【細川頼之、与州に出陣の記】

 

南海治乱記・・・貞治二年癸卯正月、細川右馬頭将軍家に申して曰、我父細川刑部大輔頼春に四国の大将軍を賜しより以来、宮方に旗を上る輩を攻め伏降る者をば帰服せしめて漸々に治平せしむ。然処に予州の河野は先君の御方に参しより以来、伊予の守護職に補せられて其高恩を受ながら将軍家の命を軽じ我威を恣にし去年、細川清氏に通じて国家の乱をなさんとす。今年我予州へ出陣し、凶徒の実否を糺定すべきことを乞う。将軍家赦免あって予州に発向せしむ。

           頼之、讃州笑原(のはら)庄に来て兵を聚め総兵四万人を以て二軍に分ち海陸二路より予州に向しむ。頼之、即ち石清尾八幡宮に詣で河野が罪を声し神に告て合戦勝利を得んことを祈り深く敬信して軍律を整へ威令を厳重にして出陣す。

           河野六郎通朝、これを聞て我が家人を聚め言やうは、我が家は本是伊予王子より今に至て伝来の所領なれば他人の償(ひろひ)有べきことに非ず、殊に我父対馬入道善恵、建武年中に氏族土居、得能と引合て尊氏卿に与力し、度々の軍忠を尽し伊予の守護職に補せられて今日に至る。我に於て野心なし、然るに去年七月、細川清氏が乱に予州の兵を出さざるに事寄て細川頼之が沙汰として将軍家へ訴へ予州討伐のことを申乞う。今度大兵を揚て当国へ攻入べき聞えあり、我眷属力を合て禦ぎ戦ときは勝と云ふこと有べからず、若し勝たざるときは先祖累代の地に尸(かばね)を曝べし。死生存亡此時に有りと議定して各々居城に楯籠る。

           然して細川頼之、大兵を発て予州に攻入て先ず世田山の城を囲む。河野通朝防戦して相守こと数十日に至る、城中野心の者出来て通朝を自殺せしめ世田山城陥る。夫より兵を進て温湯の城に至る。此城は通朝が嫡子、徳若丸通堯が守る所也。二月二日細川方の先陣、湯の城に取かけ矢合あり、頼之は阿淡の兵一万余人を以て道後大空と云所に到て陣を据え河野が与力の通路を絶て謀を廻す。国中の兵士、河野を捨て頼之に服する者多し。河野通堯、力を奪はれ温湯の城を守ことを得ず捨て高尾城に入る、大敵なれば防戦不相合して捨て恵良山に入る。是に於て必死の戦を為さんと欲する処に河野氏族并に家人等頼之の計謀に従て内通する由聞ければ国に止居ことを能はずして同国能島の村上三郎左衛門尉義弘、今岡左衛門尉通任を頼み兵船三百余艘に取乗り安芸国内海(うつみ)の浦に渉り夫より九州に赴く。

           細川頼之、国中の成敗をなし河野氏族并家臣の車を将軍方に服せしめ、先祖累代の所領を安堵せしめ、国中の宮方を破て其地を以て武家方に恩補し其外の闕所の地を以て守護職の領と定め国中の諸将に盟約を固くし師(いくさ)を讃岐に班す。即ち香河郡笑原郷に来て戦馬戦卒の行粧を整へ石清尾八幡宮へ社参あって立願成就の拝謝をなし、臨時の祭祀を修行し神慮をすすめたまふこと四月三日也。今の世に至るまで卯月三日石清水八幡宮に臨時の祭祀あり、是を右馬頭の祭と云也。古は甲冑弓矢を帯し騎馬を打つ、五十騎三十騎を以て神前に通り物す、今は其例は亡たり、国民此市に出ることを本旨とす。其後、頼之社頭を修造し末社に至るまで結搆し神領を附て其社人等形の如く備て安置す。薬師堂あり三重の塔あり、堂舎広大ならずと云へども丁寧なること抜群也。正保年中まで屹然として相続せり、今世邦君より修造あり、其仏閣を除て社頭を純一にし玉へば神威益盛隆にして利生凡民の上に及べり。    (細川頼之出陣予州記;巻之一)

 

