灰クロム柘榴石(赤石鉱山)

  

 

 今から一年ほども前、ネットオークションに一個の鉱物標本が出品された。夢にまで見た赤石鉱山の灰クロム柘榴石である。S氏の美しい垂涎の標本を見るにつけ、愛媛県で最も美しい標本であろうこの赤石の秘宝をこの手にできる日を夢見て20年・・・。しばらくは入札も忘れてウットリと眺めながら呆然というか恍惚としている小生であった。オークション終了までの3日間は頭の中もどこか上の空で、同僚や学生もさぞ不審に思ったことだろう。ところが終了当夜、やむを得ない急用で落札時間にコンピュータの前にかじりつけない事態が発生!、取りあえず考える限りの高額を事前入札して外出。仕事終了とともに矢の如く帰宅して見るその結果は・・・嗚呼・・ただ嗚呼・・「高値更新」の無情な通知であった。さすがに全身の力も抜け、思わずその場に座り込んでしまった。それから1週間。諦めきれず悶々の日々を送る小生は、意を決し恥を忍んで懇願のメールを出品者のT氏に送信したのである。「20年追っていた鉱物で、どうしてもこの目で見て手元に置いておきたい。余剰の品が残っておれば顕微鏡的な残欠でも構わないから譲っていただけないか?・・」と。すぐに来た返信には「あなたのHPはときどき見ている。お近づきの証に一品を寄贈させていただく。小さくこんなものかと笑われないように。」・・首を長くして待つこと2日。届いたその標本は、笑うどころか、出品されていた品を凌ぐほどの肉眼的標本。灰クロム柘榴石特有の結晶面がキラキラと輝き、ルーペで見ると透明な翠緑色が光に映えて、ロシア産のウバロバイトと比較してもまったく遜色はない。高品位のクロム鉄鉱とのコントラストも良好でクロム柘榴石の色調をさらに引き立てているようだ。もう嬉しくて嬉しくて、何度も標本箱から取り出しては眺め、また大事にしまい込む動作を何十回と繰り返し、家人も呆れて横目で軽蔑を込めた冷たい視線を投げかけるだけであった。今もなおその動作が果てることなく続いている訳だが、誰に何と言われようとも、T氏のご厚意に心から感謝するのみである!

 

 さて、赤石鉱山の灰クロム柘榴石は、古くは、木下亀城先生の「原色鉱石図鑑」(保育社 昭和32年〜)に美しいカラー写真が掲載され、多くの鉱物愛好者を魅了してきた(下左 写真)。説明には「エメラルド緑色の柘榴石でクローム鉄鉱に伴って出る。硬度7.5,比重3.41~3.52 。赤石鉱山のものは2mm 内外の斜方十二面体の結晶をなす。・・」と記されているが、標本の所在として“北大標本”とあり、木下先生が保有するものではなく、それほど当時から稀少な標本ではなかったかと推測される。また、益富地学会館編集の「ポケット図鑑 日本の鉱物」(成美堂出版 平成6年)にも“クロム鉄鉱”の項に、「赤石鉱山のクロム鉄鉱は橄欖岩中に産出し、黒色で金属光沢をもち、緑色のクロム石榴石、灰紫色の菫泥石をともなう。」の説明とともに緑と黒の斑模様も美しい標本写真が掲載されているが、どんなに目を近づけてみても、灰クロム柘榴石が結晶なのか粉状なのかは今ひとつ明確ではないのが残念だ(下右 写真)。

 

       

(「原色鉱石図鑑」の標本(左)と「日本の鉱物」の標本(右))

 

