銅山峰形香合

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 別子開坑三百年記念品として銅山関係者に配布された「銅山峰形香合」である。銅山峰を迂回するように牛車道が象徴的に表現され、米粒のような牛車までくっ付けて心憎いまでの演出である。純銅製の色合いも当時の荒涼とした別子の赤茶けた禿げ山をよく表し、いつまで眺めていても飽きない雅趣を有している。別子開坑三百年にあたる平成2年は閉山から20年近くも経過し、其処に神と仰ぐ銅山の勇姿はすでに無かったが、住友家が徳川幕府から開坑の許可を得た5月9日を期して全会社を挙げて式典をおこない、住友発展の礎となった銅山峰に向かってこころから感謝を捧げたのであった。この香合も、それを物語るように今も別子銅山記念館に大切に保存展示されている。

 

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                            (泉屋道、ラロック案、牛車道の概要。あくまで概要で道の曲折自体は正確ではない。)

 

 さて、この香合の題材となった「牛車道」は、広瀬宰平の主導で明治8年に着工し、5年の歳月と、当時としては10万円という巨額の資金を注ぎ込んで明治13年に完成した。全行程は別子本鋪から新居浜口屋まで28km余りで、特に銅山峰から立川中宿まではなかなかの難工事であったという。それまでは銅山峰から“馬の背”と呼ばれる急勾配の稜線を東平方面に下り、一の森沿いの稜線を越えて“落し(遠登志)”付近に辿り着き、渓谷を渡って端出場、立川に至るという、いわゆる「(第三次)泉屋道」が江戸時代から使用されていた。しかし、当時の記録が以外にもほとんど残っていないため、“落し”付近の経路は諸説紛々で未だ定まってはいないという(山村文化 第2〜4号 塩田康夫、高橋 幹先生論文)。確かに、今でこそ遠登志あたりは道路も改良され立派なコンクリート橋が架けられ、単なる鹿森ダムの穏やかな湖畔にしか見えないが、一昔前までは小女郎川と足谷川が合流する深い淵に奔流が渦巻く急峻な断崖地形で、重い荷を背負って渡河するにはどこも困難なため、仲持衆がどのようにここをクリアしていったのかは今なお大きな謎とされている。地図をみると、なにもこんな難しいルートを辿らなくても、現在の大永山トンネルに至る河又ルートや上部鉄道に沿う稜線を使えばいいではないかとも思えるが、当時の山岳を越える“表”街道は、ほとんどが沢沿いに徐々に高度を稼いで、それが尽きた処から一気に峠に向かって急登するという経路が取られていた。稜線伝いでは水も得にくく日陰もないという理由もあるだろうが、それ以上にとにかく最短であまり迂曲のないコースが経済的にも好まれていたと推測することができる。いくら楽でも小さな沢が入り組んでいると回り込むごとに行程が長くなるし、それだけ経費もかさむという訳である。これが江戸時代の道の掟であり一般常識でもあったのだ。運搬をすべて仲持という人力に頼っていた時代はそれでもよかったが、明治にいり銅山の近代化を推し進めるためには運搬路の問題が巨大な壁として宰平の前に立ちはだかった。

