砂金(吉野川)
以前、四国の砂金採集家にして研究家でもあるM氏から標本の提供を受けて、愛媛県宇摩郡新宮村の砂金について記事を書いた。新宮村を含め、徳島県三好郡山城町に至る銅山川沿いの河床は砂金鉱区にも指定され、明治時代には大々的に稼行されていたことが「明治工業史 鉱業篇」(日本工業会 昭和5年)に詳述されている。また、四国における他の河川にも砂金を産することは広く知られており、昨今のM氏の熱心な採集によって新たな産地が日々発見されているのはとても興味深く喜ばしいことである。今回、ふたたびM氏の貴重な標本提供を受けたので、高知県長岡郡本山町付近の吉野川の砂金を紹介したいと思う。もちろん銅山川は吉野川に注いでいるので吉野川から砂金を産しても何の不思議ではないのだが、本山町は徳島県山城町より上流にあって、砂金の起源は銅山川とはまったく異なるものである。さらに江戸時代には土佐藩によってかなり注目されたこともあったようだが、明治以降は銅山川のように鉱区として顧みられることもなく今日に至っている。しかし、明治42年に発行された寺石正路氏の「土佐遺聞録」(片桐開成社発行)に本山の砂金についての興味深い文章があるので、小生の下手な注釈を加えるよりは原文の方が良いと考え、ここにその全文を掲載して往時を偲ぶよすがとしたい。そのままでもさほど難解な文章ではないが、一部意訳ながら現代文に訳しておいた。諒とせられたい。さらに興味のある方は、国立国会図書館の「デジタルライブラリ」に一冊丸ごと公開されているので、そちらを当たって戴いてもいいだろう。(下写真右は寺石正路肖像)
『吉野川は四国一の大河で世間では”四国三郎”と称し、水源を伊予の瓶ヶ森に発し土佐の本川、本山を過ぎ、阿波に入って海(紀伊水道)に注いでいる。此の川に昔から砂金が採れるとの噂があるが空事だろうと思っていたところ、ある日、高知の博物家 今井貞吉翁を訪ねて話を聞くに及んで、これが単なる噂ではないことがわかった。
その翁の言うには「昔、藩政の頃に、一年の決算表のような書類があって、毎年12月25日には藩主の前で、五奉行が打ち揃って読み上げる習慣があった。五奉行とは勘定奉行、郡奉行、浦奉行、山奉行、倉奉行のことで、その際、藩主は必ずしもご出座ではなく、大奉行(家老?)が代理にてお聴きになっていた。正保(1645~1648)某年の読み上げ文の中に
一、砂金四百三匁也
内砂金卅六匁也
是は正保某年月日 本山より取り来るにつき伯耆(野中兼山)江戸表に持参いたし御前(藩主)へ差上る云々
また、その翌年の同巻物中に次の文があった。
一、砂金・・・匁也
内砂金卅貳匁也
是は正保某年月云々 以下前文と同じ
これは勘定奉行が読み上げた後、奉行に献じ、奉行より藩主に差し出す手筈になっている。以上2通の古文書は奉行 野中兼山の上申書で、紙の継ぎ目には兼山の印判が押されていた。
今井翁はかって、この文書を廃藩置県後の共行社の反古紙に発見し、これは珍しい物だと思っていたが、その後行方がわからなくなったのは大変惜しいことであった。とにかく一日に金卅六匁も拾うとは驚くべきことである。」・・このことから私は、野中兼山時代に吉野川に砂金を産していたことは疑いのないことであると確信を持ったのであった。
その後、私は明治15年に東京で開催される博覧会に向けて、高知県より出品物を調査するために勧業課勤務を命じられた。その時、高知7郡の割り当てがあったが、私はたまたま土佐郡を引き当てあれこれと思案するうちに、ふと例の砂金のことを思い出し、さっそく本山に出張して色々調べてみたが、遂に森集落の土居の和田兢郎に面会し、次の話を聞くことができた。
