を続け、結婚して、今は母親になっています。第一回の演奏会が終わった後で佐伯健さんと松岡玲子ちゃんが急接近し、冬休みで帰って来た時には婚約発表、それが会員同士の結婚の第一号で大いに湧きましたが、その直後の会報には《佐伯ジュニア予想図》という塗り絵を付けました。最優秀作品には玲子ちゃんのお母さんがやっておられた喫茶店の『ピコ』の食事券進呈という触れ込みで。勿論ジョークですが何人か本気にした人がいました。良子ちゃんには大変失礼なことをしました。彼女もとっくにOB会員です。OB会があろうがなかろうが出会うべき男女は出会ったのでしょうが、もしかしたら私の知っている何人かの生命は今のような形では生まれて来なかったのかもしれません。
 まあ、何でも草創期が一番面白い。合宿でみんなの分の洗濯を纏めて依頼したら某先輩のパンツが紛失したり、その頃はまだ高校生だったK君(勿論弟の方)が当時好きだった女の子(髪がしなやかで肌が滑らかなのだそうな)の名前を連呼してOBを寝させなかったり、コンパをすれば女の子が泣いてあやうくパトカーで連行されそうになったりと、今思えばヒヤヒヤものでした。第五回までは人数も少なく練習場所も一定せず、これは続けてやっていけないのではないかという気もしましたが、第六回からは現役が強くなったのと歩調を合わせてメンバーが充実し、素晴らしい演奏が出来るようになりました。中田先生にクラリネットを吹いて頂いたこともあり、最後はメロメロになってしまったショスタコーヴィッチを客席で某N響トランペット奏者が黙って聞いていたなんてこともありました。第八回から後は市民会館の中ホールから大ホールへ脱出しましたが、そこからは飛田君や花岡君が語る方が適任でしょう。私は音萌の歴史で最高の演奏は伊藤君の振った『ローマの松』全曲だと思います。あの冒頭の色彩感はちょっと忘れられない。
 初期の運営は私と河野君と教男君でやって来ましたが、会長はずっと西山さんで彼が精神的な支柱でした。家一軒分を飲み潰す程奢って貰ったから言う訳ではありませんが、全盛期の彼のフルート程魂の籠もった音はなかった。今は体調を崩されてますが、是非もう一度あの音を聞いてみたい。第一回の演奏会の頃、私はワーグナーの音楽の息の長さに圧倒されていました。これは単純に四つに振ったのでは演奏にならない。自分のような日本人にこんな粘着質の音楽が表現出来るのだろうか。そう西山さんに相談したら《井手が本気でワーグナーをやりたいのなら、肉とワインとチーズをバンバン喰って気力と体力を付けて、それを出来る最初の世代になれ》と言われました。その言葉で指揮台に上がる勇気が湧きました。それ以来ワーグナーは私にとっては大切な音楽家です。
 さて、今年の東高はR.シュトラウスの『ドン・ファン』をやります。これは聞きしにまさる難曲で練習をしている浜辺先生や高校生たちは必死でしょうが、後ろで聞いているとワクワクしますね。楽譜を見せて貰うと《こんなん、どうやって吹くん?》という音符が並んでいます。恐らく歴代の自由曲の中でも屈指の難しさでしょう。最初の合奏の頃は《おいおい‥‥》だったのが最近は《お‥‥これはなかなか》に変化しつつあります。車にCDを乗せて毎日の仕事の行き帰りに一回ずつ聞いてますが、名曲は何度聞いても飽きないものです。愛知に居るはずの酒井君は頻繁に姿を現し、大判のスコアを片手に《この部分の編曲はどう思いますか?》とか言ってます。
 先日クラリネットのパート練習をしてつくづく思いました。これは確かに大人の音楽であちら発の音楽ではあっても、決して手の届かない物ではありません。あの息の長い旋律をどう繋げていくかという課題はありますが、高校生たちはみんな乗ってます。クラもサックスもフルートも《この旋律、好きです》と言って、♯が六つも七つも付いた楽譜をいきいきとした表情でさらっている。N響奏者の今井先輩にレッスンをして貰ったホルンも大丈夫でしょう。ということで、今年は○高に一泡吹かせてやろうぜ。
 大昔から現在に飛んだところでスペースが尽きました。三十年の間には本当に沢山の出来事がありましたが、それは歴代の会長さんや実行委員長さんに語って貰えばいいと思います。私自身は第二回の演奏会の後で一度死に損なって、そこから後は奏者として関わることは不可能になりましたが、指揮台の上やあるいはステージの傍でたった今この世に生まれて来たばかりの音楽に存分に浸らせて貰ったのは幸せでした。ホールで響いた音と違って、それは手つかずの無垢な美しさを誇っています。聞き手の反応を待つ前の、純粋な音楽です。この響きを独り占めにして良いのだろうかと思ったことも何度もありました。エピソードの中心にはいつも音楽がありました。音楽抜きではOB会は成り立たずここまで続いて来た筈もありません。次の十年も音楽を核にして、この歴史を引き継いで行って欲しいと思います。





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