予章記・・・・・東寺合戦、頼春討死ス。其最後ノ時、将軍御出有テ、今ハ別ヲ惜給テ何事モ思残スコト有バ申サルベシト仰セケルニ、御返事ニ思置ク事トテハ伊与国ノ事計リ也ト申サレケレバ、其心安ジテ思ラルベシト仰ケルヲ今ニ(頼之ハ)証拠ニ申サレケルト伝フ也。其後、細川相模守清氏、頼春舎弟ニテ当世権ネヲ取テ横行セラレケル程ニ、上意ヲ悪ミテ下国有テ後、頼春ノ子息頼之、細川家督トス。武芸ノ名士政道ノ輔佐タリシカバ河野対馬入道(通盛=通冶=善恵)共知己タリシガ如何成ル事カ有ケン、貞治元年九月ノ末、讃岐自リ当国ヘ取掛ラレケルガ、其比善恵感落(病気あるいは死)也。通朝(通冶の息)同晦日、瀬(世)田山ニ陳ヲ取、其日十死ナリシガ共ニ難儀ニ依ル也。同十二月六日、城相馳ケ戦フト雖モ、城ノ拵ヘ俄ノ事ニテ調ハズ、剰ヘ齋藤衆返忠致シ敵ヲ城中ニ曳入ケレバ忽チ落ケリ。通朝ハ城中ニテ御生害アリ。

          死体ヲバ瓦(河原)津道場ヘ取テ形ノ如ク喪礼ヲ行レケル。息男ハ徳王丸トテ童形ナルヲ、陳僧ノ有ケルガ抱奉リ高市ノ竹林寺迄落テ、翌日神途ニ隠置キ申ス。四五日ヲ経テ難波大通寺ニテ暫シ養育有リ。後ニ恵良ノ城ニテ元服有テ、六郎通堯トゾ申ス也。此時、勲功ニヨリ高市三男分大通寺ヘ御寄進也。其後、一族国人等ヲ卒ス。正月十六日、温泉ニ陣取リ同廿七日、湯月山ヲ圍ミ攻ル程ニ細川天竺禅門以下大略自殺セラル。其儘、大空(おおうつろ)ヲ攻ラル。城衆ハ大祝庄林国中ノ地頭御家人等也。斯ル処ニ武州(頼之)大勢ヲ卒シ道後ヘ打越ル。通堯、大空ノ攻口ヲ放テ高縄山ノ城ヘ楯籠ラル。又四月十日、武州大勢ヲ率シ高縄ヲ圍ラル。此時、河野一族心替シ武州ニ属スル間、高縄モ没落シヌ。味方衆モ方々ヘ退散シケリ。通堯、恵良ノ城ニ引籠給フ。爰ニ僧有テ能島城ニ来テ、此子細ヲ語リケレバ、今岡通任、村上三郎左衞門義弘相談シ、同廿二日ノ夜、浅海浦ニ押渡ル。中村十郎左衞門尉久枝、北方ノ所縁タル故ニ能美島ヘ送リ奉ル。・・・  (「群書類従 第14輯」(明治27年刊);国立国会図書館デジタルコレクション公開)

 

細川岡城記・・・同二年春、与州河野氏が去年細川清氏と一致せしを以て、頼之公、之を征せんと思ひ、先由佐の冠尾八幡に奉幣し、之従り北方大野郷八幡宮へ過り、神園の芽白の竹を切り旗竿とし、又箟原郷八幡宮へ至りて奉幣し、凱陣を祈りければ、不思議なるかな神廟揺動して、山鳩一羽飛出て旗に止りければ、大将を始め諸卒に至るまで感涙を流して百拝し、夫より宇多津を過り伊予に入る。相従ふ人々は香川・香西・奈良・安富・田村・草壁・神保・益田・矢島・三野・羽床・福家・真鍋・鴨部・三木・寒川・四宮・植田・十川・山田之徒数千騎前後に相従ひ、細井新介・由佐彌次郎・岡隼人・石丸金光・龍満四郎左衞門・乾次郎左衞門・漆原藤四郎・尾池玄蕃光盛・池内高教・中條弾正・渡邊次郎兵衛・後藤太郎兵衛・飯田主水之徒、近習と左右に従ひ、同月十五日、先つ手初めに生子山城を抜き、一條修理之介俊村を打取、八月、河野か本城世田山城を圍みけるに、城中粮尽て多く死する者ども有。十月十六日夜、田村十郎が営に失火有て、隣営之香西・草壁の兵大に騒乱す。時に乗て河野通朝、間道より迫る所を頼之是をしりて、惣軍を以て逐駈けるに、通朝遁る事を得ずして馬上にて自殺す。是に因つて予州の士皆細河公に降る間、十八日凱歌を唱へて帰陣有。即冠尾・大野・箟原の三社へ賽し、神領を寄附し修営をす。今の四月三日の市は此時より始る。因て右馬頭市といへり。・・   (「香川叢書 第二」収載;国立国会図書館デジタルコレクション公開)

