【康暦の政変。細川頼之、管領を罷免】
南海治乱記・・・貞治六年丁未十一月、細川頼之天下の執事として上京せしかば細川讃岐守詮春、其跡を続て阿波国勝瑞邑に居住して四国総兵官となる。応安六年、四国九国の宮方征伐の時、細川詮春四国の兵二万三千余人を率て豊後国に渉り嚮導を求て既に肥後国に攻入んとす。菊池、是を聞て力を落し降を乞て肥後国に帰る。是、詮春の武功也然して将軍家、九州を治平して上洛ありし時、伊予国の宮方追討使小笠原信濃守、武田蔵人太郎も涯分武術を加と云へども西伊予の地勢険阻なれば疾速の項をなすことを得ずして日を経る中に九州治平す。予州の宮方、是を聞て降を乞て日後敵対すべからずと領掌す。即ち両将より執事に告て詮春に服従せしめ両将も兵を引て上京す。故に四国悉く平治す。細川頼之、天下静謐の功を立て五年在京し、康暦元年に尾張武衛斯波義将に執事職を穣りて四国に下り、剃髪して常久と号す。・・ (細川頼之、執事職を辞して四国に帰すの記;巻之一)
図1.康暦の政変における細川頼之に対する確執の相関図。赤字と赤線が対立関係を示している。(拡大は画像をクリック!)
貞治6年(1367年)、管領に任じられた細川頼之を取り巻く情勢が次第に厳しくなることは、「細川頼之、足利義満の管領となる。」(⇒❡)で述べたが、ここでは有力な守護家との軋轢を少し詳しく述べ、「康暦の政変」への火種がいかに複雑に絡み合っているかを考えてみたい。図1.はその大まかな相関図で、赤字と赤線が対立関係にあることを示している。数字に沿って説明し、内容は「細川頼之(人物叢書164)」(小川 信 吉川弘文館 昭和47年)を参考にさせていただいた。
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佐々木道誉と斯波高経の対立・・白峰合戦で細川清氏が滅びると佐々木道誉は、足利幕府創業以来の長老格である斯波高経を管領に推薦する。ところが高経は武衛家として足利と同等であるという意識が強くこれを断った。そこで道誉は自分の娘婿である高経三男の氏頼を推すが、高経は自分の溺愛する四男の義将をその座につける。これが引き金となってその後も道誉流の斯波家に対する嫌がらせと義詮への讒言を行い、ついに貞治5年に高経は失脚し越前国に逼塞、その後まもなく病死した。そんな中で成長した嫡子の義将が佐々木道誉、ひいては自分の後に管領となった頼之を敵対視するのは当然で、永和3年6月に越中で起こった頼之と義将の所領を巡るトラブルで両者の関係破綻は決定的となった。
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佐々木高秀と細川頼之の対立・・佐々木道誉の嫡男である高秀との関係は当初は協力関係であった。応安3年(1370年)、六角氏頼が一子亀寿丸(満高)を残して歿したので、頼之は満高が元服するまで佐々木高秀猶子の佐々木高経(のちの高詮)が後見するよう幕命を下した、しかし、道誉が亡くなると六角家家臣が高詮排斥に動き、頼之もその要求に屈せざるを得なくなり高詮は後見のみならず近江守護も罷免されてしまった。父の高秀が激怒するのも当然で、佐々木家も協力関係から一気に敵対関係となったのである。
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山名氏と佐々木氏の抗争・・山名氏は出雲、隠岐の守護職を巡って佐々木氏との確執もあり、山名時氏も一時は足利直義党として南朝に属し義詮を京都から一時追放するなどしたが、頼之が管領となってから領国の保全を条件に北朝に帰順した。しかし、もっぱら斯波氏や渋川幸子に近い反頼之派の頭目の一人であった。嫡男の師義も、若狭の所領を佐々木道誉に妨害され南朝に降り、領土の接する頼之派の赤松則祐とも戦い親子共々、頼之の管領就任を推した佐々木道誉や赤松則祐とは領土や南北朝の政敵として対立し父と同じく反頼之派の武将であった。永和4年(1378年)、細川頼元(頼基)を総大将に紀州の南朝を攻めた際は勝手に撤退、帰京したため反転攻勢に転じた南軍に細川軍は大敗してしまう。怒った義満はあろうことか山名義理や氏清に指揮を命じて勝利したため、細川氏は全く面目を失った。
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土岐頼康と仁木義長の確執・・土岐頼康は美濃、尾張の守護であったが仁木義長が南朝に走って没落すると伊勢国守護も兼任した。ところが、貞治5年(1366年)に斯波高経父子が追放され管領に就いた頼之は、北朝に帰順した義長を伊勢国守護に再任したのである。頼康は従来、斯波氏に近い立場であったのでこれは報復人事であると感じるのは無理からぬところではある。さらに頼康の子の義行は侍所頭人であったが、応安3年(1371年)に佐々木高秀に交代となった。これも頼之に反感を抱く大きな原因であろう。頼之としてみればただでさえ強大な土岐氏が伊勢国司の北畠氏と結びつき南朝勢力が強大化するのを防ぐ意図もあったと思うが、頼之に怒って勝手に帰国した土岐一族には幕府の命令も届かず、両者の亀裂はもはや修復不能なところまで来ていたのである。