「天保年間に藩庁より2,3度砂金を採りに来たことがあった。当時、一日に5,6匁も得た記録が残っている。慶応3年に砲術家の利四郎が高知開成局の役員となり、砂金採集のため本山に来たが、この頃より砂金はまったく採れなくなってしまった。そもそも砂金を採るには秘伝の方法がある。今、ここの森集落の某家にはその秘法が伝わっている。当主は60歳に近いが、天保年間頃はまだ弱年にて父に連れられて採りにいったが、5匁や6匁、さらには10匁を越える物も拾ったことがあるとのことである。その頃は藩からの報酬に「流用」という切符があった。木材の船積みが不便なときなどに、正規の税金に替えるような手形を人夫に配り、これを賃金の代わりに貰っていたのである。砂金拾いの場合は、一人一日 米7合5勺分の流用切符を貰うだけで、その手薄なことは推して知るべしである。また砂金採りの作業は(吉野川の)水の少ない時が良く、9月10月11月に集中している。この寒中に素足で一日水の中に立ち、手足が凍えながら偶々10匁の砂金を拾っても、その賃金は高々米7合5勺に過ぎない。(私の考察では、金1匁を5円とし、米1升を時価15銭で換算すると、10匁でおよそ50円分の砂金を拾っても、その報酬は賃金11銭2厘に過ぎず、その労力に対する賃金の薄さは言語に絶して、ほとんど比較の対象にもならない。)だから、こんな砂金採集なんかもう嫌だ、取り尽くして無くなってしまったという事にしてしまえと、慶応年中には全然、砂金が出ないような所を採集していつの間にか廃絶してしまったと聞いている。しかし、取り尽くすという事はないので、今また採取をすれば有るのは間違いない。この老人は、維新後にまた申し述べる機会があれば(方法や場所などを)教えてもよいと言っているので、彼を呼んで詳細を聞くと良いだろう。・・」
私はこれは面白いと思い、その夜、さっそく老人に会いたいと伝えると、果たして老人が私を訪ねていた。老人は砂金採集の秘伝書(伝授本)を持参し、秘伝の由来や金の製法などを語ってくれた。その概要を次に示す。
「今は昔、私の祖先の某が猪を追って北の山中に分け入り、奥山を越え谷川を辿って遂に伊予別子(別枝)銅山の下流、新宮川の上流に至った。すでに日没を迎え、一件の民家に宿泊をお願いすると、はたしてその家は砂金採りの家であった。その夜の物語に家主がいうのは、この里は山の裏側(北側)で砂金を産している。あなたは山の表側(南側)に住んでいるので、おそらくそこからも砂金が採れるだろう、試してみなさい、採り方をお教えしようとの事で、3,4日も逗留して方法を見習い、帰って吉野川で試してみると実際に砂金が採れた。そこでその方法を一子相伝にして伝授し私の代に至った次第である。
その方法は、まず岩の形を見て砂金の有無を占うのである。岩の形を木火土金水の五形に見立て、“火”に属する岩は“火は金に克つ”ゆえにその下には金は存在しない。“土”に属する岩は“土は金を生じる”からその下には金が存在している。このような方法で5種類の岩を見ながら金の有無を判断するのである。採集には鈑金で作った“鋤”のような道具を使用し、場所は川底が一面“岩床”で、その中の窪みに砂が溜まっている所を選んで、その底をこするように砂を掬い上げるのである。砂だけで一日に12石も採るほどだ。その砂を淘汰するには一間の板の中央に幅六寸深さ三寸ほどの切り込みを入れて浅瀬に立てその切り込みより水を流し、その下流側に蓆(むしろ)2枚を敷いて蓆が動かないように四方に鉄棒を置く。切り込みの部分に砂を盛れば水勢によって蓆上を砂が流れていき、軽い砂は浮き上がって流れ去り、重い砂金のみが篩の目(蓆の目)の間に留まる。これを繰り返すと12石あった砂は1石ほどに減って、この1石を今度は“ゆり盆”にかけるのである。
