新居浜分店と接待館
広瀬宰平の著した「半世物語」によると、彼はある夏の日、御代島で海水浴を楽しみながらふと考えた。
こうして新居浜を眺めていると、今ある分店(口屋)の位置は慣れた場所とはいいながら狭隘に過ぎる。
「我が鉱業前途の進歩に応じ、業務将来の盛大を慮らば、到底之を他の地に移転せざるを得ざるべしと。
遂に考案を定めて新居浜分店移転の議を起し、大に之が実行を謀れり。然るに店員中、殊に重役員中には
旧に安んじ、慣を慕ふの情念あると、転地建築費の巨額なるを恐れたるとに因り、躊躇して容易に同意
せざりし者もありしが、宰平飽まで移転説を主張し、終に分店を惣開に移すの議を纏め、明治二十一年に
起工し、同二十二年を以て落成を告げたり。」抵抗勢力を排除し決然と移転したのが絵葉書の分店である。
大正6年に、同地に別子鉱業所本館が新築されるまでは、このような純和風の建築が何棟も並んでいた。
道なりの正面には金子川河口に浮かぶ被曳船の帆柱が見えている。右側の板塀は接待館の一部であろう。
詳しい撮影年代は不明だが、道行く人々の服装や正面に回漕店がないことから明治後期の写真と思われる。
下は明治23年頃の接待館(左)と新居浜分店。接待館の門には住友の井桁入提灯が掲げられている。(右)
(黒塀の惣開接待館全景(左)とその拡大(右)。提灯に井桁が見える。)
この項では、接待館と泉寿亭についての私見を述べてみようと思う。あくまで推測なので叱正を賜りたい。
諸兄は、泉寿亭と接待館は同じ起源と思われていないだろうか?多くの書物にも次のように記されている。
「泉寿亭は、昭和12年に、別子開坑250年記念に来新される賓客のために建てられた接待館である。」と。
それはある意味正しい。しかし、この時初めて、「泉屋を寿ぐ意」を込めて泉寿亭と銘々されたのではない。
実際に「別子鉱山鉄道略史」の挿図を見ると、昭和6年の地図には惣開郵便局のほぼ向かいに泉寿亭がある。
それどころか、明治28年に伊庭貞剛が煙害対策のため呼戻した塩野門之助が旅装を解いたのが泉寿亭なのだ。
こうなると接待館と泉寿亭は、既に明治20年代という古い時期に双方とも存在していることになるのだが
この疑問に対して参考になる話が、単行本の「四阪島」(木本正次著 講談社)にあるので下に記しておこう。
明治41年、四阪島の煙害問題が越智郡に飛び火して、当時の支配人 久保無二雄は今治に釈明に出かけた。
ところが多くの暴徒と化した農民に囲まれ罵声を浴びせられ、住友出入りの「吉忠」という旅館に逃げ込んだ。
当時、「吉忠」の本業は回漕店であり、白水丸が寄港したのが縁で今治における住友の貨物一切を扱っていた。
旅館は航路の客や住友請負の港湾関係者を泊める必要性から生まれ、副業ではあったが大いに繁盛したという。
これと同じことが新居浜にも言えないだろうか?銅山の隆盛に伴い、人員や貨物を扱う回船業が必要となった。
当初は住友が汽船を購入して賄っていたが、次第に需要に追いつかなくなると、住友請負の回漕店が誕生した。
明治17年から増田回漕店が、大阪商船の取扱いを始めたのが新居浜では最も古く、木津川丸の事務長であった
竹岡郁太郎氏の父親が、その後を引き継いで開業したのが、前に述べた惣開郵便局向かいの竹岡回漕店である。
大正時代になると、石崎汽船、東予汽船、木村汽船、尼崎汽船なども参入し、熾烈な割引競争を繰り広げた。
その頃の新居浜は遠浅の海岸で、大型汽船は御代島にしか寄港できず、浜からは艀を用いて乗降客を運んでいた。
このあたりの事情は、黒川裕直氏の「新居浜港昔話」(新居浜史談第213号 1993)に詳しいので参考までに。
こうなると船客用の旅館が必要となってくる。「吉忠」の新居浜版であり、それが泉寿亭だというのである。
明治35年には、すでに住友指定の旅館であったことが、「四阪島」の中に明記されているのは注目すべきだろう。