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細川頼之と渋川幸子の対立・・渋川幸子は将軍義満の准母であり、生母の紀良子以上に隠然たる権力を握っていた。対立は後光厳天皇の譲位に関することであり、頼之にとっては将軍家や皇族を巻き込んでの最も厄介な問題でもあったろう。発端は正平の一統(⇒❡)にまで遡るが、このとき北朝の崇光天皇は廃位され後村上天皇に統一された。翌年に南軍が京都に乱入し一統は一方的に反故にされたが、このとき北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王は南軍によって拉致され、賀名生に幽閉される。仕方なく尊氏は、都に残っていた光厳天皇の三宮である弥仁親王(崇光天皇の皇弟)をむりやり践祚させて後光厳天皇とし北朝が復活した。応安3年(1370年)、後光厳天皇は第一皇子の緒仁親王を東宮にしようとしたが、崇光上皇が自身の第一皇子の栄仁親王を立太子するよう異議を唱えたのである。頼之は後光厳天皇の申し出を許諾したが、崇光上皇側は渋川幸子らに縋って執拗に異を唱えたのである。結局、頼之が亡き光厳上皇の遺言状を確認して緒仁親王(後円融天皇)に決定されたが、渋川幸子との蟠りは相当深いものとして残った。さらに頼之によって九州探題を幸子の甥にあたる渋川義行から今川了俊に交替させられたことも遺恨となった。頼之が死に今川了俊が解任されると、九州探題職は再び渋川氏が世襲することになった。
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今川了俊と九州諸大名の対立・・九州における南朝への攻撃は頼之に九州探題を任命された今川了俊によって強力に進められるが、少弐冬資が筑前支配や大陸との貿易を了俊に横取りされるのではないかとの疑念を抱き次第に反抗的になったため、肥後の水島陣において冬資を謀殺した(⇒❡)。これに憤った島津氏久、大友親世、大内弘世らは帰国してしまい以後の作戦に支障をきたしてしまったが、弘世嫡子の大内義弘らを懐柔してなんとか劣勢を挽回できた。また最盛時には了俊が筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護を兼任し強大な勢力圏を形成したため、次第に義満に警戒されるようになる。水島の変で帰国した島津、大内も了俊と完全に和睦することはなく、隙さえあらば了俊の失脚を狙いその背後にいる頼之も敵視するようになった。
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足利氏満の野望・・第2代関東公方の足利氏満は、土岐頼康、佐々木高秀らが頼之へ反旗を翻すのと同期して上京を企てる。これは頼之とともに義満も葬って自分が将軍になろうという野心が働いた結果であるが、土岐氏らが旗頭として担ぎ上げようと事前に工作していた可能性も高い。さすがに関東管領の上杉憲春が諫死したために中止、義満に謝罪せざるを得なくなったが、以後も将軍家への対抗心は連綿と高まり続けるのである。
かくして永和5年(1379年;3月24日よりは康暦に改元)1月、土岐頼康が美濃で挙兵、佐々木高秀が近江で挙兵すると最初は彼等への追討令を発するが斯波義将が追討より彼等の赦免を願い出ると義満も素直に従った。だが、これが契機となって反頼之軍が続々と入京し4月14日には“御所巻き”(⇒❡)で威嚇、その圧力に屈した義満は頼之に京を退出するよう命じ、細川一族三百余騎は同日、自亭を出て四国へと落ちていった。新しい管領には斯波義将が任命され頼之の任命や法令は次々と覆っていく。頼元は摂津国守護を解任されその他の守護も大幅に改替された(⇒❡)。さらに南朝の河野通直が北朝に帰順すると義満は通直を伊予守護職に任命して7月には頼之追討令が発せられる。また、阿波山岳部で抵抗する細川清氏嫡男の昌氏(正氏)の活動も活発化するが、その機先を制して11月には細川一族をあげて伊予に侵攻して通直を瞬殺し、昌氏の抵抗も封じ込めてしまった(⇒❡;準備中)。それに驚いた義満は急に態度を軟化させるとともに頼元の赦免運動も効果をきたし2年後の永コ元年(1381年)3月に一応、頼之、頼元の追討令は解除されたのである。この政変の背後に義満の意向が強く働いたのは明白で、その我が強く利かん気の性格を頼之も早くから認識しており、こうした事態が起こりうるのは十分に予想していたはずで、四国の兄弟の絆を強くして氏族内で分裂が起こらないよう万全の防御策を張っていたと考えられる。後に続く“明徳の乱”や“応永の乱”のように一族の分裂を利用して挑発を繰り返し謀叛を起こさせて強大な守護家を弱体化させるという幕府の“伝家の宝刀”の第一の犠牲にならなかったのは単なる幸運だけではなく、頼之の周到な準備と行動力によるところが大きいと言えるだろう。その後の経過は「細川頼之、伊予に侵攻。河野通直戦死。」(⇒❡;準備中)、「足利義満、厳島参拝後、宇多津に逗留。」(⇒❡;準備中)、「明徳の乱。山名氏清死す。」(⇒❡;準備中)を参考にされたい。
なお、「南海治乱記」では康暦元年の政変には触れず「細川頼之、天下静謐の功を立て五年在京し、康暦元年に尾張武衛斯波義将に執事職を穣りて四国に下り、剃髪して常久と号す。」と略記されるだけである。続く伊予侵攻と河野通直討死についても「予州の宮方、是を聞て降を乞て日後敵対すべからずと領掌す。」とあるだけである。治乱記と同時期に成立の「讃州細川記」(「香川叢書 第2」(国立国会図書館デジタルコレクション)⇒❡)にはそれなりの詳しい記述があるので、なぜ香西成資が、この時期の最もセンセーショナルな頼之の追討とその後の起死回生の記事をまったく省略したのかは不思議としか言うほかない。
図2.康暦の政変で、四国に下野する細川頼之。彼方に西宮の船着き場が描かれる。
「花営三代記」によれば、細川一族は4月16日に西宮から船で四国に渡ったという(⇒❡)。
(「絵本日本外史
第4冊」より転載、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)