瓶ヶ森

[所在地]愛媛県西条市

[登山日]2001年7月14日

[参加数]4人

[概要]今回は、済生会熊本病院内科部長の野上先生をお迎えしての接待登山。松山から瓶ヶ森「白石小屋」に一泊して、翌日、土小屋から石鎚を極める予定であったが、悪天候のためあえなく中止。白石小屋での楽しい一夜と、翌朝の瓶ヶ森散策だけが思い出の一こまとなった。しかし先生が、白石小屋をとても気にいってくれたことは、なにより嬉しかった。古い日本座敷を彷彿とさせる畳の部屋。懐かしい五右衛門風呂。清潔なトイレ。フと下を覗けば巨大な空間に水が滔々と流れている・・。「ここには、坊がつるの法華院温泉がすでに失ってしまった懐かしい世界がある。実に愉快だ。四国の山もすてたものじゃないな」と。わたしたちにとっても瓶ヶ森はかけがえのない宝物。簡単に登れる山だけに、よけい大切にしてゆかなければならない。

 

[登山手記] 今回は「瓶ヶ森名所案内」と銘打って、最近のガイドブックではあまり書かれていない、瓶の見所をまとめてみました。白石小屋での夜話とでもしておきましょう。気楽にお読み下さい。(写真は、いろいろな機会の時のを寄せ集めたもので、今回の山行とは関係ありません)

T.笹ヶ峯、剱石

笹ヶ峯といっても、丸山荘のある「笹ヶ峰」ではありません。れっきとした瓶ヶ森の最高地点、いわゆる「女山」のことです。左は昭和11年発行の5万分図です。少し、写真が悪くて恐縮ですが、確かに氷見二千石原の緩斜面の右上に「笹ヶ峯」と読みとることができます。松長晴利先生は「四国の山と谷」(昭和34年)で「・・1896.7の個所が瓶ヶ森のピークであってこの山には笹ヶ峰と名のつくピークはない・・」と、陸軍陸測部の単なる記載ミスであると断言しています。ところが瓶ヶ森を「石土山」といただく石中寺縁起には「・・役行者は法仙に、女人は剱石(男山)をよけて、笹ヶ峰(女山)で権現を拝み、男子計り剱石に登りて拝み、子持権現では殊更に身を潔め、心の垢を拭ひ精進して権現を拝み、剱石(天)笹ヶ峰(地)と此の子持(人)と一体に利益成就、衆生済度をするがよいと云われて云々・・」と明確に記されています。つまり、瓶ヶ森の三山である男山、女山、子持権現が三位一体となることによって全能を得る教えであり、けっして陸測部の単なる誤記では片づけられない深い歴史的名称だと思います。「点の記」の時代には、「笹ヶ峯」が一般的な呼び名だったのではないでしょうか?ちなみに女山は「女人堂」とも呼ばれています。往古は堂宇などもあったのかも知れません。しかし、笹ヶ峯が二つあるのは確かに紛らわしく、現に「本川村史 社寺編」などでは、二つを混同してしまったために可哀想なぐらい大混乱をきたしています。過去の名前にしてしまうほうが賢明かもしれませんネ。

U.瓶壺

「瓶ヶ森」の名の由来となった瓶壺。これが自然のものか、人工のものか昔から議論が絶えません。自然のものとすれば、いわゆる甌穴(ポットホール)ということになりますが、甌穴であれば、付近に同じものが散在していないのが不思議です。また、あまりにも山上であるのも解せないところです。人工のものとすれば、いつだれが何のために作ったのか、資料はなにも残されていません。石鎚権現は、石鎚山に遷座する以前は、瓶ヶ森に祀られていたと伝えられています。其の寺の水場であったのかもしれません。北川淳一郎先生も「昔、ここが石土蔵王権現の社地であったと、ある人々の言うのが正しいかも知れない。」(四国山岳夜話)と語られています。さらに続けて「・・壺の底には小石が沢山たまっている。裸体になって、この小石をとり除いたらと思うが、さて、来てみると、水が冷たいので、飛び込む勇気が出ない・・」とも。