 赤石鉱山は、「四国鉱山誌」(四国通産局 昭和32年)によれば、明治43年、神野某のよって発見され大正13年に明治鉱業の所有となった。戦前はクロム鉄鉱を主として採掘し、クロム鉄鉱が軍事産業に欠かせないクロムのほぼ唯一の鉱石であることから特に戦時中は盛業であったという。納入先はほとんどが昭和電工であった。戦後はクロム鉄鉱の枯渇に伴い、主として耐火煉瓦用の橄欖岩を目的に稼行されたが次第に収支折り合わず、昭和44年に赤石オリビンに譲渡されるも、隆盛を見ないまま倒産に追い込まれて昭和60年、寂しく閉山となった。このあたりの経緯は、「マグナイト残照」のサイトに詳しい。また、日本一高所にある鉱山としても有名であった。赤石鉱山でもっとも知られた坑道は、本山坑と呼ばれる東赤石北斜面の鉱業所跡である。此所には立派な橄欖岩作り?の事務所跡や索道基地の廃墟、果ては錆び付いたトラックに至るまでが当時のままに残っているので、その道のマニアには堪らない聖地となっている。小生も2000年4月に現地を訪れ、あいにくの雨模様の天気ではあったが、その有り様に感動するとともに坑道前で立派なクロム鉄鉱標本を採集したのである。ここは明治鉱業と赤石オリビンにおける長い間の従業員の“ねぐら”でもあったので一番規模が大きく設備も整った一大鉱山拠点であった。実際に鉱山で従事していた方の談話や沿革などは、安森 滋先生の「四国赤石山系物語」(平成18年)に非常に詳しく書かれてあるので参考にされると良いだろう。本坑の他にも、旧五坑や三坑、六坑、権現谷鉱体などの坑道跡が東赤石山中に点在しており、クロム鉄鉱の露頭を頼りに小規模に稼行されていたことが伺い知れる。「日本地方鉱床誌 四国地方」(朝倉書店 昭和48年)には、赤石鉱山の配置図(下図)が掲載されているが、原典は、「地質調査所月報」( Vol.4, No.12  (1953) )の「愛媛県赤石鉱山ヅン岩・クローム鉄鉱調査報告」(山田正春)であると思われる。

 

 これによると、旧五坑は、本鉱山中、最初に発見された鉱体で、東赤石から前赤石に至る八巻山稜の西および南斜面に4つの鉱体が賦存している。鉱体はいずれも20cm 程度のもので深部への連続性に乏しいため、ほとんど掘り尽くされている。高品位なクロム鉄鉱に鮮明な菫泥石の結晶を伴うのが特徴とされる。新鉱物となった“愛媛閃石”が発見されたのもこのあたりで、T氏によると、灰クロム柘榴石も同所で採集されたとのことである。氏の写真を見ると、崩落を防止するような石積みもあるようで、単なるズリ場ではなく採鉱のための小規模な施設などもあったのかもしれない。こうした高所の鉱山でもっとも必要なものは飲料水の確保であるが、先の「四国赤石山系物語」によると、ズリの上部には鉱山用の小さな水場も現存することから、しばらくは何人かの坑夫が泊まり込みでクロム鉄鉱を採鉱していたのだろう。安森先生の管理される赤石山荘あたりにも、もともとは“石室”と呼ばれる避難小屋があり、笹ヶ峰の丸山荘主人であった伊藤朝春氏が登山客の世話をしていた時期もあったそうだから、あるいは鉱山施設の一部を転用したものだったのかもしれない。伊藤玉男先生の「四国の山旅 赤石山系」(昭和38年)にはその貴重な写真があるので下に転載させていただいた。いずれにせよ、別子銅山と同様でクロム鉄鉱も露頭付近が最も品位が良いとのことなので、それに伴って灰クロム柘榴石や菫泥石の結晶も多産していたのだろう。それでは旧五坑の稼行時期はいつ頃か、ということになるが、安森先生は、赤石鉱山採鉱課長の井上信一氏の話として、「昭和7,8年頃、いったん採鉱し、その後、掘り残しを再掘した跡である。」との証言を得ている。クロムが軍事用のメッキや製鋼の原料として注目されるのは昭和に入ってからであるから、おそらく、それが正しいと小生も思っている。

 

 (石室と八巻山。このあたりを“天狗の庭“と称する。 「四国の山旅 赤石山系」より)

 

 六坑と三坑は、東赤石から権現越に至る東側の山稜にあり、もともとは同一鉱体と推測されている。いずれも脈幅は20cm 程度であり、短期間の稼行に終わったようである。さらに権現谷鉱体は、権現越の北斜面に位置し、脈幅は最大60cm ほどもあり、調査が行われた昭和27年頃には鉱量も多く最も有力視されていたが、余り発展することなく放棄されたようだ。結局、クロム鉄鉱を主体に出鉱しえたのは昭和13年がピークで、その後は橄欖岩の需要に依存する方向に変わっていったと考えられる。

 

