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 同級生の死                           47年卒 井手 浩一

 
 
去年の十一月の末に同級生が癌で死んだ。自覚症状の薄いしかも発見の困難な部位での発病だったので、病気が表面に出てはっきりとした診断が下りた時にはもう手遅れだった。勤め先の千葉から松山に帰ってきて入院して二ヶ月足らずだった。十一月の半ばに松山在住の同級生の間に緊急の知らせが回ってきて、すぐ何人かで見舞いに行った。既に意識は混濁していたようで、挨拶は返してくれたがこちらが誰であるかはあるいは分かっていなかったのかもしれない。

 彼とは一緒に生徒会の運営をした。サッカー部の選手でとてもタフな男だった。土曜日の午後は、よく昼飯の後お互いの部活の練習の前に二人で城山の頂上までランニングに行ったし、時々はサッカーボールも一緒に蹴らせてもらった。しかし生徒会のことでは随分激しい議論をした。人前では一応こちらを立ててくれたが、二人になると「お前のやり方は気にくわん!」とガンガンやられた。こっちも応戦したから、そのシーンだけ見るとあまり仲が良くなかったように見えたかもしれないけれども、からっとした気分の男だったので、お互い後に何も残さずに済んだ。小野の彼の家にも何度も行って泊めてもらった。運動一点張りの男かと思ったら、ハイフェッツのレコードがあったりして感心したのを覚えている。いろんなことを面白がる才能のある男で、彼が生徒会室に駆け上がってくると途端に部屋の空気が明るくなるのだった。

 高校を卒業してから後の彼の進路は随分起伏が大きかったように思う。困難な方へ困難な方へと自分を追い込んでいくタイプで、どうしてそこまで意地を張るんだろうかと思って意見をしたこともある。しかし、無類の意地っ張りだったからとても聞き入れてはもらえなかった。通夜の席で同級生の一人が言った「意地を張り通した一生だったなあ」という言葉の通りである。その意味ではいかにも彼らしい生涯だった。ただ、あの意地と無理が彼の頑健な身体を知らず知らずの間に蝕んでしまったのではないかと思って残念でならない。彼と生徒会の仕事をしていた時にお世話になった高橋俊三先生(例の「がんばっていきましょい」の発案者)も数年前現職のまま亡くなられて、もうこの世にはおられない。我々は先生の言うことに素直に従う役員ではなかったので、よく体育教官室でお説教された。でもそれが長くなると「まどか」の出前をおごってもらえたのでこれはかえって有り難かった。俺は今でもあの卵丼(当然大盛りである)の暖かさとボリューム感を忘れない。今ごろ向こうでは「お前、来るのが早すぎるぞ」と先生に叱られていることだろうと思う。

 同級生の死は肉親の死とはまた別の意味でこたえる。高校生の頃は時間はまだ無限にあるように感じられたし、「死」は抽象的なもので身近なものではなかった。ただこうして三十年近くの年月がたってくると、自分の人生の区切りはいずれ必ずつけなければならないのだなと思う。正直に言って、それはとても怖いことだ。この恐怖感から逃れるためだけでもないけれど、最近は今やりたいと思ったことは後に延ばさないようになった。時間の許す限りどこへでも出掛けて行くようになった。

 いったい音楽とは何だろうか。どうしてただの空気の振動に俺たちは魅かれるのだろうか。音楽にとりつかれているのは俺だけではなく、回りにはミューズの神にたたられたとしか思えない連中が一杯いる。たとえば河野や尾崎や花岡に聞いてみたい。我々はどうしてこんな馬鹿なこと(中年になっても年甲斐もなくピッチが高いとか低いとか音が大きすぎるとか言い続け、あげくに酒を飲んではケンカしていること)をいまだに続けているのだろうか。

 去年の秋はアンサンブルコンテストに現役のクラリネット(六重奏)が出るというので、大いに燃えた。クラリネット出身だからという理由だけでもなく、俺は単純にクラリネットの音が好きなんである(不純な動機を連想する奴−特に河野−はカバに食われてしまえ)。高校生の一週間はおそらく大学生の一ヶ月に匹敵する。指導なんて立派なものじゃなくていくつかヒントを提供しただけだが、しばらく間を置いて学校へ聞きに行くと本当にびっくりした。アンサンブルの生成から発展の一部始終を見届けたという感じがして、これは貴重な体験だった。とてもいい思いをした。

 丸山真男は、調性の発見とソナタ形式が西欧音楽に普遍性をもたらしたという。この考え方はドイツ音楽にあまりにも有利だから全面的には賛成できないけれども、西欧の音楽が人種や習慣や自然環境を乗り越えるだけの、ある種の共通言語としての有用性を持っているということは確かだ。控えめに言っても、聞く方にも演奏する方にも時間と空間を乗り越えたという錯覚を起こしやすい芸術だということは間違いない。

 我々は1951年のバイロイトや1954年のルツェルンのフルトヴェングラーの「第九」の演奏を聞いて感動することができる。演奏からほぼ半世紀、曲そのものが作られてからだと180年近くがたつ。勿論ベートーヴェンが生きていた当時とは基本的なピッチが違うし楽器の構造も違う。しかし曲そのものはその誕生からずっと世代を超えて受け入れられてきたのである。俺は西欧の風土とは無縁のただの東洋人に過ぎないけれども、自分がその音楽に魅かれているということには理屈抜きの自信を持っている。この共感は見栄でもないし誰かの借り物でもない。自分の中に何世紀にも渡る西欧音楽の歴史に共鳴する部分があるのだろうと思う。その理由自体は良く分からないが、自分が歴史や音楽の大きな流れの中にいると実感できるということは素晴らしいことだ。クラリネットなんて妙なものはもともと日本にはなかったのになー、でもやっぱり妙に引き込まれるよなー、と高校生の演奏を聞きながら考えているのである。

 ただ、音楽をいくら真面目にやっても世の中の発展にはおそらく何の貢献もしないだろう。音楽は一人一人の個人のもので、国家や民族といった全体のものではない。そう割り切った方がよほど健康的だと思う。音楽は人間の感情を揺り動かすから、時として大きな社会現象を引き起こすことがある。しかし、たとえばナチズムとワーグナーのように音楽が特定の思想や信条のために利用されるのはとても不幸なことだ。確かにワーグナーの音楽はヒロイックで神秘主義的な側面を持つ。しかしその一方で、彼は徒弟制度の一番下にいるなかなか芽が出ない職人の愚痴(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕第二場)というようなものまで見事な生命力を持つ音楽にしている。あるいは、森の中で孤児として育てられたジークフリートが名前も顔も分からない父や母の姿を想像して歌う部分の痛切な美しさ(「ジークフリート」第二幕第二場)。そういう人間の弱さやはかなさも見落とさなかったワーグナーの一面を無視して、その音楽を支配の道具にしたり、自分たちの歴史観にとって都合の良いようにねじまげていくことには本当に腹が立つ。

 人間は役に立たないこと、意味のないことに限ってかえって情熱を燃やすひねくれた動物である。みんながてんでに好きな音楽を好きなようにやればそれで幸せなのである。好みや解釈の押し付けをせずそういう無駄やゆとりを許す社会は、まだましな世界であるという気がしてならない。

 I君。もう少し生きていればもっともっと面白いことがあったのに。今の高校生も十分ヘンで楽しいぞ。ほっといたら弁当持参で一日中練習してるぞ。物好きなのは俺たちだけじゃないぞ。

 




  

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