 

 

          清氏を滅ばした細川頼之は2年後の貞治3年(正平19年)12月に伊予に侵攻する。これは永く北朝方で親交もある河野通盛に清氏討伐の加勢を依頼したにもかかわらず通盛がこれを黙殺したことの報復であるとされる。伊予守護職はもともと通盛であったが、暦応3年(興国元年)の細川頼春の伊予侵攻(⇒)以来は頼春に、“正平の一統”以後は通盛に(⇒)、足利直冬が上洛を開始した文和3年(正平9年)には頼之が任命されていたが今回の清氏討伐に際し頼之が再び河野通盛にそれを譲ったのである(⇒)。伊予の情勢はまだまだ南朝に流動的であり「予章記」の頼春の今際の際の言葉にあるように四国全土を細川氏の支配下とするには伊予守護識は必須であり将軍家にもたびたび掛け合ったがその願いが叶わぬうちに七条大宮で討死してしまった訳で(⇒)、本心では父の遺言を守るためにも守護識は絶対に手放したくはなかったであろうが、通盛の輔翼に対するギリギリの譲歩であるとともに、それほど頼之側の状況が逼迫していた証拠とも言えよう。清氏討伐は幕命でもあるから通盛も頼之と連動して何らかの出兵をするべきにも拘わらず、戦いが長引き、万が一にも清氏が勝利した場合には南朝に寝返ることもありとして“洞ヶ峠”を決め込んだのである。「予章記」で作者が「如何成ル事カ有ケン」と言葉を濁しているのは、さすがに河野の家名を汚す姑息な振る舞いとしてあからさまに記すのを憚っているようで寧ろ滑稽にも思えてくる。

          しかし、この“日和見”を頼之は決して許さず、ほとぼりも冷めかけた2年後の冬に阿波・讃岐の大軍を率いて伊予になだれ込んだのであった。時を同じくして通盛は病死し、一年前に家督を譲られた嫡子の通朝も、世田山城に立て籠もったが味方の裏切りにあってあえなく戦死する。通盛の(あるいは通朝)の判断ミスがそれまで隆盛だった河野氏の勢いを一気に危機的な状況に陥らせてしまったのである。通盛の死はあるいはそんな己に対する無念の憤死であったかもしれない。「細川岡城記」では細川頼之に従う讃岐武士の錚錚たる面々と世田山の戦いが他書と比較して割と詳しく記載されているが、「新居浜市史」などによると、生子山城(愛媛県新居浜市)の一條俊村(越智俊村)が討死したのは康暦元年の伊予侵攻時とする2次資料もありまだまだ考証の余地はあるだろう。「予章記」には、康安2年(正平24年)の細川典厩(おそらく頼之弟の頼元か頼有)による伊予侵攻時にも、俊村が生子山城に立て籠もったとも記載されており、最前線としての生子山城の重要性が強調されている(⇒)。また、「十月十六日夜、田村十郎が営に失火有て、隣営之香西・草壁の兵大に騒乱す。」も「讃州細川記」(「香川叢書 第二」所収)などでは康暦元年の伊予侵攻時の逸話として語られており「細川岡城記」との食い違いが見られるので注意が必要である。詳しくは康暦元年の項を参考にされたい(⇒;作成中)。

