四半世紀前 高校生気質 54卒 門田充敏
音萌の皆さん、私が「あつとし」です。ユーフォニアムを咥えて舞台に座り、雑音を撒き散らしている者です。今◯北高校で国語教師をしています。学校関係者の皆さん、『愛媛県学校関係者職員録』等をご覧の際は戸籍名の「篤稔」で出ています。では何故「充敏」かと申せば、偉大なるベーシストの伊藤氏に「あつとし君、エエ胸しておるね」だの、同パートのおくるまミカ(仮称)女史に「あたしにも触らせて!悔しかったら触り返してみて」だの言われ、セクハラを受け入れんがための源氏名です。また音萌であることが教育委員会にバレた場合は、島原の乱前後の切支丹、戦前の共産党員のような扱いを受けますので、その難を逃れるための窮余の策であるとも申せましょう。
話は変わります。というよりも、遡ります。当時我々は15、6才の高校1年生でした。我々とは、今年出演した前述の水田君(Hr)や、米子君(Tp)、俊哉君(Tp)を指します。学校生活にも慣れ、授業前にはよくできる友人や親切な女の子のノートを写し、授業中はひたすら英気を養い、部活動に備え、部活動後は肩を並べ、手をつなぎ、仲睦まじく帰るブラス同士や同パート同士の3年生カップルを羨ましく眺める日々を送っていました。そして夏がやって来たのです。
全知全能の絶対権力者が杉森幹子先生(十何年か前、先生が演奏会当日の楽屋を訪ねられた際、教え子全員が、思わず直立不動になってお迎えしてしまったことが記憶に刻まれています)、2・3年生の先輩は神様であった時代に、また新しい神を見出したのです。それが卒業した先輩でした。先輩方は「ほじゃけんさぁ〜」「そのアイス、わしにもねぶらせてくれへん?」という松山臭い都会に雰囲気を醸し出しつつ、高校生の練習が終わったあとの学校で演奏会のための練習をしておられ、圧倒的な音楽の才能・知識・技術、下ネタのお下劣さと強烈な個性で我々を圧倒し、虜にしました。今年「身内の恥だ、ご先祖様」もしくは「コルサルフ・シンドロームの申し子」のような格好でOMEN-Tシャツ(初代NEMOシャツ1980年作成)をまとい、第1部に出演されていた西山さん(Fl)ですら、当時は目元の涼やかさと憂いを含んだ26歳の青年であったわけです。そうした先輩方は高校1年生の我々にはひたすら輝く畏怖と崇敬の的だったのです。そして音萌の会に入ることに憧れ、それが目標となりました。音萌が夏の中心に据えられたのです。
恒例の吹奏楽コンクール県大会銀賞&中島海水浴のパック行事が終了したあと、先輩方の姿が学校から消え、「堀江青年の家(クーラーなし・木造)」で合宿をしていると聞きました。我々高校生も、その演奏会に参加するため、課題曲と自由曲の練習を再び開始しました。当時現役は2曲だけの演奏だったのです。さて、演奏会に参加して思ってのは、「???」でした。個人ではあんなに上手なのに、どうして演奏会では……。けれど、何にしろ、舞台で一生懸命に楽しく演奏する先輩という人種を 見たのはそれが初めてでした。不覚にも「夏の思い出(別名『水すましの歌』)」の井手節に涙腺を潤ませ、ぜひとも吹きたいと思ったのもこの時でした、そして四半世紀というわけです。
※ 文中の伏せ字は管理人の好意です。
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