(昭和30年頃の惣開周辺。左端に元泉寿亭の大きな建物が、中央に郵便局が見える。)
その後も二つの接待館は共存しあったが、大正以後は泉寿亭の方が賑やかになっていったのではないだろうか。
接待館は住友直営であり、どちらかといえば“格”という敷居の高さが感じられる。住友以外の利用もできない。
隣の部屋で上司や本社の重役が会食していると、萎縮してヒソヒソ話になってしまうのは今も経験することだろう。
それに比べると泉寿亭は、請負業の“ねぐら”という気楽さも有って利用しやすいし、ドンチャン騒ぎもできる。
周りを工場や病院に囲まれた接待館よりは、惣開通りという浜きっての紅灯の巷に位置するのも何かと便利である。
戦前には、船客や船員相手の芸妓楼や遊郭が立ち並んでいたのはどこも同じで、そうした“接待”も見過ごせない。
こうした経営はお高く留まっているだけではダメで、料理の質は言うに及ばず、広く顔が利かなければならないし
客の好みに精通し、仲の悪い客同士は鉢合わないような配慮も必要である。仲居や使用人の躾も相当な忍耐が要る。
如何にも政財界人風の住友人と、荒くれだった港湾関係者を同時に受け入れるには、相当な業が必要だっただろう。
昭和にはいりその隆盛が頂点に達したとき、「別子開坑250年記念祭」という空前絶後の式典を迎えたのであった。
昭和12年、東久邇宮を始め住友の要人を迎え入れるため、新接待館を昭和橋近くに新築し改めて泉寿亭と銘々した。
「躍進 新居浜」の中の「経営者は柳原竹市氏であるが温厚なる性格とすでに多年の経験に依り」という文面や
惣開の泉寿亭を「元泉寿亭」としていることなどから、この泉寿亭は、泉寿亭旅館の系譜を引くものと考えられる。
もちろんこれ以降は、住友の正式の接待館として系列会社の共同管理となり、一部は一般にも開放される訳だが
その支配人として、長年の接待旅館のノウハウを有する元泉寿亭縁故の柳原氏が選任されたのではないだろうか?
先にも述べたように、これはあくまでも小生の推測にしか過ぎないので、またご教示いただけたら、と思っている。
後、昭和17〜18年には、旧接待館の建物もそのまま移築され、平成初めまで浜きっての高級旅館として存続した。
惜しくも平成3年に全て取り壊され、跡地は別子銅山記念図書館となって、往時を偲ぶ建造物は何も残っていない。
ただ、愛媛県建築士会新居浜支部のHPに、当時の外観や内部の貴重な写真が掲載されている。下左は泉寿亭全景。
右下は別館から南庭への棟門。これは上古写真に写る接待館の通用門を、そのまま移設したものではないだろうか?
今残っておればおそらく重要文化財級であるだけに、老朽化を理由に棄却されてしまったのが惜しまれてならない。
(左は西から望んだ泉寿亭全景。左は見越しの松も美しい南庭への棟門。
愛媛県建築士会新居浜支部のHP より転載。)
その別館の一部が、マイントピアに保存されているのは言うまでもないが、これは昭和12年に新築部分である。
少なくとも客棟まるごとが第四通洞前の広場に移築されておれば、広瀬邸を凌ぐ史蹟としてさぞ圧巻だっただろう。
一方、泉寿亭の名跡が、今もリーガロイヤルホテル新居浜のスペリオルフロアに継承されているのは誠に喜ばしい。
一泊10万円也のスイートルームは庶民にはおよそ縁遠いが、地方にこれほどのホテルがあるのはさすがだと思う。
閉山から40年近くも経過し、市民の意識も次第に住友色が薄れていくのは否定できず、普通の田舎ホテルの感覚で
ジャージにサンダル履で出入りする人もいるが、リーガロイヤルホテルと住友本店の関係は戦前から一心同体であり
いわば分店と接待館との関係に等しい訳だから、そのドレスコードの格式はせめて守ってほしいと願う次第である。
(左はマイントピア別子の泉寿亭。右はリーガロイヤルホテル新居浜の泉寿亭。)