V.風穴 鳥越

瓶壺から鳥越に向かって、釜床谷を下りていくと10分ほどで、左のような洞窟に到着します。人一人がかろうじて入れる大きさです。風穴のようですが、由来を記したものもなく詳しいことは不明です。秋山英一先生の「霊峰石つち山」には、「・・じめじめした谷を下ると釜床峠に着く。ここから三十六王寺の名所へ行けるのだ・・」と記されています。昔は、石鎚山と同じ様な「三十六王子」信仰があったのかもしれません。三十六王子は、自然の岩や洞窟、滝などを信仰対象にしたもので、ここもその一つなのでしょうか?さらに下って「鳥越」は絶好の休憩地点となっています。鳥越岩が名物ですが、この岩も三十六王子の一つかも?戦前は、工藤米八氏の「鳥越小屋」がありました。河東碧梧桐が宿泊したことでも有名ですが、今は石垣のみが残っています。また、ここは子持権現直登ルートの分岐点でもあります。詳しくは平成10年10月10日の記事をご参照下さい。

W.つばめ返し

鳥越から子持権現に登っていると、左手に巨大な岩壁が見えます。瓶ヶ森西南部を支配する第三紀層の絶壁で、「つばめ返し」と呼ばれています。岩つばめが数知れず飛来するからだということです。つばめでさえこの絶壁は登り切ることができないという意味で、佐々木小次郎とは特に関係はなさそうです。この直下を走るシロジ谷には、八大竜王が棲んでいると伝えられ古老は恐れて近づかないといい、また、隣の「瓶壺谷」にも「瓶の主」(蛇)が棲んでいると云われ、かの松長晴利先生でさえ、「・・何となく幽玄な空気に満ちていて、心身ともに冷々とするものを感じて肝をつぶした。」と書かれています(「四国の山と谷」)。さらに、この付近には「のぞき岩」や「天狗岳」、「大剣」などの名所があるとも伝えられますが、もうどこのことかわかりません。次第に名前さえ忘れられていくのは寂しいことです。

X.大福寺平

青い屋根の瓶ヶ森ヒュッテ付近の遊歩道脇に、大きな岩とベンチが設けられている場所がありますが、このあたりを「大福寺平」と言います。伊藤玉男先生の「山のはなし」の中に「・・ほら、この先に大きな岩が見えるじゃろ?あの下の方に昔、大福寺があった。それであの辺りを大福寺平と言うんじゃ。・・」という一節があります。「西条誌」にも「・・頂の内に角力取場、宮とこ、八郎次池、えずば、等の小名あり。石鉄蔵王権現、往古はこの頂にましましたりといい伝う。」と瓶ヶ森に古く社殿や堂宇が存在したことが伝えられています。「大福寺」と寺名が記されているのは伊藤先生の著書だけで貴重ですが、これ以上の詳細は不明です。ちょうどヒュッテの位置付近にあったのではないでしょうか?発掘でもして、なにか遺構が見つかれば面白いでしょうね!

Y.鎖場

男山直下にある鎖場。大正14年に、石土山石中寺派の信者600人により懸けられたと伝えられています。この辺の事情は、会員の声「子持権現」に詳しく書いていますのでご参照ください。この鎖場は、子持権現の「子持懸けルート」にかかる前後7ヶ所の最後を飾る神聖な場所で、全ての鎖を合わせると石鎚山のものを優に凌ぐ規模を誇っていますが、残念ながら一昨年の台風で子持権現の斜面が崩壊して、現在、通行不能になったのはかえすがえす残念です。せめて、最後のこの鎖だけでもよじっていただいて男山に安置される石土権現にお参りしてほしいと思います。しかし、最近は、辿る人も少なくなったのか、次第に草深くなっていくのは寂しい限りです。

Z.白龍

戦前、多くの文人が、ある白骨樹を見るために苦労して瓶ヶ森に登ってきました。その白骨樹の名前は「白龍」。名付け親は、かの河東碧梧桐です。秋山英一先生の「石鎚連峰と面河渓」(昭和10年版)には、「・・河東碧梧桐氏は先年ここに遊んで、或る一樹に白龍の名を附けた。」とはっきり記されています。当時の絵はがきの中に、その貴重な写真がありましたので載せておきます。昇龍のような立松と、臥龍のようなねぜり松が仲良く寄り添い、その豊かな枝振りが見事で確かに名物の名に恥じない逸品です。場所は、後ろの笹原の感じから瓶ヶ森ヒュッテの近くだと推察されます。それから数十年が経過し、最近は美しい白骨樹もめっきり少なくなりました。白龍もすでにこの世には存在しませんが、せめて写真で、多くの人々を魅了した、在りし日の美しい姿をじっくりと鑑賞していただければ幸いです。