  さて、通朝の子息の通堯(徳王丸)は辛うじて世田山城を脱出して竹林寺から河野氏発祥の地である北条の神途城へ、さらに大通寺に移って一族の束ねとなった。まだ、17歳であったが翌貞治4年には早くも湯築城を守る細川天竺禅門を敗死させ、西に位置する大空城(岩子山城)の攻略にかかる。しかし、頼之の軍勢が湯築まで攻め寄せてきたので高縄城に立て籠もったのであった。細川天竺禅門は名前から細川一族とは思われるがこれ以外の事跡は知られておらず系譜も定かではないが、道後一帯は、当時すでに細川氏の勢力範囲であったことが偲ばれる。興味深いのは長宗我部元親が一條兼定追放後に嫡子の内政を移した大津城が別名、天竺城とも呼ばれたことで、細川庶流の天竺氏の居城でもあったことからその関係があるのかもしれない(⇒)。頼之の攻撃は高縄城にも及びこれが陥落したため、通堯は恵良山城に移り村上水軍の助けによって浅見浦から能美島に渡り遂に伊予を離れたのであった。その後、九州の南朝の懐良親王に従い伊予を奪還したが、15年後の康暦元年(天授5年)に政敵に敗れ下野した頼之の急襲によってあえなくその生涯を閉じた。享年わずかに30歳であった。図1.は通朝、通堯の依った足跡の一覧。伊予国は南朝側につく国人もまだまだ多く河野氏が一国を掌握していた訳ではない。土着した古代氏族だけに傍流、支流も多く一族の統率はなかなか困難であったと思われる。むしろ陸の領土としては概して高縄半島に限定しているようにも思われ、後ろ盾となる村上水軍や河野水軍の海の勢力と影響力はかなり大きかったのだろう。図1.に本項に関連する地名を挙げておいたが誤りがあるかもしれないので、忌憚なくご指摘賜れば幸甚である。

 

図1.河野通朝、通堯の関係する地名一覧図。竹林寺から神途へは三方が峰を横断したのであろうか?

        それとも、水軍の力を借りたのであろうか?       (原図は Yahoo地図 。(拡大は画像をクリック!))

 

           この事項における「南海治乱記」の後半は、頼之が戦勝祝いに笑原庄(現 高松市)の石清尾八幡宮を訪れたことと、現在も続く“右馬頭市”(右馬頭、市立祭)について記されている。「金毘羅参詣名所図会」では、伊予侵攻に当たって戦勝祈願に訪れた時の逸話が絵入りで記載されているので、これを紹介することとしよう。ところで、“笑原庄”の読み方は“のはらのしょう”だが、なぜ笑の字が“の”なのかは以前から不思議に思っている。この字体が始めて現れるのは「倭名類従抄」だが、元和3年版では“笑”ではなく“笶”である(⇒)。これがいつの間にか“笑”に当て字されたのであろうか?「乃波良」と和名が記載されているので「のはら」と読むのは間違いなさそうだが、“笶”にも“の”の音訓はなく不思議といえば不思議である。京都府舞鶴に鎮座する延喜式内社の「笶原神社」も「やはらじんじゃ」で「のはら」ではない。一方、「箆原」や「野原」も読みによる後世の当て字とも思われるがはっきりしないので、「阿讃戦国史」では原典に記載されているものを除いては「笑原」に統一したいと思う。

 

 図2.石清尾八幡宮で戦勝を祈る細川頼之。(「金毘羅参詣名所図会」より転載)

 

          「又伝ヘ云ふ、細川頼之が河野を攻めたる時、先づ当社に奉幣し神楽を奏せある。凡そ将たる人は廊廟の語、負新の言を聞くこと権謀の第一なりとて誓願怠らず。丹精を抽んで祈られしかば忽ち神殿の扉は鳴動し、山鳩一番(ひとつがひ)宮中に飛び来り東西に別れて戦ひけるが、西の方まけ、東の方勝ちてこれを追ひちらす。頼之は信心感応あって宿願いま開けぬと嬉び、馬、物具、戦具を用意し阿波、土佐、讃岐の三箇国の軍勢を引率し、伊予国に向ひて河野を亡ぼし終に四国を平均せられけるとぞ。」(⇒) 

           こうした神殿が鳴動して何らかのご神託を得る伝説は、織田信長が桶狭間の戦いに先んじて熱田神宮に参拝したときや(⇒)、あるいは人為的に鳥などを戦わせて戦いの吉兆を占う熊野の闘雞神社の儀式(⇒)など国内でも数多く知られている。居並ぶ兵士達を鼓舞する効果的な方法としても、“種も仕掛けもある方法”で普通に行われていたのかもしれない。同書では、頼之の凱旋を記念して彼の官名を冠する「右馬頭市」についても詳しく書かれているが、文章は「南海治乱記」とほとんど同じである。昔は勇壮な武者行列なども行われていたようだが、現在も「市立祭(いちだてまつり)」として露店が建ち並び盛大に継承されているのは喜ばしいことである。民俗学的には農耕馬を神社に奉納する「御馬頭(おまんと)」(⇒)や、馬のセリをおこなう「馬の市」に起源を唱える説もあるようだが、石清尾神社の場合は頼之に由来する郷土のロマンとして大切にしたいものである。

 

      

   Home