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「信仰と音楽」                            47年卒 井手 浩一 

  新約聖書の《ヘブライ人への手紙》の中に《さて、信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです》という一節がある。これがキリスト教の信仰の定義である。つまり、人間が死んだ後で救われることを信じ、そのことはまだ誰も見たことがないけれど、あらかじめ真実だと認めておくのが信仰という心の動きであると。この対極にあるのが次の文章のような考え方だと思う。

 このように「死」という概念を活用するためには、死がもう一つの生の始まりであるとする伝統的な信仰をあきらめておく必要がある。われわれが死後にもなんらかのかたちで存続することを期待するのは、それが「科学的にありえない」から間違っているのではない。それ(来世・輪廻・復活・往生その他)を信じてしまえば、「死」という人間にとって最大の難問が原理的に成立しなくなるから許されないのだ。(頼藤和寛著 「私、ガンです ある精神科医の耐病記」 文春新書)

 東欧のイスラム社会の一部では、男性は父方の名前を七代前まで遡って頭の中に入れ、何百年かの間に親族が受けた辱めの精算をすることを要求されているという。その義務を果たさないと一人前の人間としては扱って貰えない。従って、動機の良く分からない不思議な殺人が時として起こる。そういう息の長い考え方を持つ社会では次の世で救われるかどうかということが最大の関心事で、この世での幸福は二の次なのかもしれない。しかし、それを信じることの出来ない人間にとっては、現世の行動原理に来世を持ち出されるのは、試合時間を勝手に延長されたようでフェアでない。

 私は高校生の頃から宗教音楽に興味があって《レクイエム》をたくさん聞いて来た。オーケストラと合唱の作り出す響きが好きだったし、どの作曲家も《死》ということに向かい合うと他の作品では見られない生の姿を見せるような気がした。ただ、信仰のない自分が音楽の核心にどこまで近づけるのという疑問はずっと持ち越して来た。あれは死者の魂を慰め、いつか来る最後の審判に備える音楽であるから。
 その中でブラームスの《ドイツ・レクイエム》は異彩を放っている。この曲には通常の《レクイエム》にある審判への恐怖、信仰による救済という歌詞がない。全体がキリスト教の価値観に彩られていることは確かだが、音楽はもっと普遍的である。ブラームスの目は、おそらく異教徒にも向けられている。そのことは信仰心の薄さのあらわれだとして周りから随分批判されたが、彼は頑として内容の変更には応じなかった。
 中世のキリスト教会では祈りと音楽は全く同じ意味で、音楽抜きの祈りというものは考えられなかった(現在もそうだ)。従って典礼の音楽の楽譜は体系的に保存されているが、信仰に有害な音楽は排除され、楽譜は破棄された。ブラームスへの批判もその延長線上にある。しかし、彼は死者のためというより、親しい者を失って悲しんでいる人々を慰める音楽、生きている人間のための音楽を書いた。ブラームスは人の心の一番柔らかいところをそっと包み込んで揺さぶる。全曲を貫くその優しさには比類がない。

 ヨーロッパのクラシック音楽の中のビッグネームのブラームスにこういう面があったのでは都合が悪いのか、彼は結局信仰を得て死んだということを強調した文献を読んだことがある。その根拠は《彼は死ぬ前には最後の審判を信じると自ら言った》ということだったが、それはかなり疑わしい。
 ブラームスは、1853年、二十歳の時にシューマン夫妻に出会う。彼を世に出してくれた恩人である。ローベルトの方は翌年ライン川に投身自殺を図り、そのまま精神病院に入院して二度と出て来られなかったが、美しく才能に溢れた妻のクララは、それから四十年以上に渡って、ブラームスの憧れの対象になった。彼は大黒柱を失ったシューマン家の生活を支えずっとクララのそばにいたが、結婚という形では結ばれなかった。三年後、かなり長い時間を掛けて話し合った末に、二人は別々の道を歩くことにした。ブラームスは彼女と別れた後で、何人かの女性と激しい恋愛をしたが、クララへの想いは最後まで消えなかった。
 1896年、彼女の死が避けられないことを予感したブラームスは、《四つの厳粛な歌》を書いた。彼はこの曲は自分から自分への贈り物であると語り、公開の場で演奏されることを望まなかった。その曲の第一曲は次のように歌い出される。
 人の子らに臨むところは、けだものにも臨む。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼もまた死ぬのである。《略》人はけだものに勝るところがない。すべてのものは空だからである。《略》 皆塵からでて、皆塵にかえる。
 第二曲では現世の不合理を嘆き、第三曲で死は人間をすべての災いから解放すると歌う。最後の第四曲では《愛》を、信仰の上に置く。どのように雄弁に信仰を語っても愛がなければそれは騒々しい鐘と同じであると。こんな音楽を書いた人に《最後の審判》を後から押し付けるのは酷だろう。審判は厳格な選別である。救われる者は永久に救われるが、救われなかったら永久に地獄をさ迷わなければならない。そういう、あるのかないのかさえ定かでない世界を音楽で表現することにブラームスの神経は耐えられなかった。彼にとっての音楽はもっと近いところにあった。

 クララがフランクフルトで死んだ時、彼は遠く離れたイシュルの町にいた。ウィーンから回送されて来た電報を受け取ってすぐに電車に飛び乗るが、気が動転していたので乗り継ぎに失敗し、四十時間余り掛けて駆けつける。結局葬儀には間に合わず、棺の埋葬式に辛うじて立ち会うことが出来た。その無理のおかげで病気(肝臓癌)の進行を早め、翌年には自分自身が死ぬ。彼女が死んだ時のブラームスは六十三歳。クララは七十七歳。
 あるいは、別れた恋人アガーテ・フォン・ジーボルトの名前を音名に置き換え、五年間かけて弦楽六重奏の中に織り込んだブラームス。そういう行動を暗といい、未練がましいという人もいる(その通りだ)。しかし、アガーテの名前がなければあの美しい曲は決して成り立たない。
 クララ・シューマンはその死の十日ほど前に、ブラームスの誕生日に祝辞を寄せる。彼女は脳卒中の発作で倒れて療養中だった。彼は大変に喜んですぐに返事を書いた。

 最後のものは最良だった。この格言が七日付けのあなたのお祝いという、この世で一番美しいものが届いた今日ほど、美しく、私の身にあてはまったことはありません。千というお礼を申します。それから、あなたももうすぐに幸福な驚きを持ちますように……何よりも、もちろん、また健康な身体になるという素敵な気持ちを取り戻しますように。

 この直後にクララは二度目の致命的な発作を起こし、世を去る。従って、これが1853年の11月に始まった彼らの文通の最後の手紙になった。