 来山したラロックは当然、従来の運搬路を「この交通路は山道という名にも価しない。人間1人が通れるだけである。馬どころかロバも山賊さえも通行できない。運送には使用不可能である。それはヨーロッパで山羊道と呼ばれているものである云々。」(別子鉱山目論見書全訳 住友史料館)と手厳しく“けちょんけちょん”に非難し、さらにここを整備したとしても「海抜742b以上からでは、その登攀傾斜の許容限度を超えてしまう」ので牛馬の通行は不可能で、ルート自体の変更を強く要請している。それを受けて宰平はラロックの目論見書を参考に牛馬の通行できる新道の建設を決断した。半世物語には「彼の新居浜より別子鉱山に至るの旧道は極めて狭隘険悪にして、物品の運送を総て背上に負ひて此の羊腸逶迆たる山路を上下せしものなり。殊に其の“セリ割”と称する処の如きは非常の難所にして通行最も艱めり。・・是に至りて宰平以為へらく此の険山を開き相当の道路を通ずるにあらざれば、到底鉱山の大事業大目的を完成すること能はざるべしと。遂に道路開築工事に着手せんとの考を起し、強ては牛車の自由に通行し得べき道路を開かんと欲して、之が設計を為すに至れり。・・」とその決意の程が語られている。長い間、ラロックの原案と宰平の牛車路はほぼ同じルートを指すものと思われていた(別子開坑二百五十年史話、住友別子鉱山史など)。ところが別子鉱山目論見書が全訳されるに及んで、ラロック案が、上図のように別子本鋪(東延)から西山の東斜面をトロッコ道で横懸けし、綱繰山付近をトンネルでぶち抜いてインクラインを使用、七番から大坂屋敷を乗っ越し西斜面に出て、河又、清滝を経由し“落し”に至るという、現在の県道47号線(大永山トンネルルート)にほぼ一致する“トンデモない”計画であったことが明らかとなった(別子鉱山目論見書 末岡照啓氏解説)。ラロックと宰平は一時、第一通洞開鑿計画を巡って激しく対立したと伝えられるが、それも両者の運搬ルートが余りにも異なっていたためと考えれば納得もできる。ラロック案は確かに理論的ではあるが、全長1kmの新たなトンネル開削(それも牛馬牽引のため、加背も従来の4尺に較べて2倍近く必要)と、立川中宿まで38km余りというその長大さが敬遠され、結局、折衷案として宰平の牛車道案が新たに想定されたと見られる。それでも従来の泉屋道の10kmが22kmになり、運搬速度も、文字の如く“牛歩”となった訳だから、登り2日+下り1日半、都合、口屋からの往復に3〜4日を優に要したという。

 

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                             (当時の牛車道。左は旧別子側、右は角石原付近。正面やや左に第一通洞が見える。)

 

 明治13年までにどうにか難工事を克服して、牛車道は一応、完成を見た。(真の完成は第一通洞が開通した明治19年とされる。厳冬期にも峰越しの通行が可能となったからである)一方、宰平は、仲持の仕事を牛に奪われた立川の人々に恨まれて山道から突き落とそうと暗殺を企てられたこともあったらしいが、ともあれ彼の初志は貫徹され、ここに別子銅山近代化の第一歩は力強く踏み出されたのである。開通成ったある秋の日、彼は二人曳の人力車に乗って、牛車道をゆるゆると登っていった。一昔前までの不便さが夢のようにも思われ、今は遠く去ったラロックと激論を交わした日々が昨日のことのように思い出される。錦繍を纏った深山幽谷の風情はそれにも増して筆舌に尽くし難く、「遠上寒山石徑斜 白雲生処有人家 停車坐愛楓林晩 霜葉紅於二月花」をそのままに、時の流れを越えて、自分があたかも杜牧自身になったような感傷に浸ったと語っている。しかし、心血を注いで自らの手で完成させたこの牛車道も、明治26年に彼自身が導入した上部鉄道によって、再び自らの手で葬り去る運命にあった。その寿命はわずか13年しかなかったのである。その後、二度と利用されることのなかった牛車道は至るところで崩壊が進み、立川から銅山峰まで辿ることはすでに困難とされている。にもかかわらず、別子開坑三百年の大きな節目の記念品としてこれが選り抜かれたところに、宰平の偉大さをなお賞賛し、別子近代化の原点がこの牛車道に存するという住友人の熱い思いを、小生は感じずにはいられないのである。

 

 蛇足ではあるが、この牛車の“エンジン”たる役牛の選定にあたって、宰平はわざわざ自分の故郷である近江から牝の「コッテ(コットイ)牛(特牛とも書く)」を取り寄せて使用したという。コッテ牛は力が強くおとなしいので扱いやすいというのが最大の理由であったようだ。銅山峰形香合の構図に合うように、牛車道の古写真のどこかにコッテ牛が写っていないかどうかくまなく調べてみたが、残念ながら小生の持つ資料の範囲ではそれを発見することはできなかった。ただ、明治10年代に撮影された新居浜口屋の写真にそれらしき牛が写っている(下写真)。「半世物語」によると、口屋の隣に牛の飼育+訓練所があって、付近はあたかも放牧場のような様相を呈していたと記載されているのでおそらくこれもコッテ牛なのではないだろうか。さらに、当時、地元産の牝牛は気性が荒く牛の胴尻を抑えるために、後ろに撞木のような横棒を付けて2人がかりで制御していたといい、その横棒があるかどうかが判断の決め手になるという。写真を見る限りそれらしきものは認められないので、それが彼女をコッテ牛と判断するもう一つの理由でもある。

 

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                       (新居浜口屋の古写真に写るコッテ牛。わかりにくいが右端にももう一頭かくれている。)

 

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