“ゆり盆”の作り方は直径1尺8寸の丸い木地を荒く細工したもので、周囲は高く深さは約6分、中央にはさらに径6寸深さ6分の繰り下げ部分がある。つまり、繰り下げ部分は盆の辺縁より1寸2分深いことになる。この盆に先ほどの1石となった砂を適量入れ、水の落口にて盆を踊らすように回しながら、深さ6分一面の砂が中央の深さ1寸6分の窪みに減り行くまで揺らし続けると、窪みの底が見えるか否かくらいになった時、日にかざしながらその中に光る砂金を“毛抜き”様の物で拾い取って、“千成瓢箪”の様な器に移して保管するのである。砂金の大きなものは3匁くらいの“馬牙金”で、小さいものは小豆大くらいが多い。その中でも“茄子金”と呼ぶ物が最も多い。茄子金とは丸くて一方に帯のようなものが付いた形をしている。それ以下は“糠金”といって微細なものである。私がまだ15,6歳で父について行った時には、いつでも大きな金を5,6個は採ったものである。また茄子金がとても多かったことを憶えている。それから数十年は採っていない訳だから、今採集すれば、非常に大きな収穫があることだろう・・。」
私はこれを聞いて心を躍らしながら高知へ帰り、さっそくこれを採集して博覧会に出品しようと上申したが、どういうことか採用されずにそのまま断ち切れとなってしまった。その後、和田と私財を投じて採集しようと語り合ったが、その時機を得ないまま今日に及んでいる。
今井翁の談話は以上のような内容である。そもそも藩政の頃も(砂金がなくなったのではなく)砂金採集の報酬が少ないために廃絶した訳だから、一攫千金を狙う山師のような輩には語るべきではなく、ここに記して野中兼山のような経済に明るい賢人にこそ諮るべきだと私は思うのである。(結)』
(野中兼山の肖像)
如何だろうか?野中兼山が砂金採集に携わったことは、他にも寛文元年(1661) の「野中氏文書」に「預申金銀之事 一、砂金六百六拾九匁三分 本山にてひろい申分、万治元年卯月廿四日印詰之通 寛文元丑九月七日 野中伯耆 谷三助殿」の記録があることから事実であることは間違いない。殊に本山は兼山の采配地でもあった訳だから特に力を入れていたのだろう。また「土佐藩工業経済史」(平尾道雄著 高知市立市民図書館 昭和32年)には、馬場弥五六の「金山聞書」に「土佐国土佐郡本山の内に金山あるにや、川筋に砂金ありといへども其出所未詳、野中氏良継の時これを尋ね、元禄年中藤岡庄六、吉本忠次郎に仰せて、金の元を慕ふて薩州より金山の者を呼び、淵中に海士を入れて窺ふといへども終に未だ知れず・・」とあって、薩摩から金山師を呼び寄せて発見に努めたと言うから、さすがは野中兼山、土佐藩の財政救済のため本山の砂金にも一縷の望みを託していたのかもしれない。
明治以降は採掘されたという記録こそないが、産地の記載はさまざまな書物に残っている。たとえば大正5年に発行された「有用鉱物の産地及用途」(丸善)には、高知県の砂金の項に「長岡郡西豊永村 同東本山村 同田井村 同吉野村」と長岡郡に集中してその産地が記載されている。その起源は未だ明らかにはなっていないが、銅山川も本山付近の吉野川も、近くに橄欖岩や蛇紋岩の山塊があるのでそれに含まれる微量の金が集簇して堆積したものかもしれない。金以外にイリジウムやオスミウムなどが採集されることも有力な根拠となっている。今またM氏が付近の吉野川支流を中心に砂金の採集に努め、その分布の全容を解明しようと努力されていることに心から敬意を表するとともに新たな起源の謎が解明されることを期待して已まない。さらに、M氏は「四国砂金の会」を立ち上げ、吉野川での砂金採集会もしばしば催されている。こうした地道な活動で四国の砂金の存在や意義が若い人々に伝えられ、地質的にも歴史的にも価値の高い吉野川の砂金が、後世に伝えられれば素晴らしいことだと小生は思っている。
下図は、明治29年に発行された「大阪鉱山監督署 管内鉱山図」の銅山川と吉野川付近。◎印は砂金鉱床、♀印は銅鉱床、♂印はマンガン鉱床、Sbはアンチモン鉱床を示す。文字が右→左読みなのでわかりにくいが、上流は高知県本川村長沢付近から、下流の徳島県山城町川口まで砂金鉱床が点々と分布しているのが理解されるだろう。