菱沸石(鷲ノ山)
香川県綾歌郡国分寺町の“鷲ノ山”は、全山、角閃安山岩から構成されており、古代より石材の産地として知られている。安山岩の“ガマ”と呼ばれる空洞には、良質の菱沸石や方解石が生成して、そうした珪酸鉱物の採集フィールドとしても斯界では有名であった。古くは、昭和7年に発行された「香川県地質概説」(香川県師範学校郷土研究部編 香川県教育図書)に記載され、皆川先生の「鉱物採集の旅 四国・瀬戸内編」(地人書館 1975年)にも、「・・鷲ノ山には三カ所ほど石切場があり、そのうち一カ所に沸石が多く、ほかの二カ所はごくわずかです。・・ここでは、しそ輝石角閃安山岩を掘り取っており、このなかの割れ目や多孔質なところのすきまに菱沸石ができているのです。無色透明または白色半透明、さっき述べた方解石の菱面体よりはもうすこし立方体に近いかたち、すなわちちょっとゆがんだ四角の結晶で、数mmから1cmくらいの大きさです。ガラス光沢で方解石よりもつよい光沢をもっています。・・」と詳述されている。六角板状を呈するものもあるが、ほとんどはここに見られるような少し変形した立方体を成すことが多い。この標本は残念ながら方解石との共存は見られないが、「日本の鉱物」(益富地学会館 成美堂出版 1994年)には菱沸石と共生する淡橙色の六角厚板状〜柱状結晶の美しい写真が掲載されている。今はほとんどの採石が中止されているので、すでに過去の産地となってしまったのが惜しまれる。余計なことではあるが、「鷲ノ山」の名前について、皆川先生は同書で、「ワシがたくさんいたので名づけられたかどうかは知りませんが、だんだん近づくこの山は、ワシ鼻のような出っぱりが見えるこっけいな形をしています。」と推測されているが、実際の山名は山麓に鎮座する“鷲峰寺”に由来するという。鷲峰寺は、鑑真和尚が都へ赴く途中、此所の五岳相連なる様子が、天竺王舎城の五山の一つ“霊鷲山”に似ることからかく名付けたと伝えられる(讃岐名勝図絵)。しかし、来日時にすでに盲目であった鑑真に鷲ノ山が見える筈もなく、確かに坂出側から見る鷲ノ山の形(下左)は、今まさに飛び立とうと羽を広げた鷲の姿(下右)を彷彿とさせるので、案外、皆川先生の指摘が正しいのかもしれない??・・
(左は“鷲”を連想させる、坂出市加茂町から見る“鷲ノ山”の勇姿。手前のラブホテルが何とも艶消しではあるが・・)
さて、鷲ノ山は、東讃の雨滝山と並んで、古墳時代の石棺製造プロジェクトの存在が明らかとなり考古学の世界では特に有名である。ここから切り出され加工された石棺は、県内の石清尾山古墳(高松市)、三谷石舟古墳(三木町)、快天山古墳(綾歌町)、遠藤塚古墳(善通寺市)をはじめ、遠く大阪府の、安福寺石棺や松岳山古墳などにも使用されていることが石材の成分分析でわかっている。角閃安山岩は柔らかく加工しやすい特性があるために、大型の石材加工を得意とする、(おそらく)渡来人系の技能集団がここに土着して業に勤しんでいたのであろう。さらに興味深いのは、次の「播磨国風土記」の記載である。
「印南郡 一家云 所以号印南者 穴門豊浦宮御宇天皇 与皇后倶欲平筑紫久麻曾国 下行之時 御舟 宿於印南浦 此時滄海甚平 風波和静 故名曰入浪郡。・・此里有山 名曰伊保山 帯中日子命乎坐於神面 息長帯日女命 率石作連大来而 求讃伎国羽若石也 自彼度賜未定御盧之時 大来見顕 故曰美保山。・・」
かい摘まんで言うと、兵庫県印南郡の名前の由来を述べた後、「神功皇后(息長帯日女命)が仲哀天皇(帯中日子命)の遺骸を神と仰ぎながら、(石棺を作るために)石作連大求(いしつくりのむらじおおく)を連れて讃岐国の羽若の石を求めに行った。まだ御盧(みいほ、殯宮(もがりのみや))を決めていないときに、讃岐から帰ってきて、大来が適当な土地を(印南郡に)見つけ出した。故に“”美保(みほ)山という。」くらいの意味だろう。風土記の成立は、八世紀初頭と言われているから、仲哀天皇の頃から300年余りしか経っておらず、讃岐の“羽若石”が、現存する奈良時代の数少ない文献に残されているのは非常に貴重なことだと思っている。