 次に、この赤石鉱山の灰クロム柘榴石であるが、「日本鉱産誌 T−C」(地質調査所 昭和27年)には、“含クロム灰礬柘榴石”と称すべきものであるとの記載がある。双方、どこが違うのかと問われると小生も曖昧なのだが、化学式で書くと、灰クロム柘榴石はCa3Cr2Si3O12 、含クロム灰礬柘榴石はCa3(Al,Cr)Si3O12 、灰礬柘榴石はCa3Al2Si3O12 であり、Cr からAl の置換には連続性を有するということだ。この研究は北原順一氏によってなされたもので、氏の「愛媛県赤石鉱山産クロム柘榴石」(「鉱物と地質」 21~22, 1951)によると、内田義信氏が六坑鉱体の割れ目に沿って緑色鉱物が滑石を伴って現出するのを確認し、続けて提供された標本を分析したところ、一定量の Al 成分が認められたため、含クロム灰礬柘榴石と結論づけたとされている。ただ、肉眼的には結晶形を認めなかったとのことなので、あるいは結晶形をなす本標本とは別物であるのかもしれない。裏を返して言えば、論文の発表された昭和26年には、赤石鉱山では未だ結晶をなす灰クロム柘榴石(ウバロバイト)は確認されておらず、その後、美しい結晶が正式に見いだされたために、木下先生の「原色鉱石図鑑」あたりからその記載が始まったと結論するのは小生の拙速の極みというべきであろうか?・・取りあえず記して後考に委ねることとしよう。

 

      

 

 今、公的な施設で保存されている赤石鉱山の灰クロム柘榴石は極めて少ない。稀産の上、おそらく前記の理由で、昭和30〜40年にかけてしか採集できなかったからであろう。現地でも愛媛閃石より見つけるのは困難であると、T氏は語っている。ちなみに、上左写真は新居浜市立郷土美術館、上右は愛媛大学の標本(「四国産鉱物種 2010」皆川先生 所載)である。郷土美術館のものはまずまずの大きさがありそうだが、如何せん照明が暗すぎて、その細部を観察することができないのは返す返す残念。愛媛大学の写真を見る限り、粒の大きさも揃って美しいが色合いがこの通りかどうかは今ひとつ疑問である。また、愛媛県総合科学博物館にも四国通産局から寄贈されたクロム鉄鉱に伴う灰クロム柘榴石の標本があるらしいが、標本目録さえ公にされていないため不明のままである。一つくらいはまともな形で展示していただき、愛媛の誇る最高に美しい標本、−おそらく3本の指に入るだろうが−、その赤石の秘宝を広く県民に知らしめていただきたいと念ずる次第である。前にも書いたが、2001年に開催された“第6回国際エクロジャイト会議”の土居町市民講演会の席上で、「赤石鉱山のグリーンガーネットを採ってきてください!」と必死に懇願する一人のお年寄りがいたのを思い出す(付記;グリーンガーネットは、長島乙吉先生が秩父鉱山で見いだしたクロムを含む灰鉄柘榴石のことで、灰クロム柘榴石の正しい表現ではない)。島根大学の高須先生は、「エクロジャイトとは比べものにならない稀産鉱物で、おまけに鉱山も閉山されているので、それはまず無理でしょう。」と理を尽くして説明されたが、それでも、「あれは土居町の宝なんです。私は年を取ってもう山に登ることもできません。だから、あなた方に託したいのです。あれをもう一度、町民や子供に見せてやってください!」と猶も真剣に食い下がって、さすがの高須先生も困り果てて苦笑するしかなく、少々気まずい雰囲気で散会となったのだが、今にして思えば、あの老人の心情もなんとなくわかるような気がする。おそらく若い頃に見た灰クロム柘榴石の美しさを忘れずことができず、そして、それ以降もそれ以上の美しさを誇る鉱物に出会うこともなく、心の底で“グリーンガーネット”の妖しい美しさがずっと蛍の光のように灯り続けていたに違いない。今となっては、何処の誰とも知る由もないが、「これこそ、その土居町の宝ですよ!」と出来ることならこの標本を見せて上げたかったな、とふと思いを巡らすのである。年を取るのは誰でも同じである。下写真は10年前の赤石鉱山本坑前で写真に収まる小生。あの頃は日帰りで東赤石まで往復して、続けて夜の病院当直をこなしてもへっちゃらだったが、さすがに今はここまで辿り着けるかどうかも不安な体力の衰えを如実に感じる。出来ることならもう一度、東赤石に駆け上り、心ゆくまで採集して美しい赤石の妖精たちを我が物にしたいという願望だけが、あの老人と同じように、“こころの東赤石”を独り駆け巡っているのである。