【細川頼春、阿波に下向、秋月に居城す】
南海治乱記・・・ 細川刑部大輔頼春は細川定禅か蹟を継て四国の兵衆を統摂すべしとて尊氏卿より四国の大軍を賜りて阿波国へ下向し勝浦の郡勝瑞の邑に安居す。其地勢を検校するに吉野川の大川を後にし平壌の郷里を前にし撫養の海浜を左にし中富川の激水を右にし豊饒険固兼備たる疆城也。頼春此所に居を占て国中を領掌し将軍家の命を奉行す。同国の守護人小笠原阿波守并板東坂西海部秋月の諸将等将軍家の命を以て頼春の幕下に属し勝瑞に来集して門前に駒を繋ぐこと繁し。讃州の橘家三木寒川の氏族藤原家詫間香西の氏族伊予の河野宇都宮土佐の郡司安芸本山吉良大比羅其外高岡幡多の兵将皆将軍家の命を以て頼春に属す。然処に予州の土居、得能、合田、二宮、多田、金谷、阿波の大西、讃岐の羽床は分際小身なりと云へども王命を受て一時も変せず屹然として義を守る。是皆要地に居して他の犯へきことなき故也。然とも南方の官軍属破て良将悉く戦死せしかば宮方は頼む所なく将軍家は威愈行れて勝瑞の繁昌日々に増れり。 (細川頼春、四国大将軍に任ずるの記;巻之一)
梅松論・・・・・御合戦の評定区々也けるに、或人の云、京都は定て襲来べし、四国九州に御着あらん以前の御うしろをふせがむ為に国々に大将をとどめらるべきかと申ければ、尤可然と上意にて、先四人は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人、同従弟兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、以上九人なり。阿波守、兵部少輔両人成敗として、国にをいて勲功の軽重に依て恩賞を行ふべき旨仰付らる。・・
(建武三年の項)
細川頼春は、頼貞嫡男の公頼の次男である。公頼の嫡男は和氏で、頼春の役目は長幼の序からして、あくまでも和氏の補佐ということである。三男は師氏で、後に淡路守護を任じられ三好之長に誅殺された尚春まで存続する(図1.参照)。「梅松論」の記事と合わせて、建武三年に尊氏が都の合戦に打ち負けて(⇒❡)九州に下る途中の播磨室津で細川一族が四国に渡ったことがわかる。この頃はまだ足利尊氏は朝敵で、彼が任命した守護がどの程度の権限を持っていたかは今ひとつ不明な点もあるが、細川惣領家の和氏が阿波国を、親の頼貞が公頼の弟で定禅の兄にあたる顕氏が讃岐を任されたとみるのが妥当ではないだろうか?彼らは阿波の秋月庄(徳島県阿波市土成町秋月)に揃って腰を落ち着ける。この庄は鎌倉時代から足利氏の所領であり、尊氏自身からこの庄に入ることを指示されたのかもしれない(「阿波細川氏の研究」若松和三郎;戎光祥出版 平成12年)。
確かに秋月庄は東西に長い阿波中央に位置し、吉野川の水運の便も良いが、何分、内陸過ぎて土地も狭隘で、大軍を終結させて移動させるには些か難があり、後年の貞治6年/正平22年(1367年)、頼春の嫡男、頼之の時代に18kmほど東方の勝瑞(徳島県板野郡藍住町勝瑞)に本拠地を移した。従って、治乱記の「阿波国へ下向し勝浦の郡勝瑞の邑に安居す」という表現は誤りである。しかし、惣領の和氏は南北朝の激動で上洛して幕政に参加し、晩年は勝瑞で悠々自適の隠居生活を送って興国3年/康永元年(1342年)に亡くなっていることや、正式に阿波守護識に任じられ正平7年/文和元年(1352年)に正平一統を破って京に攻め入った南朝方との激闘で死亡した頼春の墓所が秋月にあることなどを考えると、細川氏の居城が勝瑞と秋月に併存した時期もあったのかもしれない。
この頃の四国は、尊氏の武家方と後醍醐天皇の宮方が錯綜している時期で、阿波においては小笠原阿波守(義盛)、板東、坂西、海部、秋月氏などが武家方についた。小笠原義盛は鎌倉時代に阿波守護であった小笠原一族で、大西城(、徳島県三好市池田町ウエノ)を根城にしていたが、建武4年/延元2年(1337年)に讃岐の財田城に入って南朝側に寝返っている(⇒❡)。新参者の細川氏による圧迫と小笠原氏のプライドがそうさせたのかもしれない。義盛の一族(子?、従兄弟?)の小笠原頼清も次第に山間部に追い詰められつつも生涯、南朝側で戦っている。この小笠原とは別に大西氏も細川氏に抵抗しているが、同族なのか別の氏族なのかはよく分からない。戦国時代には大西頼武や覚養などが三好氏の配下として勢力を張っている(「阿波大西氏研究」田村左源太著 昭和12年)。讃岐では羽床氏、伊予では土居、得能、合田、二宮、多田、金谷氏など錚錚たる氏族も南朝につき、混沌とした南北朝の長い戦乱が四国でも切って落とされたのである。
図2.は、治乱記に記載される宮方、武家方の兵将分布図。この中で伊予の金谷氏は金谷経氏(⇒❡)のことで、義貞舎弟の脇屋義助(伊予下向後、ほどなく急死)とともに伊予に下り同じ新田一族の大館氏明とともに世田山城で細川頼春に対抗したが、千町ヶ原の戦いに敗れて備後に後退した(⇒❡)。従って元からの伊予国人という訳ではないが、治乱記の通りに記載した。
図1.細川氏の系図(部分)。公頼、頼貞の子息部分。(⇒❡)より続く。
(国立国会図書館デジタルコレクションより転載、一部合成)
図2.「南海治乱記」の記述に基づく宮方、武家方の勢力分布図。