それでは、“羽若”とはいったい何を表すのであろうか? 「国分寺町史」(国分寺町役場 1976年)や「さぬきの遺跡」(BIKO BOOKS 1972年)をはじめ多くの書物は、鷲ノ山南方に位置する、現在の「羽床」地域を示す地名であろうと推測されている。確かに“はわか”と“はゆか”は一字違いであり、平安時代の和名抄にも「波以可(はいか)」と記されているので、もっとも一般的な説として支持されている。ただ、“わ”から“い”への音韻変化には少々無理があり、鷲ノ山が羽床郷に属しておらず、羽床には石切場の遺跡がないことからも、これは地名ではなく、石材の石質を表す形容詞ではないかとの異論もある。貴兄は如何に思われるであろうか? ちなみに小生は、このあたりの地図を眺めていて、ふと“端岡(はしおか)”という地名が目に止まった。“端”は“は”とも読むので、これを“はおか”とすれば“はわか”から“はおか”への変化も十分考えられるのではないか? ただ、“端岡村”自体は、明治32年に国分村と新居(あらい)村が合併して誕生した新しい名前であるから、考察に値するような、そう古い地名でないのかもしれないが・・そう思って、地元の有識者に期待しつつ、Yahoo の“知恵袋”に疑問を投稿してみたものの、回答をいただけないままに期限が過ぎて削除されてしまったのは残念!せめて、此処に記載して後考に期待したいと思う。
(“石船”のバス停と、鷲ノ山山麓に安置されている割竹型石棺。内部には石枕も作られている。)
今、鷲ノ山の東山麓に鎮座する天神社には、この山の石材で加工された割竹式石棺が保存されている。天神様が、この石舟に乗って当地に来られたという伝承があり、付近の地名も“石船”という。元々は下手の池の畔から掘り出されたものらしいが、蓋もなく古墳から掘り出された使用品ではなさそうなので、岩子山の項でも述べたように、誇り高き“鷲ノ山”工人集団がわざとここに残した、最高のモニュメントだったのかもしれない。昨年の夏、40年ぶりに此所を訪れてみた。主県道から支道を少し登らなければならず、案内板もなにもないので地元の方に聞きながらやっと辿り着いた次第だが、屋根付きの四阿が建てられ説明版も設置されて大切に保管されているのは嬉しかった。「播磨国風土記」の舞台となった兵庫県印南郡にも“竜山石”と呼ばれる良質の石材を産し、現にこれを用いた古墳の石棺も地元には存在するという。しかし、それでも、神功皇后があえて讃岐の石材を求めたところに、いかに“羽若石”が神聖な特別な石であったかを如実に示しているようにも思われて、改めて敬虔な気持ちになった。小生が高校の頃、今は亡き父とふたり自転車で訪れた時は、石棺も野ざらしで内面には雨水が溜まり、石もだいぶ苔むしていた(下 写真)。それでも、まだ付近の石切場は盛業中だったので、もう少し石に興味があったなら、ついでに訪ねて標本を手に入れることも可能だったかもしれず、今にして思えば惜しいことをしたものだ。最近はことごとく廃業してしまい、石切場も草茫々となっているのは寂しい限りである。ここの沸石について、小生にはもうひとつの惜しい思い出がある。今から10年ほど前まで、東京の大塚駅付近に「凡地学研究社」という老舗の鉱物専門店があった。店内には国産の大型標本も数多く展示販売されていて、お店を取り仕切る菊地さんとの鉱物談義も楽しく、出張の折には必ずチェックするようにしていた。その片隅に、一抱えもありそうな、巨大な鷲ノ山産沸石標本が2個ほど置かれていた。菱沸石の結晶も大きく方解石も共存する一級品だった。大きさの割に値段も2,3万円程度で、買おうかどうしようかいつも迷うのだが、当時は官舎住まいで置き場所もなく、また今度にしようと、結局パスしてそのまま帰るのを常としていた。そうするうちに突然の閉店。短い閉店セールにも行けず仕舞いで、あの標本もとうとう幻となってしまった。「大きい標本だけど、もう採れないからそれは買っておいた方がいいよ。」と勧めてくれた菊地さんの優しい顔が、今も懐かしく思い出される。
(オッサンのような高校時代の小生と石舟石棺。)